3-4 ビタースウィート ④
*
十九時。
玄関の方で物音がするのを耳にして、南城は喜びのあまり跳び上がりそうになった。
借り物のエプロン姿のままキッチンから身を乗り出して待っていると、やがてスーツ姿のアオイが姿を現す。
アオイは南城と顔を合わせると、にっこりと笑った。
「ただいま。ごめんなさいね。あの子達、無理やり引っ張ってきちゃったんでしょう?」
「いえ! いえ、そんな。いいんです。おかえりなさい。お疲れ様です」
口にしてすぐ、南城は自分の口元が緩むのを覚えた。
(エプロンして、「おかえりなさい」なんて……! いいな。夫婦みたいじゃないか)
デレデレしそうになる自分を必死で律して、南城は再びキャベツに向かった。アオイが着替えてくるまでに、面倒な下処理は済ませてしまいたい。
場所がないのでダイニングの机で野菜を切っていたヒカルが、アオイと二、三言葉を交わしている。そのアオイの表情の柔らかさを見て、南城は自分の心が解けていくように感じた。
そういえばと、アオイがリリカと北上の所在を尋ねる。
ヒカルが答えようとするのを遮って、南城は「二人は甘いものを買いに行っている」と言った。
「突然お邪魔してしまって、手土産もなかったものですから。泉のお勧めというのが近所にあるそうなので、買いに行かせているのです」
そろそろ帰る頃だろうと、南城は付け足した。彼女の脳裏には、「女子生徒と二人で外を歩けない」と繰り返し訴えていた北上の姿が浮かんでいる。南城はそれを、無理矢理に行かせたのだが。
「気にしなくていいのに。ありがとうね、南城。ちょっと待ってて。着替えたら代わるから」
笑顔を残して、アオイはリビングの隣の自室へ消えていく。
その後姿を見てヒカルは、アオイが普段のような家着姿で出てくるのではないかと不安に思った。普段のアオイは、大分ラフな恰好をしている。
玄関の方で、音がした。
それを耳にしてすぐ、南城は不思議に思う。足音が、一つ多い。恐らく、北上くらいの大きさの物が、もう一つ歩いている。
「戻りました」
「ただいまー!」
リリカと共に淡路が姿を見せたので、南城は驚きの余り包丁を床に落としかけた。
二人に遅れて、北上が姿を見せる。北上の手には、洋菓子屋の包みがあった。
「南城」
キッチンへ入って、北上は南城に手を出すように言った。代金を二人で出したので、その釣銭を渡そうとしたのだ。
北上は家主の前で金銭のやり取りをしたくなかったのでキッチンへ入ったのだが、南城は衛生的でないと怒った。彼女は淡路の登場に心を揺さぶられていたので、余計に口調もきつい。しかし、流石に小声だった。
怒られて、北上は仕方なくキッチンを出る。考えてみれば、帰りに二人になった時にでも渡せばよいのだ。
淡路はヒカルに、途中で二人と一緒になったのだと話している。
南城は淡路に対するヒカルの対応が自然なことに、妙な焦りを覚えていた。
「これは、南城先生。文化祭でお会いして以来ですね」
「淡路さん。どうも」
二人はカウンター越しに笑顔で挨拶を交わしたが、互いにすぐ顔を背けてしまう。
北上はリリカに促されるまま、ソファに腰を下ろした。なにかしていないと落ち着かないが、どうやらキッチンには戻れそうにない。
北上は、せめて淡路かヒカルが傍にいてくれればと思い目を向けた。しかしヒカルは料理人のような手付きで野菜を刻んでいて、淡路はまだコートを羽織っている。
「北上先生は、ニュースって感じよね~」
隣に腰を下ろして、リリカがテレビのリモコンに触れた。
なにもしていない人間が自分以外にも増えたので、北上は安堵する。
「アオイさん。キー、いつもの所に置いてありますから」
淡路は、アオイの部屋の前で声を掛けた。それから、自分も着替えてくると告げて、リビングを出ていく。
普段は車のキーの場所なんて伝えないのにと、ヒカルはその様子を少し不思議に思った。
(着替え……? いつものところ……?)
