3-4 ビタースウィート ⑨
*
「――上! 北上、起きろっ!」
激しく体を揺さぶられて、北上は目を開いた。
南城だ。彼女は北上の脇に膝をついて、彼の顔を覗き込んでいた。
ほんの数センチ先に南城の顔を見つけて、北上は反射で背筋を正す。無意識に伸ばした両手は、どうするでもなく宙で動きを止めている。
「な、んじょう。起きたか」
頭の中を整理しながら、北上は顔を拭った。
昨夜、南城がどうしても家には帰らないと暴れたので、北上は仕方なく自宅へ彼女を連れ帰った。しかしその後どうしたら良いか分からず、北上はひたすら呑んで誤魔化していたのだ。
南城は酔いも冷めてすっかりいつもの様子だが、目はキラキラと輝いている。
「『起きたか』じゃない! どうして言ってくれなかったんだ?」
「君が、帰りたくないと……。俺は、なにもしていない」
「なんの話だ?」
「俺は、無実だ」
北上の脳裏には、模造刀を振り回す南城父の姿が浮かんだ。
「相変わらず、変な奴だな。私は、猫のことを言っているんだ」
猫と言われて、そこで初めて北上は、南城が胸の前に子猫を抱いていることに気付いた。それは、年末頃から北上の家の軒下に住みついたあの野良猫だ。
子猫は北上には見せたことのないような甘えた表情で、ゴロゴロと喉を鳴らして素直に抱かれている。
「南城、気をつけろ。そいつは悪さする」
「子猫相手に、なに言ってるんだ? ところで、名前は?」
「タツキ」
「お前じゃない。猫だよ。この子の名前だ」
北上は、すっかり困惑していた。飼ってもいない猫の名前など、知る由もない。
南城は腕に子猫を抱いて優しく撫でながら、何度も顔を覗き込んで微笑みかけている。
猫はそんな南城にすっかり気を許したようで、真ん丸な目で真っすぐに彼女を見つめ、全力で可愛さを振りまいていた。
北上は自分の猫ではないと伝えるべく、名前はないのだと南城に告げた。
南城は北上の顔を眺めて少し考えていたが、やがて拾ったばかりなのだと解釈した。
「じゃあ、医者もまだだな? 近所にあったと思うが、探してみようか」
立ち上がってポケットからスマートフォンを取り出すと、南城は近所の獣医を検索し始める。そして彼女は直ぐに、二軒ほど見つけたようだった。
「南城。名前は無理だ」
「……分かるよ。確かに、名前は重要だ。名前は、最初の贈り物というものな」
そうではないのにと、北上は自分の口下手さを呪う。
不意に寒気を覚えて、北上は炬燵へ体を滑り込ませた。見ると、障子戸が開いていて、そこから冷気が流れ込んできている。
北上が「雪はまだ降っているのだろうか」と呟くと、南城が「そうだ」と答えた。「積もったか」と続けて尋ねると、南城は「数センチ」と答える。
北上はこの後の雪かきを想像して、すっかり気を滅入らせた。この近所は年寄りだけの家が多いので、北上が率先して雪かきしなければならない。勿論、義務ではないのだが、道が凍りついてしまうと結果的に困るのは自分だ。
北上は炬燵の中から、床に転がっていた酒瓶とグラスに手を伸ばした。
「お前……まさか普段から、そうやって呑んでばかりなのか?」
「迷惑はかけていない」
呆れた様子の南城に、北上は珍しく反論してみた。しかしそれは、彼の生活の孤独さを肯定しただけだ。
「名前、なにかないのか?」
「……熱燗」
北上は、台所の方へ目を向ける。しかし、炬燵からは出たくない。
「酒じゃないか。他にないのか? 好きな言葉とか、好きなものとか」
「南城」
「私が決めるのか? まあ、構わないが。しかし責任重大だな……」
南城は子猫を抱いたまま、家の中をぐるりと見回す。それから縁側へ出て行って、南城は雨戸の隙間から再び庭を眺めた。
北上家の庭はそれなりの広さがあったが、手入れはされていなかった。庭はそこにあるというだけで、なにかに利用されているわけでも、鑑賞されているわけでもない。
そんな庭の隅に、南城は二本の木を見つけた。
「あの、奥の木は? 桃? いや、梅か?」
そうだと、北上は背中を丸めて答えた。
「こっちのは? なんだろう。柑橘類かな」
南城は薄暗い中で、葉の形を見ている。
北上は、蜜柑だと答えた。
子猫が、南城の腕の中で鳴いた。
「あの蜜柑は、甘いか?」
「いや。酸っぱい」
南城が、笑った。
北上は、南城の背中を眺めている。その向こうに広がる風景はまだ暗いが、直に陽が昇り始めるだろうと彼は思った。外から流れ込む空気は、朝の匂いがしている。
「じいさんの蜜柑だ」
聞かれてもいないのに、北上はつい言葉を付け足した。
子猫が、ミィと鳴く。
南城は振り向いて、北上の方を見た。二人の視線は互いを捉えていたが、彼らはただ無言でいた。
「そういえば、うちには無かったな。蜜柑」
南城が庭を思い出しながら、寂しそうに言う。
子猫が、またミィと鳴いた。
そこで南城は、先程から子猫が「ミカン」という言葉に反応していることに気付く。試しに再び「ミカン」と呼ぶと、子猫は鳴いて南城の胸に頭を寄せて甘えた。
「ミカンだ。この子はミカンにしよう!」
ダダダッと縁側から戻ってきて、南城が北上の隣に腰を下ろした。南城も子猫も、大真面目な顔をしている。
「最初の贈り物」や「責任重大」などと大層なことを言っていた南城が、庭にあるような平凡な果物の名前を選んだことが、北上には面白く感じられた。
南城と猫を交互に見つめるうち、北上は二人の髪質がよく似ていることに気付く。所々巻いたり跳ねたりしている南城と子猫の毛は、とても良く似ている。まるで猫の親子のようだ。
それに気付くと妙に可愛く思えてきて、北上は口の端を少し持ち上げた。笑ったのだ。
南城は北上の表情の変化に気付くと嬉しくなって、歯を見せて笑った。
「ミカン! 今日から、お前はミカンだ」
南城が頭を撫でると、子猫のミカンは嬉しそうに目を細めて喉を鳴らす。
名前が決まったので、南城は病院が開くのを待って獣医へ連れて行こうと提案した。病院までは、南城も一緒に行くつもりのようだ。
北上はもうこの状況を受け入れていたが、雪かきのことが気に掛かっていた。
「なんだ。そんなの、一緒にすればいいじゃないか。二人の方が早く終わるだろ?」
南城は当たり前のようにそう言うと、荷物を取ってくると言い残し自宅へと戻っていく。
南城が去った後、まるで嵐のようだと、北上は苦笑した。
二人になると、ミカンはモデルのように優雅な足取りで炬燵布団の端へ行き、ごろりと横になった。その様子はまるで、この家の住人であることを主張しているように見える。
北上も横になって、ミカンの方を見た。真っ黒な子猫だと思っていたが、よく見ると僅かに別の色が混じっている個所がある。
(もう一生、一人暮らしだと思っていたが……)
戯れに、北上は手を伸ばしてみた。
(まだ死ねない理由が、出来てしまった)
ミカンは、首を傾げていた。