3-4 ビタースウィート ②
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二〇×二年 一月 十五日 土曜日
十八時。
駅を離れて直ぐ、南城は前方に見覚えのある人物を見つけた。人混みに居ても目立つその大男は、確かに北上だ。
少し迷ったが声を掛けないことにして、南城は途中の本屋に立ち寄る。このままでは追いついてしまいそうなので、少し時間を潰してから帰ろうと思ったのだ。
特に読みたい本もなくフラフラと店内を歩いていると、南城は後ろから声をかけられた。驚いて振り向くと、そこには北上が立っている。
「え……。北上。奇遇だな」
「ああ。南城は、部活帰りか」
「大会だ。新人戦の引率だよ」
南城は自分がジャージ姿であることの説明をすると、それからそそくさと北上から離れた。
北上は不思議に思って、そのまま南城の後ろをついていった。
特に興味もない雑誌の表面に目を滑らせながら、南城は北上が離れていくのを待つ。
北上は、南城が囲碁や将棋雑誌の前で止まったので、それを少し嬉しく思った。北上は将棋が好きなのだ。
「北上は、どこかへ行くところじゃないのか?」
沈黙に耐えかねて南城が尋ねると、北上は首を横に振った。
「後ろを見たら君がいたから、挨拶しに来た」
「そうか。挨拶は……大事だものな」
南城のその言葉は、彼女自身の胸にチクリと刺さった。
北上は雑誌の方へ目をやるフリをしながら、南城が頷く度に揺れる彼女のくせ毛を眺めていた。あちこち跳ねたり巻いたりしている、柔らかそうな髪。これに近いものを、北上は何処かで見たことがある。
「あ、先生だ!」
飛び込んできた、明るい声。二人が顔を上げると、そこには金髪の少女――泉リリカが立っている。
「泉じゃないか。買い物か?」
南城は、生徒の登場で場の雰囲気が幾らか和らいだように思った。
「友達と映画を観てきたんです。先生たち、観ました? 今は、待ち合わせしてて……」
リリカは手に持っていた薄いビニールの袋から、映画のプログラムを取り出して見せた。映画のタイトルは、「マイ・スウィーティ・パイ」とある。ケーキ屋を営む訳アリの美人と、どこまでも愚直な男とのラブストーリーだ。
北上が何の気なしに「東條を待っているのか」と尋ねると、リリカは身をくねらせて照れ始めた。
泉リリカと東條ヒカルの交際は、年明けの始業式後から広く知れ渡っていた。単なる一生徒同士の交際がここまで校内で話題になったのは、元々のリリカの知名度に加えて、あの野球対決があったからである。
「先生たちは? 部活ですか?」
リリカは顔を赤くして、必死に話題を切り替えようとする。しかし、南城は大会の引率帰り、北上は買い物帰りと答えただけで、そこで会話は途切れてしまう。
「あれ、先生もいる」
リリカの後ろから、赤毛の少年が姿を現した。東條ヒカルだ。
ヒカルは左手に、CDショップのカラフルな袋を下げている。彼も、中学時代の友人と出かけた帰りだという。
「ヒカル! あのね、偶然、会ったところなの。剣道部は大会だったんだって」
「そうなんですね。あれ、でも確か今日って共通テストでしたよね? 大学入試の」
「今日は新人戦だ。それに、三年はもう引退しているぞ」
「そっか。そうでしたね」
お疲れ様ですと、ヒカルは二人に頭を下げる。
北上は単なる買い物帰りなのだが、南城に釣られて自分も頭を下げた。
誰からともなく店を出ようということになり、四人は連れだって店外へ。
店を出てすぐ、なにか閃いたような顔で、リリカがヒカルの腕を引いた。南城はその様子を不思議に思ったが、ヒカルにはその意図が直ぐに伝わったようだった。
「先生たち、この後ってお暇ですか? よかったら、家へ寄っていきません?」
ヒカルは、夕飯を食べていってくれないかと言った。
まさかの申し出に南城は心を躍らせたが、北上は彼女の心とは正反対の言葉を口にする。ピシャリと一言、「出来ない」と。北上曰く、教師が気軽に生徒の家に行くものではないというのだ。
「ええ~。でも、お化けみたいなキャベツ、三玉も買っちゃったし……」
リリカが北上に、どうしてもダメかと食い下がっている。
南城は、心の中でリリカを応援していた。東條ヒカルの姉アオイは、南城の思い人である。こんなチャンスは、中々巡ってくるものではない。
(頑張れ、泉。他にないのか? もっと言ってやれ!)
ワクワクする心を隠そうと、南城は口の中で舌先を噛んで堪えている。
北上は、南城が険しい顔をしているのが気になった。北上はそれを、「早く断れ」と言われているように思う。
「悪いが、やはり立場上……」
出来ないと口にしようとして、北上は脇腹を小突かれた。南城だ。
南城はまるでなにも無かったように、涼しい顔をしている。
ヒカルとリリカは気付いていないようで、二人は不思議そうに北上を眺めていた。
「あの、すみませんでした。やっぱり難しいですよね」
ヒカルが申し訳なさそうに頭を下げるのをみて、南城は歯ぎしりする。東條ヒカルは、物分かりが良すぎるのではないだろうか。
「先生……本当にダメですか? だって、豚肉も一キロ買っちゃたし、シーフードミックスも二袋あるし。卵だって二パック……」
よくやったと、南城は心の中で叫ぶ。何故二人が業者のような食材の買い方をしているのかは疑問だが、今そんなことは問題ではなかった。
南城は、北上の名を呼んだ。
目を合わせると、北上は力強く頷いた。
「やはり無……」
「よし! お邪魔するぞ!」
北上の言葉を大声でかき消して、南城は喜ぶリリカとハイタッチする。そして皆を急かして、南城はヒカル達のマンションへ向かって足早に歩き始めた。
北上は自分だけでも遠慮しようかと考えたが、口を開こうとする度に南城が振り返って目で刺すので、出来ないまま仕方なくついていく。
そうして四人は、坂を上ってマンションへ向かって行った。