3-3 boy ⑥
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「冬タイヤって、トランクルームにありましたっけ?」
定食屋の壁に掛かっているテレビは、来週末が雪予報であることを告げていた。
店の規模には不釣り合いな程に巨大なモニターの傍には、店主が脚を組んで座っている。彼は小難しそうな顔で、競馬新聞と向き合っていた。
「そう。タイヤも替えなきゃだし、ワイパーのゴムも気になるし。そうだ、オイルもいい加減に……」
溜息交じりにカツ丼を口へ運んで、アオイは直ぐに考えることを放棄した。食事時くらいは、なにも考えずに過ごしたい。
時刻は、十四時四十分。
寂れかけた定食屋の中に客は二人だけで、店の前には少し早めに「準備中」の札が出されている。元々家族で細々とやっているこの店は、昼時の慌ただしい時間が過ぎると、店主の気分で店を早めに閉めてしまうのだ。
蕎麦を啜って、淡路が味を褒めている。
カウンターの奥でなにか片付けていた店主の妻が、横顔で微笑んだ。
「でしょ? 美味しいでしょう? ここ、夜は結構混んでるの」
「いいですね。……結構、遠いですけど」
淡路は、茄子の天ぷらを汁に潜らせて口へ運ぶ。
アオイは、テーブルの端の塩の瓶に目を向けた。天ぷらには、塩がいい。
「今日は絶対、カツ丼って決めてたからね。朝、急にきちゃって。やっぱり、食べたいもの食べておかないと」
「食は力、ですからねえ。……まあ、食堂にも、近場にもありますけど」
「向こうじゃ無理でしょ。見られたらどうするの。馬鹿」
アオイは、外で大口を空けて丼ものを食べられないと主張している。
淡路はアオイがバクバクとカツ丼を口へ運ぶのを、ジトッとした目で見ていた。彼女が先程口にしたセリフが、一体誰を意識してのものだったのか察してしまったからだ。
もう少し値の張るものを注文してやればよかったと、淡路は脳裏で向島に毒づいた。
「ねえ。今日明日で、ちょっと纏めて時間とれそう? 会議室、取れればだけど」
「確認しましょうか。また、後片付けですか?」
アオイがジャケットからUSBをチラリと取り出して見せ、また直ぐにしまい込む。それを見て淡路は、アドベンチャーニューワールドとは別件だと察した。
アオイは付け合わせのお新香をさっと食べて、空いた皿に少量の塩を出している。
「嬉しいですよ、僕をご指名なんて。てっきり、向島さんからの依頼かと思っていたので」
淡路は、涼しい顔で蕎麦を啜っている。
向島との会話を聴いた上で、淡路は嫌味を口にしたのだ。彼の顔には、いつもの笑顔が貼り付いている。
「そうね。でも、あんたくらいにしか、頼めそうにないし」
アオイは淡路の皿から大葉の天ぷらを取って、軽く塩を付けて口へ放り込んだ。
淡路はアオイにしては随分珍しい行動だと呆気に取られていたが、直ぐに天ぷらの皿を手前に引いた。皿にはまだ、海老と椎茸が残っている。
一体どんな仕事かと、淡路が尋ねた。
アオイは口元を手で覆って、食べていたものをゆっくりと噛み終えてから、向島が話した内容をそのまま伝えた。
「――へえ。それで、どうして僕なんでしょうかね?」
「だって、ピッタリじゃない。元々、狂ってるんだから」
悪びれもなく、アオイは言い切った。脳裏には、向島の手にしていた宅配伝票に書かれた、殴り書きの文字が浮かんでいる。
二人はしばらく、笑顔のまま向かい合う。
やがて淡路が箸を伸ばそうとしてきたので、アオイはさっと自分の丼を持ち上げた。それからアオイは、淡路の皿の海老を奪って口へ運ぶ。
「あっ! 海老!」
予想外に淡路が声を出したのでアオイは驚いたが、そのままぺろりと平らげてしまった。
「海老はないでしょう、海老は……。海老は、カツの真ん中三列の価値がありますよ? アオイさん、聞いてます?」
ブツブツ小言を言いながら、淡路は椎茸を汁に沈めている。
淡路の顔はムスッとしていて、そこにいつもの作り笑顔はない。彼は恨めしそうに、何度も椎茸を箸で沈めている。
やがて諦めたように椎茸を飲み込む淡路を見て、アオイは思わず吹き出した。
淡路は、そんなアオイを不思議そうに見ている。
目が合うとまた可笑しくなって、アオイは笑い出しそうになるのを堪えて箸を進めた。ここのところ、作り笑い以外の表情も見せるようになってきたとはいえ、まさかこんな顔をするとは――。
食べ終えて手を合わせると、アオイは淡路に笑い掛けた。
上機嫌だなと、淡路はそれを不思議に思う。
テレビの画面は既にワイドショーに切り替わっていて、そこにはキツネとインドラの姿が映っていた。
店主はモニターの前で競馬新聞を握りしめたまま、居眠りを始めていた。