3-2 素直で、でも不器用で ⑧
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帰宅するなり、北上は台所の流しの下から一升瓶を引っ掴んで部屋へ行った。ようやくエンジンが掛かったところだったので、もう少し呑んでから眠りたい。
炬燵机に風呂敷包みを置いて電気を点けると、心なしか、いつもより部屋の明かりが温かい色合いに見えた。
廊下側のボロボロの障子戸を開けて縁側に出ると、ガラス戸の向こうに小さな三角が二つ見える。今朝の野良猫が、北上の帰宅に気付きピョンピョンと跳ねていた。
ガラス戸を十五センチ程開けて、北上はその前に座布団を敷いてやる。
朝には帰るようにと猫に声を掛けて、北上はさっさと炬燵に入り重箱を開く。グラスを取りに行くのが面倒だったので、酒は今朝コーヒーを呑んだマグカップに注いだ。
上着とベスト、ネクタイを外して適当に端へやると、北上はシャツの襟首を乱暴に開いた。皴になることも汚れることも、結局は自分が全て処理するのだということも分かっているのだが、今は兎にも角にも面倒臭い。
一杯煽ると、北上は、ようやく人心地ついたように思った。
「――こら。そっちだ」
猫が北上の目を盗んで、部屋まで入ってきていた。障子戸は、閉まっている。
破れた障子の間を通ったのだろうと北上は考えたが、実際は、彼と同じタイミングで堂々と部屋に入ってきていた。すっかり気が緩んでいたので、北上は気付いていない。
猫は子猫特有の庇護欲を掻き立てるような表情で、北上を見つめている。
北上はそれを見ないように努めながら、再び酒を煽った。
ふと、箸がないと気付いて、北上は台所の方を見やった。念じたところで箸が飛んでくる訳ではないが、炬燵からは出たくない。
手掴みでも構わないのではと考えたが、それでは重箱を彩るメニューとその作り手に対して失礼に思える。
炬燵からは、出たくない。しかし、ベルトも外してしまいたいし、スラックスも靴下も脱ぎたい。そうなってくると、脱ぎ捨てて見ないフリをしている上着なども、一緒に片付けなくてはいけないような気がしてくる。
風呂は、朝でもいい。朝にしようと、北上は独りごちた。
体を少し後ろへ反らして、北上はベルトを外して端へ放る。靴下も、炬燵の中で脱いでしまった。もう、炬燵からは出たくない。
それからしばらく、北上は意味のない抵抗をしていた。しかし重箱から放たれる誘惑には勝てなかったので、やがて気合を入れて、北上は台所から箸や醤油などの必要そうなものを一通り揃えてきた。
猫が、北上の席に座っている。
北上は目を合わせないようにしながら、首の後ろをひょいと掴んで猫を端へ退けた。
猫は、鳴かない。ただずっと、北上のことを見つめている。
「エサは、やれない。俺は独り者だぞ。明日ぽっくり逝くかもしれないのに、猫なんか飼えるか」
北上は、台所から持ってきたグラスに酒を注いだ。呑みなれている、いつもの酒。
(熱燗にすればよかった)
北上は台所へ目をやったが、もう炬燵からは出ないと決めていたので諦めた。
そっと、猫の手が、炬燵布団からはみ出している北上の左尻の辺りに触れた。クリームパンのような、丸っこい手だ。
「エサは、ダメだ。ちゃんと、責任を持ってくれそうな奴の所へ行ってくれ」
ここから十分も行けば大きな家に優しい人間が住んでいるぞと、北上は南城家について話してやった。
猫は三角の耳をピコッピコッと動かして、北上の話を聞いている。
北上は自宅までの帰り道、掲示板に貼られたポスターを見て、南城の父親の仕事を知った。北上はその時まで、南城父が道場主であること以外は全く気付いていなかったのだ。
(賑やかで、皆親切で……でも南城は、息苦しそうだった)
浮かんだ考えをかき消すように、北上は酒を飲み干す。分かったような気になって同情することを、南城は嫌うだろう。
「サクラと、いうらしい。サクラだ。桜と同じだ」
猫は、北上の膝の上に移動していた。相変わらず鳴きもせず、子猫は真ん丸な目で北上を見つめている。
「立ち振る舞いが綺麗だろう? 堂々としていて、無駄がない。うん。剣道に弓道だ」
掴もうとした箸が、転がった。
醤油皿には、とぼけた魚の絵が描かれている。ヒラメのような体をしている癖に、口元はフグのようで尾っぽが随分と短い。その顔を隠すように、北上は醤油を並々注いでやった。
「あんなに酒が強いのは、爺さん位なものだと思っていた」
北上の背中側にある襖の奥の部屋には、仏壇が置かれている。そこは居間よりも暗く、少し寒かった。
浮かんでくる考えを追いやるように、北上はグラスに酒を注いで煽る。
醤油が、幾らか机に零れているのが見えた。
チューブから絞り出したワサビが、醤油の中にドップリと浸かっている。
(風呂は朝でいい。明日はゴミ出しと、資料の作成と……。熱燗……)
吸い寄せられるように炬燵机に頭を載せると、そのまま北上は目を閉じた。
猫が、小さく鳴いた。
北上は、応えない。
しばらくして、猫は机に飛び乗ると、鮪のカマの塩焼きと蒲鉾をムシャムシャ食べた。海老の尻尾を噛んで振り回し、酒の残っていたグラスを倒し、醤油の入った小皿に片脚を突っ込んで、そのまま炬燵布団の上を跳ねて回った。
そうして一頻り遊んだ後、子猫は炬燵に潜り込んで、一人と一匹はスヤスヤと幸せそうに眠った。