3-4 ビタースウィート ⑥
*
二十二時。
「随分、遅くなってしまった。……寒い。本当に、降るのかもな」
東條家のあるマンションから少し離れた所で、南城がポツリと呟いた。
北上は、空を見上げる。確かに、雪の降りそうな空だ。直に、降り出すだろう。
北上と南城はプリンやお好み焼きを土産に持たされて、マンションの前の坂を下っていた。二人ともこんな時間になるまで生徒の家にいたことは初めてで、南城はそれを新鮮に感じ、北上は罪悪感を覚えている。
忘れる前にと、北上は手土産を購入した時の釣銭を南城に手渡した。
南城はボンヤリした様子で、小銭を握りしめた手をポケットに突っ込む。
「北上は……どう思った?」
「どれのことだ?」
誤解の生じないように、先ず最初に確認する。それは誰かと会話をする上で大切なことで、北上にとっては非常に大きな進歩だった。
「先輩と、あの男のことだ。一緒に住んでいるのかな? ……いや。多分、そうだ」
「淡路さんは、年末に水道関係のトラブルに見舞われて、一時的に身を寄せていると言っていた」
北上は、淡路から聞いた通りのことを南城に伝えた。婚約者なのだから、なにも不自然なことではない。
南城は少しの間、無言だった。それから駅の傍までやってくると、彼女は突然、用事があると言って北上から離れていく。
北上は暫くの間、遠くなっていく背中を眺めていた。しかし南城の足取りがどこかおかしいことが気にかかり、彼は慌てて彼女の後を追いかける。
南城は家電量販店の脇を抜け、呑み屋の並ぶ方へ歩いていた。
北上が声をかけようか迷っていると、南城はコンビニへ。そして三分もしない内に、彼女はポケットの小銭をチューハイの缶に換えて出てきた。
「……北上? 帰ったんじゃないのか」
北上に声を掛けながら、南城は缶を開けて早速口を付けている。三百五十ミリリットルのアルコールは、あっと言う間に飲み干された。
ゴミ箱がないなと独り言を呟きながら、南城はふらりと歩き出す。
北上は無言で、その後ろをついていった。
「――延長コード」
「うん。あった」
北上は、東條家のダイニングを思い浮かべている。今日は大きなホットプレートで、何枚もお好み焼きを焼いたのだ。北上にとって、それはとても楽しい思い出になった。
「延長コードの場所。なんで、知ってるんだ」
「住んでいるからだろう?」
「年末からこんな短期間に、そう何度もホットプレートを出すのか? じゃあ、椅子の場所は? 布巾は? ……違うよ。年末なんかじゃない。絶対に違う!」
南城の手の中で、空になったチューハイの缶がベコッと音を立てた。
南城と北上には揃いの新しい箸が用意されたのに、淡路の使っていたものには先端に僅かな傷が入っていた。どう見ても、昨日今日買ってきたようなものではないのだ。さらにカップやスリッパについても、同じことが言えた。
淡路のカップは食洗器から取り出され、南城と北上のカップはヒカルが食器棚の奥から大事そうに出してきた。スリッパも、二人には揃いの柄のものが出されたのだが、淡路は東條家の誰とも被らない無地のものを履いていた。
「ずっと前から、あの家に出入りしてるに決まっている! 先輩は、だって、結婚しないって言ったんだ。だからきっと、事情があるのに。事情があるに決まってるのに」
雲行きが怪しくなってきたのを感じて、北上は小走り気味に南城の隣へ行った。
南城の横顔は、既に真っ赤になっている。
「南城。もう、雪が降る。君の家は向こうだ。帰ろう」
北上は、出来るだけ優しくそう言った。南城が本当に酔っているのか、それとも顔が赤いだけなのかは、どうにも判断が付かない。少なくとも南城の父親は、酒には強いが顔が赤くなりやすいタイプのようだった。
南城はブンブンと顔を横に振って、肩を張りながらズンズンと路地の方へ歩いていく。何処を目指しているのかは分からないが、南城は段々と暗い方へ向かって歩いている。
「年末から? 部下が? それで、あんなにラフな格好をするかな。エプロンだって、先輩のやつを交代で着けてた! 聞きもせず洗剤を詰め替えたり、冷蔵庫開けたりしてたじゃないか! お前、なんにも見てなかったのか?」
「見てない。……婚約者だろう? だったら、別に」
「違う! ちがう、結婚しないんだ! しないって言った」
南城は早口で、文化祭の時に二人きりで会話したことや、今日のアオイの家着がどれだけ可愛かったかなどと支離滅裂なことを捲し立てている。
このままでは隣の区まで歩いていきそうだと判断して、北上は高架下の傍で南城を無理やり止め、道の端へ誘導した。土曜日の夜ということもあって人出があるが、流石にこんな場所には生徒の姿は無さそうだ。
向き合うと、北上は南城の肩をポンと叩く。とりあえず、落ち着かせようと思った。
しかし南城は、そのまま地面に蹲ってしまう。
「どうしよう。先輩が、あんな奴に盗られちゃう。あんな奴……あいつ、絶対ハゲだ!」
「禿げてないぞ」
立たせようとするが、南城は北上の手を振り解く。
「もう嫌だ! もう世界は終わりだ。終わるんだ!」
「終わらないぞ」
南城の手から放り出された土産の紙袋を拾って、北上はそれを南城に戻してやる。
南城は、それをまたすぐに放り投げた。
南城の手から土産と一緒に放られた空き缶を拾って、北上はそこに表記されたアルコール度数を見て驚く。コンビニで手軽に買える割には、やけに度数が高い。
(こんな粗悪なものを飲んでいたら、体を壊すんじゃないか?)
空き缶からは、作り物のレモンの匂いがする。
「……私が、至らないからだ。私がダメだから、全部ダメになっちゃうんだろ? もう殺せ! いっそのこと殺してくれ!」
「殺さないぞ」
どうしたものかと北上が悩んでいると、遂に南城は地面にペタンと座り込んでしまった。
「私が全部ダメなんだ……。ちゃんと出来ない。いっつも。ちゃんとしなきゃって、ちゃんと、やらなくちゃって分かってるのに。出来ないんだ。私がダメなんだ。周りにだって嫌な思いをさせてる。もう嫌だよ。嫌だ。死にたいよぅ……」
「南城。死なないでくれ」
北上は出来るだけ低く身を屈めて南城と目線を近づけると、彼女に手を差し伸べて帰ろうと言った。
南城は嫌だと言って、ポカッポカッと北上を叩く。アッチへ行けと言って靴を投げ、どうにでもしろと言って北上を叩く。それから南城は、まるで幼児のようにわんわん声を上げて泣き出した。
(君は、東條の姉が好きだったんだな……)
南城は、人目も憚らず泣き続けている。
北上は上着を脱ぐと、それを南城の頭からかけてやった。そうして散らばった物を集めると、北上は嫌がる南城を無理やり背負う。
「ほら。降ってきたぞ」
宥めるようにそう言って、北上は粉雪の舞う中を歩き出す。
南城は下ろせと喚き、長いことグスグスと泣いていたが、やがて静かに眠りに落ちていった。