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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
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3-5 think ⑦



 縁側で子猫とじゃれながら、南城が調子っぱずれの歌を口ずさんでいる。声は綺麗なのだが、彼女の歌は決して上手とは言えない。しかし元気に堂々と歌うので、聞いている者は不思議と気分を良くするのだった。


 北上は炬燵机の上にノートパソコンを広げて、明後日の職員会議の資料を作成している。普段であれば、それは無駄で憂鬱としか思えない作業だ。


 南城は時折、時計に目を向けている。時刻は、十二時を少し過ぎたところ。


「後、二十分くらいかな。乾燥機が終わったら、昼にしよう」


 北上も、顔を上げて時計を確認した。


 南城は子猫のミカンを顔の高さに抱きあげて、丸っこい手を可愛いと褒めながら彼女に笑いかける。


 なにが食べたいかと、北上は尋ねた。南城が家に来る度に北上は南城家の食事を貰っているので、たまには自分がなにか用意したいと考えている。


「昼は、あっちで食べよう。……なんだか知らんが、滝はお前が好きらしいぞ? 用意したから、食べて行けってさ」


 いつも済まないと、北上が頭を下げた。滝には、どうにも抗えない強引さがある。


 南城には、滝が北上に入れ込む理由が分からない。最初は、滝が北上に迷惑を掛けてしまったことを気に病んでいるのだと思っていた。だが滝の様子を見ていると、どうもそれだけではないように思える。


 滝は、南城が北上の家に行こうとすれば食事などを持たせ、帰宅後は北上家での様子を逐一確認しに来るのだ。南城が猫の話ばかりしていると、「北上先生は如何でしたか?」と態々北上のことを確認することもある。


「お前の呑みっぷりが、気に入ったのかもしれんな。あの父より呑むんだから」


 南城が笑ったので、北上も釣られて口角を僅かに持ち上げる。


 北上は相変わらず表情を変化させるのが得意ではなかったが、それでも南城には徐々に伝わるようになっていた。それはミカンの存在を切っ掛けにして、二人の距離が縮まった為かもしれない。


「なにか、持っていく」


 北上は、手土産の話をしている。


「気にするな。滝はきっと、若い男を構うのが楽しいんだ。家には老人ばかりだし、私じゃあ山の様には呑んだり食べたりしてやれない。……お前は、そんなに若くないか」


 南城が揶揄うように言うので、北上は少しムッとした。三十代中盤は、北上の中ではまだ年寄りではない。勿論、決して若くもないのだが。


「今、三十四? 五? 空手は、いつからだ?」


「中学に入る時に、習うことになった」


「大体、私の人生の半分くらいか。長いんだな」


 南城が特に意図するところなく口にしたそのセリフは、北上にはグサリと刺さった。


 ミカンを玩具で構いながら、南城はふと大掃除中に見つけた北上の過去を思い出す。


 北上の寝室は、南城が手を入れるまでは窓も締め切られていて、掃除などされていなかった。辛うじて仏壇の遺影と位牌の埃は払われていたが、壁際に置かれた本棚には綿埃が溜まり、天上の角には大きな蜘蛛の巣。


 大学の卒業証書も、ボロボロになった教科書も、角の壊れた学生かばんも、その全てに雪のような埃が積もっていた。押入れの下段にはトロフィーや盾が雑に放り込まれていて、南城が確認するまで北上本人ですら所在を忘れていた程だ。


 様々な大会で残してきた華々しい戦績は、北上にとっては意味のないものだったのかもしれない。


「――北上は、今まで打ち負かしてきた相手の顔なんて……覚えちゃいないよな?」


 北上の答えを待たずに、南城は自分も同じだと言った。


「覚えていられないし、覚えてちゃダメだ。稀に、泣くのも居てさ。そういうのは困るよ。顔なんかないって、割り切ってるんだ。相手は、いつも自分だと思うことにしてるんだ」


 南城の脳裏には、剣道の大会で対峙してきた相手に混ざって、自分がキツネとして斬り捨ててきた者の姿がある。


 目的の為、冷徹になれと自分に言い聞かせながら刀を振るってきた南城だが、ここへきて彼女は罪悪感に苛まれることがあった。そしてその度に南城は、自分を偽善者だと罵った。後悔は、小物のすることだと蔑んだ。


 自分を卑下することだけが心を支えているような状態で、こうしてミカンと出会えたことは、南城にとって希望でしかなかった。ミカンは全身で愛情を受け止めて、そして幾らでも求めてくれる。こんな自分を、必要としてくれるのだ。


「南城。行こう」


 ノートパソコンをパタンと閉じて、北上は立ち上がった。


 北上の目には、南城の顔に陰が差したように見えている。


 時折、南城は遠くを見ていた。その表情を見る度、北上は彼女が夢幻のように消えてしまうのではないかと不安に思うのだ。


 今、南城は当たり前のように北上の家に居て、当たり前のように食事を共にしている。そしてその当たり前は一瞬で消え去ることもあるのだということを、北上は分かっていた。


 ミカンに留守番を言い付けて、二人は並んで家を出る。


 天気がいいなと、南城が呟く。


 そうだなと、北上も頷いた。


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