3-3 boy ③
*
同時刻。
生物準備室の地下で、ヒカルは中林の診察を受けていた。中林は、普段は老人の姿で教師として働いているが、本来の姿は青年の医師である。
「君が勇敢で、そして心優しいことに、感謝している」
聴診器を耳から外して首に掛け、中林は軽くヒカルを抱き寄せた。そうして彼は、ポンポンとヒカルの背中を叩く。
無事でよかったと、中林が呟くようにいった。お互いに無事であることは既に知っていたが、こうして対面して、ようやくその実感が沸いてきたのだ。
中林の心中を察して、ヒカルは目に込み上げてくるものを必死に抑えた。無我夢中だったとはいえ、自分があれ程までに巨大なアナザーに勝利することが出来たとは――。
「よく、闘ってくれた。ヒカル」
「人の命を守るためです。それに先生は、僕の命の恩人ですから」
ヒカルは、自分の胸に手を当てた。普段はラテックス製のテープで隠しているそこには、事故で負った傷がある。中林から心臓の提供を受けなければ、彼は今こうして生きてはいないのだ。
中林は何度も頷いて、ヒカルの頭をワシャワシャと撫でた。
ヒカルは中林の顔を見ながら、褒められることをしたのだと自分に言い聞かせていた。
「そういえば、先程は随分と賑やかだったようだが?」
中林はヒカルから離れて、彼から回収したスーツを確認している。スーツは最後の闘いの際に左腕が破け、脚回りにも亀裂が走っていた。
「すみません。ちょっと、色々あって……」
ヒカルは先程の一件を、自分でもやりすぎてしまったと感じていた。つい力を込めて、野球部相手に特大のホームランを放ってしまったのだ。
「くれぐれも、怪我はないように。まだ、アナザーとの闘いは終わっていないのだから」
「……僕が怪我しても、代わりは居ますよ」
ヒカルは、インドラとキツネの姿を思い浮かべている。
「なんだね? 君がそんなことを言うとは、珍しい。あの映像のことかね?」
ヒカルは自分を恥ずかしく思って応えなかったが、中林の口調はそうだと断定していた。
「そう、むくれないでおくれ。あれは、よく出来ていたろう?」
「……じゃあ、あれは先生が? どうして?」
「世間の目を、君から逸らす為だ。君の正体が、バレる訳にはいかないからな」
中林はスーツを机に置いて椅子に腰を落ち着けると、指で目頭を抑えて、それから首をぐるりと回した。
ヒカルは中林の傍へ行って、何も言わずに中林の肩を叩いてやる。
まだそんな歳じゃないぞと、中林が笑った。普段は老人の変装をしているだけで、本当はまだ若いと言いたかったのだ。
ヒカルは構わず、肩を叩いている。
「核を巡る闘いは、これから一層激しくなるだろう。ハンターも、他に何人いるか分からない。分かるな? 目立つことを避け、出来るだけ効率的に核を手に入れる必要がある」
「だから先生は、ワザとあの二人の存在を?」
(でもそれじゃ、あの人達が危険に……)
中林の肩を叩くヒカルの手が、動きを鈍らせる。中林はそれに気付くと、ヒカルがなにか迷っているのだと察した。
「気まぐれに助けられたとて、気を許してはいかんよ。あの二人も、核を狙っているのだ。君とは、必ず敵対する。現に、水の核は奪われただろう」
「はい……。先生。僕に、あの二人が狩れますか?」
ヒカルは、可能ならば避けたいと考えている。あれから、幾度も考えた。しかし、やはり助けて貰った以上は、あの二人と敵対したくないという思いがあるのだ。
中林は、ううむと唸った。酷く、思い悩んでいる様子だ。
ヒカルは、既に自分自身の問いに答えを出していた。ノー、だ。あの二人は、核の力を使いこなしている。対する自分は、中林のスーツが無ければ闘うことも出来ない。
「結論から言えば、君がキツネを狩る必要は、もう無い。分かるかね?」
「インドラ……いえ、あの二人同士、闘わせるということでしょうか?」
中林は満足そうに、うんうんと頷いた。
「漁夫の利というやつだ。二人に核を集めさせ、最後に残った者を君と私とで狩る。それまでは、君は秘密裏に動いた方がいい」
「……分かりました」
返事をしたものの、ヒカルの心は暗かった。いっそのこと、あの二人が完全に悪人であってくれればよいのにと願った。
スマートフォンが鳴って、ヒカルはリリカとの約束を思い出す。リリカは運動場の傍で、友達と一緒にいるようだ。
「スーツは修理しておこう。それから、胸を隠すテープも少し多めに必要になるな」
中林は、来月のスキー合宿の話をした。宿泊先では、クラスの皆で脱衣所と浴場とを使用する。余計な詮索をさけるためにも、傷のことは隠しておくべきだろう。
カバンを手に、ヒカルは地下から地上の生物準備室へ伸びる梯子に手を掛けた。
「――先生」
振り向いたヒカルは、中林と目を合わせた。
中林は、ヒカルの言葉を待っていた。
「生物部に、入部希望者が来ませんでしたか?」
どうしてかと、中林が尋ねる。
ヒカルは、なんとなくだと答えた。始業式である今日、アンズは教室に居なかったのだ。担任は、それについて触れていなかった。
「一人、来たよ。だが、年末に転校が決まってね。……確か、君と同じクラスだったと思うが?」
ヒカルは驚いて、それは西園寺アンズのことかと尋ねる。
中林は、頷いて答えた。
「そうですか。知らなかった……。ありがとうございます。それじゃあ、行きます」
再び梯子に手を掛けたヒカルを、今度は中林が呼び止めた。
「ヒカル。他に、なにか気になっていることはないかね?」
ヒカルは、首を横に振った。それから中林に笑って手を振ると、ヒカルは梯子を伝って階上の生物準備室へ戻っていく。
ヒカルは、中林に嘘を付いた。
中林も、それに気付いていた。
アンズのことも気になってはいたが、ヒカルにはそれ以外にも知りたいことがあったのだ。
胸に手を当てて、ヒカルは自分の心臓の音を聞いた。
スマートフォンのチャットアプリでリリカに連絡して、ヒカルは運動場の方へと駆けていく。
その後姿を、中林が見ていた。