3-3 boy ⑤
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「ご一緒に、『イチゴ山盛り♪マウンテンパフェ』はいかがですか?」
「いえ、結構」
笑顔で対応すると、向島はメニュー表をウェイトレスに渡してアオイの方へ向き直った。
ウェイトレスは向島にすっかり見惚れた様子で、名残惜しそうにゆっくりと勿体ぶって奥へ下がっていく。
時刻は、十四時。店内に、客は疎らだ。
向き合って、アオイは反射で向島から目を逸らしそうになってしまう。それでも無理やり留めようとして、結果的にアオイは向島と窓との間に視線を向けてしまった。
慌てて視線を戻すと、アオイの視界には、片肘をついて彼女を見つめている向島の姿が映り込んだ。品の良いシャツを纏った体に、これまた品の良い作りの顔が載せられている。向島という男は、それ自体がすでに一種の芸術作品のようだ。
「そんな顔をされると、悲しいな。折角、お前が喜びそうな店にしたのに」
向島は、目を逸らさずにそう言った。
アンティーク家具を基調とした店内は、隣り合う席との間隔が広く取られている。出窓に飾られたランプシェードが窓から入り込む陽に照らされて、柔らかな光をテーブルに投げていた。
「これは、向島の好みじゃなくて?」
いつものように返してみせたものの、アオイには全く余裕がなかった。
店は二階建てで、どうやら古民家を改造したものらしい。都会のど真ん中とは思えない程ゆったりとした時間の流れる店内には、優しいピアノ曲が流れている。
二階の窓からは、ベランダのグリーン越しに高層ビル群が覗いていた。そのアンバランスな対比は、鮮やかな色使いも相まって、まるで一枚の絵を眺めているようだ。
「好みは、互いに擦り合わせていくものだろう?」
「そういうのは……」
彼女や妻に言うものだ――そう言おうとして、アオイは出来ずに口を閉じた。向島からの返答が怖かったからだ。
アオイはなにか考える素振りをしながら、自分の手元を眺めている。
やがてウェイトレスが階段から姿を現して、二人の元に紅茶を運んできた。
小さなポットを二つテーブルに置いて、ウェイトレスはソーサーにカップをセットする。
シュガーポットはスズランのような形をしていて、小さく可愛らしい帽子のような蓋を載せていた。クリーマーは蕾を思わせる曲線が見事で、小鳥の絵が描かれている。
セットの途中で、向島がさり気なくウェイトレスの所作を遮った。
「ありがとう。あとは結構」
嫌味なくウェイトレスを下がらせて、向島がポットからアオイのカップに紅茶を注ぐ。
アオイのカップとソーサーには三羽の青い鳥がぐるりと描かれ、それらは見事な金彩で艶やかに彩られていた。
白衣から覗く向島のシャツの袖口で、なにかが輝く。それは唯のボタンだったが、光の加減で表面がオパールのように見えている。
「――どうした?」
尋ねられて、アオイは顔を上げる。
向島が、アオイの方へカップをそっと寄せた。
「今日は、気難しい顔ばかりじゃないか」
「ゴメン。……ほら、年末から、ずっと立て込んでるでしょ?」
違いないなと、向島が呟く。アドベンチャーワールドでの一件以来、アオイを始めとする特務課は事件の後始末に追われてきたのだ。
向島に礼を伝えてから、アオイはカップに手を伸ばした。
向島も、自分のカップに紅茶を注いでいる。彼のカップとソーサーはパールを思わせる白色で、シンプルなプラチナのラインが輝いていた。
「白衣、いつも着てる」
アオイは、向島の首元を見ていた。きゅっと結ばれたネクタイさえ、優雅だ。
「汚れが、直ぐに分かる。それに、暖かいからな」
それ以外に、向島が白衣を身に着ける理由はなかった。あるとすれば、一枚羽織っていると落ち着くということくらいだ。仕事柄、必要という訳ではない。
そういった意味でも向島は変わり者だったが、本人は他人からの目を全く気にしていなかった。
向島が、カップを口元へ運ぶ。
アオイも同じようにカップに口を付けたが、味わう程の余裕はない。
「東條――」
向島が口を開いたので、アオイは息を呑んだ。
「渡していなかったな。大分、遅れたが」
向島は、白衣のポケットから小さな箱を取り出した。白を基調とした薄い長方形の箱に、ルビーのようなリボンが掛けられている。クリスマスプレゼントだと、向島は言った。
アオイは自分がなにも用意していなかったので躊躇ったが、向島は彼女の手を掴んで半ば無理やり受け取らせる。
「大したものじゃない。受け取っておけ。ティーバッグだが、味は悪くない」
「ありがとう。葉っぱより嬉しいかも。ほら、気軽に飲めるし」
「だろうな。そう言うと思ったんだ」
アオイは箱を受け取る。
向島の手は、少し遅れてアオイから離れた。
「お前の予想通り、それを渡すために呼んだんじゃない。こっちだ」
向島は白衣からUSBを取り出して、テーブルに置く。
仕事の話だと理解した途端、アオイは体の緊張が解けるのを覚えた。
「年末に、とある筋から持ち込まれたものだ。本来なら、こっちで受けるような仕事じゃない」
「……アナザー?」
「その可能性がある」
向島は、中には音楽データが記録されていると言った。それは、インターネット上でカルト的な人気を誇る作曲家のものだという。
「メモを付けておいた。一緒に確認してくれ。俺は、最後まで聴いていない。……出来ないんだ」
「出来ない?」