悶々としながら、南城は包丁を振るう。いつの間にか一玉が千切りと化していたが、南城は気にせず次のキャベツに手を掛けた。
ヒカルは、淡路が現れても驚く様子を見せない。
リリカは、淡路と一緒に帰ってきた。
アオイは、淡路に声をかけられても驚く様子すらなかった。
そして淡路は、別の部屋に着替えに行ったようだった。
「わ! 南城先生、凄いですね。ほっそい!」
ヒカルの声で、南城は我に返る。ヒカルは大きなボウルに刻んだ野菜を盛って、キッチンへ入ってきたところだった。
そういえばと、南城は自分が千切りにしてしまったことに気付く。ここまで細くする必要はなかったのだ。
南城が落ち込んでいると、ヒカルは折角だからサラダにしようと言って、キャベツの半量をボウルに分けた。
南城は、ヒカルの笑い方はアオイに似ているなと気付く。
「あら。北上先生」
声をかけられて、北上は首を傾ける。リビングの隣の部屋から、着替えを済ませたアオイが姿を見せた。
北上は立ち上がって挨拶しようとしたが、すぐにアオイから座るように促される。
「ゆっくりなさってください。すみません。お菓子も頂いてしまって」
「いえ。こちらこそ、押し掛けてしまって申し訳ない。直ぐに帰りますので」
言うなり北上は、キッチン方面から漏れ出る殺意を察知した。見ると、包丁を持った南城が、彼になにかを訴えかけている。
北上は、なにも見なかったことにした。
「南城。ありがとう。代わるから、ゆっくりして」
キッチンに入ってきたアオイは、髪を低い位置で緩くまとめていた。ざっくり編んだニットのワンピースの上からエプロンを着けると、アオイは手を洗ってヒカルにホットプレートの話をする。
南城は、その様子をジッと眺めていた。
(髪型……いつもと違う。とても可愛らしい……)
情けなく顔が緩みそうになるのを奥歯を噛み締めて堪えながら、南城はアオイに手伝いを申し出た。
ありがとうと言って、アオイがまた笑顔を見せる。
南城は、帰宅するまでに、自分の奥歯が全て消えてなくなるのではと思った。
北上とリリカがソファでテレビを眺めていると、ニュース画面には突然、インドラとキツネの姿が映った。二人のハンターに関する動画の視聴回数が伸び続けていて、関連するグッズも出てきているのだという。
「ねえ。先生は、どっちが好きですか?」
テレビを指さして、リリカが尋ねた。
(これは、機能性の問題だ。好きとか、嫌いとかそういうことではない。敢えて選ぶなら)「ガスマスクの方だ」
答えた直後、北上は左の頬に鋭い視線を感じた。南城だ。北上は、南城が反戦主義者なのかもしれないと思った。
北上は次のリリカの質問に備えていたが、彼女は「ふうん」と言っただけ。リリカは質問をするだけして、その後は特に聞きたいことはないようだった。
「随分と売れてるみたいですよ。ガスマスクなんか、転売されて値段が跳ね上がっているみたいですね」
いつの間にかリビングに戻っていた淡路が、北上の元へ歩いていく。
リリカが端へ避けると、淡路は頭を軽く下げてから北上の隣へ腰を下ろした。
「ほら、凄い値段です」
淡路のスマートフォンには、大手通販サイトの画面が表示されている。そこには北上愛用のモデルがずらりと並んでいたが、どれもこれも値段がおかしなことになっていた。
北上はクリスマスの日にガスマスクを紛失してしまい、それ以来、まだ一度もインドラの姿にはなっていない。帰宅した翌日にネットで注文をしたのだが、商品が欠品中ということで未だ届いていないのだ。
「困りますね。本当に必要な人に、届かなくなってしまう」
「そうですねえ。まあでも、これが本当に必要な人は、きっとネットでは買いませんよ」
淡路は、北上が冗談を言ったのだと思って笑った。リリカとヒカルも、釣られて笑う。
北上は自分の正体がバレてしまうように思ったので、これ以上は余計なことを言わないでおこうと決めた。
「ねえ」とアオイがリビングに声を掛けて、キッチンを出ていく。
南城はシーフードを冷水で解凍しながら、カウンター越しにアオイの姿を追った。
ダイニングテーブルにはヒカルがいて、彼はホットプレートの準備をしている。しかし、アオイに応えたのは淡路だった。
「延長コードなんだけど」
「ああ。取りますよ」
淡路はリビングの納戸から、延長コードを取り出してアオイに渡す。コードは、棚の上段に置かれたカゴの中に入っていた。
「ありがと」
「どういたしまして。椅子も持ってきましょうか?」
「ん……そうね。確かに、ちょっと狭いかも。お願いできる?」
淡路は笑顔で応えて、リビングの隣のアオイの部屋に入っていく。
南城は指先に刺さるような痛みを覚えて、ようやく我に返った。無意識に、指先に氷が長時間当たっていたようだ。
痛いと、南城は呟いた。それは、彼女以外には聞こえていない。
アオイと目が合って、南城は笑う。
アオイは南城に笑顔を返した。それはいつもと同じ、南城を救ってくれる癒しそのものだ。
南城は急に胸や胃の辺りが苦しくなるのを覚えたが、なにも気付かないフリをした。