3-5 think ⑫
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暗い車内から、ヒカルは遠くの柱時計に目をやった。時刻は十八時を回っていて、高速のサービスエリアは混み合ってきている。三人は休憩のために車を下りたが、ヒカルは独りになりたい気分だったので車に残っていた。
今、ヒカルの中では、一日の思い出が目の裏を巡っている。今日したことや見たこと、食べた物や聞いた物、その全てが思い出になっていくのだ。そこには姉のアオイがいて、恋人のリリカがいて、そして淡路の姿がある。
車のシートにだらしなく体を預けて、ヒカルは伸ばせるだけ脚を伸ばして伸びをした。
車内は寒くなり始めていたが、今すぐ暖房を必要とする程ではない。外は気温が下がり始めているようだが、とても雪が降るような気温ではなかった。
また雪が降ればいいのにと、ヒカルはポツリと呟く。先週積もった雪は、もう既に溶けてしまった。
反対側のドアが開いて、ヒカルは顔を向ける。リリカが戻ったのだ。
「のど飴と限定のポッチーと、限定のいちごティー」
袋をガサガサさせて、リリカは買ってきたばかりの品を膝の上に並べている。紅茶は、掌に乗るサイズの紙パックだ。
「限定に弱いね」
「ヒカルだってそうでしょ? これ、写真撮って載せようかな~って」
リリカはSNSの話をしている。今日撮った動物と触れ合う様子も、バンジージャンプの模様を収めた動画も、既にアップしているようだ。
人数分買ったと言って、リリカはヒカルに紅茶を渡した。
今はなにか飲みたい気分ではなかったが、ヒカルはリリカに礼を言って受け取る。小さな紙パックには、可愛げのないイチゴのキャラクターが描かれていた。その左右の目は、どこか焦点が定まっていない。
「ヒカル。まーた、変なこと考えてたでしょ?」
「どうして?」
「違う? なんとな~く、そんな顔してるなって思ったの。アンニュイな感じ」
思い悩んでいることが表情に出てしまっていたのかと、ヒカルは自分を恥ずかしく思った。
リリカは、ヒカルを責めているわけではなかった。むしろ彼女は、ヒカルのことを心配している。
「……また、変なこと言っていい?」
ご自由にと、リリカは返した。彼女は化粧を直してきたが、恐らくその話ではないだろうと予想がついている。
「僕ってさ……シスコン?」
「気付いてなかったの?」
リリカはのど飴の袋を開いて、中から取るようにヒカルに促した。
ヒカルは勧められるがまま、飴の袋に手を入れる。
「……前から?」
「ん~。多分、初めてあった時から。もう、ずーっと。……ねえ、淡路さんじゃ嫌なの?」
嫌なわけがないと、ヒカルは返す。それから直ぐ、彼は手で額を覆った。心の中では正反対のことを考えていると、不意に気付いてしまったのだ。
リリカは呆れた様子で、飴を口に放り込んでいる。
「いい人じゃない。今日だって、多分、私が好きそうなところを選んでくれたんでしょ? そうすればアオ姉も喜ぶし」
気付いていたのかとヒカルが尋ねると、リリカは頷いて応えた。そして、楽しかったのは本当だと付け足す。
リリカは自分よりも周りを見ているのだなと、ヒカルは彼女に比べて自分が子どもに思えた。
「ヒカルがアオ姉を取られたくない気持ち、分かるよ。むしろ、当たり前だと思う」
ヒカルはリリカの言葉の真意を尋ねながら、彼女から貰った紅茶のパックにストローを挿した。
「地震のあった時、アオ姉って、今の私たちと同じ位でしょ? そんな歳で五歳の弟を抱えて、必死になって育ててきてくれたわけじゃない? それってもう、お母さんと同じだと思うの」
ヒカルは無言で頷いた。アオイは自分を育ててくれたが、彼女は自身の学業も決して犠牲にはしなかった。その生き方を、ヒカルは尊敬している。
「お母さんが取られるってなったら、誰だって嫌だって思うでしょ。だから、普通」
「……それじゃ僕、マザコンじゃんか」
ヒカルは口を尖らせる。
リリカは、同じことだと返した。
ヒカルはリリカから貰った紅茶を飲みながら、険しい顔をしている。紅茶は、彼の予想以上に甘かった。頭痛がしそうな程だ。
リリカは溜息を漏らすと、膝の上に並べていた菓子をカバンへ押し込んで、それからヒカルの方を向いて座り直した。
ヒカルが顔を向けると、リリカは彼に同じように向き合うように言う。
「ほら。他は?」
リリカの顔は真剣で、茶化しているような様子はない。
「全部、聞いてあげる。どうせ、他にもあるんでしょ? 言いなさいよ」
今なら相談料はタダだとリリカが冗談を言ったので、ヒカルは笑った。彼女の優しさと明るさが、ヒカルの心を軽くしてくれるようだ。
リリカはヒカルに、彼が昨日口にしていた「本当の姉弟」という疑問について尋ねる。どうしてそんなことを思ったのか、切っ掛けが知りたいのだ。
ヒカルは少し躊躇って、それから「顔が似ていない」と言った。
「……そんなこと?」
「いや、だってさ。似てないじゃんか。アオ姉は凄く美人で、可愛いのに。僕は全然、そんなことないし」
ヒカルの表情を見るうち、リリカはふと、自分の最大のライバルは彼の姉ではないかと思い始めた。
「それぞれ、パパとママに似ただけでしょ? 写真とか見れば分かるじゃない」
「写真、無いから」
「本当? 一枚も? 見たことないの?」
「無いよ。全部、地震の時に無くなったんだってさ。……アオ姉、この話は嫌がるんだよ」
ヒカルは小学生の頃に同じ質問をして、アオイと大げんかになったのだと言った。滅多に怒らないアオイが大声を出したので、ヒカルは彼女が地震のことを思い出したくないのだろうと考えている。
ふうんと呟いて、リリカもヒカルと同じように紅茶を口にした。程よい甘みが、口に広がる。良い香りが口の中に広がると、リリカには素敵なアイディアが見つかるような気がした。
「……ねえ。じゃあ、戸籍は? 写真は無くても、戸籍にはパパとママの名前が載ってるでしょ? そうしたら、本当の家族だってことも一目で分かるじゃない!」
リリカの目はキラキラと輝いている。
ヒカルも良いアイディアだと思ったが、直ぐに問題にぶつかった。個人情報システムに外部からアクセスする場合、未成年者は事前に保護者の同意文書を取り付ける必要があるのだ。
個人情報システムは大地震によってデータの大部分を消失し、再構築されたタイミングで運用方法を大きく変更していた。
「直接、役所の窓口に行けば? とりあえず、やるだけやってみない?」
その通りだと、ヒカルは頷く。何もせずにただ悶々と悩むよりも、出来ることを見つけて動いた方が心の健康には良さそうだ。
「ありがとう。リリカ。……もう一つ、いい?」
「はいはい。いくらでもどーぞ!」
「僕さ、コレ……無理」
飲んでいたパックの紅茶をリリカに渡すと、ヒカルはドアを開けて外の空気を一杯に吸い込んだ。どうにか堪えていたが、吐きそうだ。
リリカは理解できないという様子で、首を傾げている。
車の外に出て、ヒカルは空を仰いだ。空は曇っていて、星は見えない。
時間を見つけて役所に行ってみようと、ヒカルは決意した。いつまでも、うじうじ悩みたくはない。やはりリリカに相談して正解だったと、ヒカルは彼女に感謝する。
急に込み上げるものを覚えて、ヒカルは口元に手を当てた。