「ああ。聴くに堪えない。それを寄こした奴の話に寄れば、『人が、狂う』と。勿論そんなことを信じている訳ではないが、どうにも妙だ。これは音楽ではない。耳が拒否する」
聞けば、向島は、ほとんど触りの部分で断念したという。元ピアニストとしての彼の耳が拒否する音楽とはどれ程のものなのかと、アオイは強く興味を惹かれた。
向島は思い出してしまったのか、苦い顔をカップで隠している。
アオイはUSBを受け取って、それを胸ポケットにしまった。
「ありがとう。オフィスでも良かったのに」
「オフィスでは、話せないだろう?」
何故かと問いかけて、アオイは直ぐに自分が余計なことを口にしたと気付いた。
「年末、お前の家に贈り物をしたんだ。クリスマスと新年の祝いを兼ねて。シャンパンだ」
向島はカップをソーサーに戻して、ゆっくりと背もたれに体を預ける。それから胸元に手を入れて、薄いカサカサした紙を取り出すと机上に置いた。宅配便の送り状だ。
アオイはカップに手を伸ばしかけた手を止め、所在なく膝に戻す。カップに添えられたティースプーンに映り込む自分の顔は、不格好に歪んで見えている。
「どうしたことか、返送されてしまった。受け取り拒否だ。だが、何故かな。サインは、『東條』ではなかった」
トントンと、向島の長く細い指がテーブルの送り状を叩いている。そこには殴り書きで、「淡路」とあった。
送り状の日付は、十二月三十一日。その日はアオイも、さらにいえばヒカルとリリカも在宅していた日である。
アオイは、自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。足元が、どうにも落ち着かない。椅子の方へ引いていた脚を少し前へ出してみたり、もう一度引いてみたりしながら、アオイはカップに手を伸ばした。
紅色の水面には、情けない女の顔が映り込んでいる。
「話すと……それが結構、長い話……なの」
ようやく言葉を絞り出すと、アオイはカップに口をつけた。焼けるような熱さが、喉を急激に下りていく。
「なにから話せばいいか……ちょっと難しくて。でも全然、やましい話とかじゃないの。それは、本当」
カップの中の小さなさざ波が、映り込んでいたアオイの表情をかき消した。
向島は、無言でアオイの顔を眺めている。嘘は、言っていない。顔を見れば、それは直ぐに分かる。
アオイが左手で髪に触れると、彼女の耳元で何かが光を反射させた。ピアスだ。
ダイヤが光を拾ってキラキラと輝く様は、向島の目には、まるでアオイの涙を見ているようにも映った。
「――そうやって、お前は昔から、一人で抱え込む癖があるように思う。違うか?」
向島の声のトーンが、変わった。彼は背もたれから体を離すと、テーブルの上で手を組んだ。節くれ立った長い指の先には、整えられた爪が光っている。
「なにを、悩んでいる? それは、俺には……友人には、話せないことなのか?」
「私は――」
アオイはすぐに、口を噤んだ。それから彼女は、口の端を噛み締めた。
アオイの頬には、睫毛が影を落としている。
「なあ、東條。今のままでは、お前の力になれないのなら――」
アオイの靴の先に、何かがコツリと当たった。向島の靴だ。
アオイが顔を上げた先には向島がいて、彼は真っすぐに彼女を見ていた。
「少し、先へ進まないか。俺達の――」
向島の声を遮って、室内に鳴り響くバイブレーション。
アオイがジャケットのポケットに手を入れると、スマートフォンが振動を繰り返している。
「……ごめん。課長から呼び出し」
アオイが財布を取り出すと、向島がそれを手で制した。
「東條。次は、もっとゆっくり話そう。時間を作る」
向島は真剣な顔でそういって、それから少し微笑んで見せた。それは、アオイを安心させようとしてのことだった。
アオイは頷いて、席を立つ。
アオイが階下へ去って行った後も、しばらくの間、向島は階段の方を見つめていた。
店の外。
歩き出して程無く、アオイは後手で拳を振るう。
「あれ? タイミング、完璧だったでしょう?」
アオイの拳を受け止めて、淡路が笑顔を見せた。
遅いと、アオイは苛立ちを隠さず言い放った。手にしたスマートフォンの通知画面には、淡路の名前がある。
淡路が手の甲にキスしようとしたので、アオイは慌てて引っ手繰るように手を引いた。
「国後達がね、アオイさんが『鬼に連れてかれた』って騒いでいたもので。勿論、急いだんですよ? ただ、随分楽しそうだったので」
淡路は、アオイの隣に並んで歩き出した。
「……それ、なに付けてるの?」
アオイの視線に気付いて、淡路が口元を親指の腹で拭う。
「違う。こっち。……クリーム?」
アオイは、淡路がしたのとは反対の口元を指で拭った。
淡路は少し驚いていたが、アオイは無自覚のようだ。
「折角なので、小腹を満たそうかなと。向島さんに、お礼言っておいてくださいよ」
淡路が悪びれなくそういったのを見て、アオイは彼の態度に呆れかえった。淡路は最初から同じ店に居て、二人の会話を聴いていたのだ。しかも淡路の口ぶりでは、伝票を向島に付けている。
溜息を漏らして、アオイは腕時計に目をやった。
それから淡路の腕を掴むと、アオイは職場とは反対の方向へ歩いていく。淡路は不思議に思いつつ、素直にそれに従った。
向島の元に「イチゴ山盛り♪マウンテンパフェ」と書かれた三千三百円の伝票が届いたのは、それから数分後のことだった。