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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
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3-5 think ⑤



 二〇×二年 一月 二十二日 土曜日


 玄関から、カチャリと鍵の開く音。続けてカラカラと引き戸の音が聞こえてくると、北上の足元からミカンが飛び出して行った。


 北上は目を覚ましたが、瞼を閉じたまま布団の中で動かない。


 規則正しい足音が居間の前で止まり、居間と台所の間のガラス戸を挟んでミカンがその先の人物とじゃれている。


 台所でエサを貰って、可愛いだとか、元気だと褒められて可愛がられながら、ミカンがゴロゴロと喉を鳴らす。


 それから足音は北上が寝ている部屋の襖の前までやってきて、遠慮がちに一声かけてから部屋の中へ。


 北上の布団の横を通り抜けて、仏壇の隣の窓を開け、古くなった雨戸を出来るだけ音を立てないようにゆっくりと開いていく。そうして部屋の中に光と空気とを取り込むと、足音は北上の傍へ戻ってくる。


「起きろ! もう朝だぞ。寝坊助め」


「おはよう。南城」


 北上は、ようやく目を開く。傍には南城がいて、その胸元には食事を終えて満足そうなミカンを抱いている。


 南城はミカンに話しかけながら、北上に早く着替えるようにと言って居間へ戻っていく。


 その後姿を眺めながら、北上はほんの僅かに目じりを下げて微笑んだ。誰かに起こして貰う贅沢を覚えてしまいそうで、彼はそれを良くないことだと考えた。ずっと浸かって居たいような、ぬるま湯の温泉のような心地良さがある。


 布団を上げて居間へ行くと、南城が炬燵机の上に風呂敷を広げて朝食を用意していた。その傍では、ミカンが必死になって、南城の手からなにか貰おうと可愛さを振りまいている。


 北上が唯の黒猫だと思っていたミカンは、風呂に入ると所々にオレンジ色の別の毛が生えていた。サビ猫という種類らしい。目の色は黄色だが、南城はそれを金だと言って譲らなかった。


 南城はミカンを陽の元で抱いて、その目も体のオレンジ色の毛も全てゴールドで美しいと言って褒めていた。その横顔が穏やかだったことを、北上はよく覚えている。


「さっき、隣のおばさんと挨拶したぞ。横田さん、だったか? 雪かきの礼を言われた」


 北上は炬燵の傍へ行って、ミカンに手を伸ばす。


 ミカンは南城に夢中で、後ろから北上にワシワシ撫でられていても知らんぷりしている。


「あそこの旦那さんも、先生だ。公立で、隣の区」


「ああ、それで。仕事で不在がちだから、助かったと言っていたよ。この時期じゃ、教師は忙しいかもな」


 他人事のようにいう南城を、北上は可笑しく思った。自分たちも同業だからだ。


 洗面所へ行って顔を洗うと、北上は再び居間に戻った。ミカンはまだ、南城に食べ物を強請っている。


 炬燵布団はフカフカになっていて、居間の時計はコチコチと音を経てて動いていた。現在の時刻は、八時丁度。


 炬燵机に積まれていた書類はいつの間にか整理されていて、ノートパソコンと共に本棚の上に置かれている。パソコンの隣には以前と変わらず小さなテレビが置かれているが、これもピカピカに磨かれていて、どことなく買った当時を思わせた。


 炬燵布団もカーテンも洗濯され、部屋中の埃という埃は全て消え去り、窓ガラスまで丁寧に磨かれている。これらは全て、ミカンを拾ったあの日に南城がしたことだ。


 南城は子猫の生活環境を整える名目で北上家の大掃除を行い、ついでと言わんばかりに不摂生だった北上の生活も変えていった。一番大きな変化は、北上が布団で眠るようになったことだ。


 これまで北上は、夏でも出しっぱなしの炬燵の中で眠っていた。布団だと眠り過ぎてしまうし、仏壇のある部屋の雨戸は壊れて開かなかったので、どことなく寒々しくて嫌だったのだ。


 そんな北上を、南城は「大馬鹿者」と一喝した。


 南城は壊れていたはずの雨戸を開け、部屋の掃除をして仏壇まで磨き上げた。空気の入れ替えられた部屋の中はまるで別の家のようにも感じられたが、それは北上にとって決して不快なことではなかった。


 ミカンを拾ってからこの一週間のうち、南城が残業をしていた二日間を除いて、彼女は北上家に顔を出している。勿論、彼女の目当ては北上ではなくミカンだ。


「お前のとこ、今日は無かったよな?」


「集まらない」


「インフルエンザだろ? うちもだよ。しばらくは平日だけにしたんだ」


 北上が顧問をしている空手部と南城が顧問をしている剣道部は、学校内の同じ武道場で活動をしている。どちらの部活も三月に大会を控えているのだが、部員の多くがインフルエンザ罹患のため休みになっていた。


 ニュースでやっているはずだと、南城はテレビを点ける。


 取り分けた食事を北上の前に置いて、不意に目が合うと、南城は少し顔を赤らめた。


「行儀が悪いのは、分かってるよ。でも、北上だって気になるだろ?」


 南城は食事をしながらテレビを観ることを恥ずかしく思っているようで、そしてそれは北上には理解できないことだった。北上にとっては、普段通りの行動だからだ。


 チャンネルを替えながら、碌な番組がやっていないと南城が呟いた。子供向けのアニメとスポーツ、陳腐なワイドショーだけだ。


 南城は諦めた様子で比較的まともそうなワイドショーに切り替えると、膝の上のミカンを撫でながら天気予報を聞いている。


「今年の花粉は、多いのかな。滝と川村がな、毎年辛そうで」


 南城が家政婦たちの心配をしているのを聞きながら、北上は食事に箸をつける。


 北上の食事事情も、南城が頻繁に出入りするようになって改善されていた。以前は多忙のために仕事中は食事を摂らないことが多かったが、今は出来るだけ三食摂る様に心がけている。南城に怒られたからだ。


「良かったな、ミカン。猫にはきっと、花粉症はないぞ」


 いつまでも膝の上で粘っているミカンに、南城は笑いかけている。


 南城は人間の食べ物を絶対にやらないのだが、北上が少し与えてしまったことがあるために、ミカンはまだ貰えると思い込んでいるのだ。


 天気予報が終わると、テレビにはインドラとキツネの姿が映った。あのクリスマスの日から、それはもう何十何百とテレビで流れている。


 二人は互いに気まずくなって、無言で食事を口に運んだ。


「これ、来月の合宿先じゃないか?」


 ニュースが切り替わったタイミングで、南城が声を上げた。


 テレビには男性の作曲家の顔写真――といっても顔は見えないのだが――と、来月スキー場で行われるイベントが告知されている。


「南城、スキーは?」


「愚問だな。北上も滑れるんだろう? 増田さんが言ってた」


 北上は、体育科の主任を思い浮かべて溜息を漏らした。あれから幾度も断っているのだが、増田はまだ北上を合宿に連れて行こうとしているのだ。


「なんだ? 『聞くことの出来ない音楽』って。妙な宣伝だ」


 テレビに向かって、南城は小言を垂れている。


 ミカンはようやく諦めた様子で、南城の膝から降りた。そのまま炬燵へ入ろうとしたところへ、今度は北上の手が伸びてくる。 


 北上が撫でている間、ミカンは不機嫌そうに尻尾をパシンッパシンッと左右に叩きつけていた。しかし撫でられること自体は嫌でないのか、他所へ行こうとはしない。北上の手が止まりそうになると、彼の掌に頭の天辺を押し付けている。


「九時を過ぎたら、父も母も出掛けるんだ。そうしたら洗濯へ行こう」


 北上はコインランドリー通いなのだが、南城はそれを嫌がって炬燵布団もカーテンも彼女の家の洗濯機で洗っていた。家に行けば洗濯も乾燥も出来るのに、誰とも知らない他人の使った洗濯機を使うのは嫌だというのだ。


「南城。ありがたいが、俺の汚れ物を持っていくのは……」


「変な柔軟剤あるだろ? 海外の、妙な匂いのやつ」


「うん。多分、分かる」


「動物って鼻が良いんだぞ? あれを使った奴がいるかもしれんのに、そこへお前の汚れものを入れたら全部臭くなるじゃないか。ミカンが可哀そうだと思わんのか?」


 北上は、南城はミカンに過保護だと思った。だが怒られそうなので、それを口にはしなかった。


 ミカンはいつの間にか機嫌を直したようで、北上を真ん丸の目でジッとみつめてエサを強請っている。


 北上は、ミカンの熱い視線の意味には気付かない。「お前は愛されているな」と、北上はミカンを撫でながら心の中で呟く。


 南城は、やると決めたらすぐに行動に起こすタイプの人間だ。南城がミカンのために勝手に合鍵を作った時は、流石の北上も驚きを隠せなかった。しかし嫌ではなかったので、受け入れている。


 なにより、残業を終えてクタクタになって帰宅した時、家に灯りがついているのは嬉しかった。南城はミカンを構いに来ていて、北上には興味が無かったが。


 いずれ洗濯機も買うことになるだろうなと、北上は幸せな想像をして笑った。


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