表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
progress
113/408

3-2 素直で、でも不器用で ⑦

 *



 二十時三十五分。


「兄さん。食事です。ここへ、置きますよ」


 部屋の前で膝を着くと、南城は膳をドアの前に置いた。


 兄の部屋の前には、黒墨で大きな×印が幾つも描かれている。兄が、自分で描いたものだ。


「……今日は、まだ何も召し上がっていないのでしょう?」


 兄は起きていて、自分の声も届いている。それは、南城には気配で分かるように思った。


 しばらく兄の反応を待って、諦めて南城は立ち上がる。そうして背を向けた時、扉の向こうから、小さく彼女を呼ぶ声がした。


「ねえ。誰か……来ているの……?」


 久しぶりに耳にした兄の声は、まるで少年のようだった。


「直に、お帰りになりますよ」


「そう。……父さんの、お仕事の方かな? そうだろう? ……そろそろ、国政にでも、打って出るおつもりかな」


「どうでしょう。私には、分かりかねます」


 南城は、嘘を吐いた。彼女は、父親が国政には興味がないことに気付いている。欲を出すとすれば、都政の方だろう。


 来訪者の名を、兄は尋ねた。


 南城は、名前を聞いていないと答えた。


「僕の存在は……きっと、父さんを困らせているよね?」


 兄の声は、震えていた。


 南城は背を向けたまま、兄の言葉を否定する。しかし兄は、そんな南城の言葉を否定した。


「お前だって、母さんだって……みんな、僕が憎いだろう? 僕がこんな奴で、僕がダメな奴で、僕が……」


「兄さん。皆、心配しております」


「うるさいっ!」


 バンッと、ドアを叩く音。


 それから、ドサリとなにかが地面に落ちたような音が続いて、兄の泣き声が廊下まで漏れ聞こえてきた。


 兄は自分を卑下する言葉を並べ立て、家を呪うように泣き叫んでいる。客人が家にいることなど、まるで忘れてしまったようだ。


 南城は足早に、兄の部屋から離れた。胃の辺りに込み上げてくる不快な感情が、彼女を静かに苛立たせていく。


(父は病気。母も病気。兄も、病気。みんな、みんな病気……)


 客間へ向かう途中、向こうからやってきた家政婦の谷口に、南城は適当な用事を言いつけた。


 谷口は南城の言葉の意図を直ぐに悟った様子で、頭を下げて台所の方へ引き返していく。表情には出ていなかったが、彼女の耳にも兄の声が聞こえていたのかもしれない。


 客間の前まで行くと、南城は声を掛けずに酷く無作法に襖を開けた。彼女はすぐに我に返って自分の行動を恥じたが、父からの叱責はなかった。


 父の姿が、見当たらない。


「……北上? 父は、どうした?」


 北上は、本を片手に独りで呑んでいた。タイトルには、『剣の道』とある。いつだったか、南城の父親が戯れに書いたものだ。


 北上は左の眉を少し下げて、弱ったような顔で彼の背後に視線を送る。そこには南城の父親が、座布団を枕に横向きで寝かされていた。


「お前、潰したのか?」


 信じられず、南城は父に駆け寄った。


 父親は北上のジャケットを体に掛け、赤い顔をしてグウグウと幸せそうに寝ている。


「嘘だ。父は、酒には強いんだぞ。本当に酔ったことなど、私は、見たこと……」


「すまない。もう、呼びにいこうと思っていた」


 北上は、名残惜しそうに酒を飲み干した。


 頬の辺りが少し赤く見えなくもないが、北上は普段とほとんど変わらない様子だ。南城はそれを、気味悪く思った。そうして彼女は北上が、生徒から「鉄仮面」と呼ばれていることを思い出す。


 襖を開けて人を呼ぶと、南城は父親の世話と北上への手土産とを手早く指示した。


「……それ、別に無理して読まなくていいぞ。大したことは、書いていない。今日は悪かったな。家は、どのあたりだ? 車を出させる」


「いや。近所だ」


 北上は本をテーブルに置くと、水を一杯飲んでから帰り支度を始めた。


 南城は畳の上に、三つ折りにして放置されていたコートを見つける。あれだけ人が出入りしていて、誰もその存在には気付かなかったようだ。


 コートを手に北上の後ろへ回ると、母や滝が父にそうするように、南城は彼にそれを着せてやった。


 視線を感じて顔を上げると、南城は北上と目が合う。


「あのな、北上。一月だぞ? そんなに呑んで、外で倒れられてみろ。明日には、冷凍死体の出来上がりだ」


 うんと、北上は短く返事した。


(……なんだ? 部屋で上着を着るなとか、そういうことか?)


 なにか言いたげな北上を不審に思いながら、南城は駆け付けた家政婦に父親を託し、北上と部屋を後にする。


 玄関には滝と車係の山中、それに父親の秘書の堀井がいた。


 堀井は南城の父親の行動を謝罪し、慣れた様子で深々と頭を下げる。滝と山中も、それに続いた。


 北上が困るだろうと察したので、南城は北上の背中を押して彼を玄関の外へと連れ出す。玄関の扉を閉める直前、南城は滝から風呂敷包みを受け取った。


「車、本当にいいのか?」


「いい。十分もかからない。酔い覚ましだ」


「そうか? なら、いいが。……今日は、本当に悪かったな。二人に、悪気はないんだ。こんなことを言える立場ではないが、水に流して貰えると助かる」


「ああ。いや、却って申し訳なかった。皆さんによろしく伝えてくれ」


 頷いて、南城は北上に風呂敷包みを手渡す。それから、重箱は家に幾らでもあるので返さなくていいと伝えた。


「そういえば、なにを話したんだ? なんだか知らんが、滝は、お前の言葉を誤解したんだろう?」


 南城は、北上の言動が原因で、滝が二人の関係を誤解したことは知っている。だが、その具体的な内容までは聞かされていない。知らなくとも問題がないと思っていたので聞かずにいたが、ここへきて急に興味を持った。


 北上は、口の端をほんの僅かに持ち上げた。どうやら、笑ったらしかった。


「さくらが好きだ、と言った。真っすぐで、とても、可愛らしいから」


「ああ、その言い方では、人の方だと誤解するかもしれんな。滝は、悪くない。お前は、言葉足らずだよ。そんなことでは、いつか酷い目にあうぞ」


 言ってすぐ、南城は自分の言葉を可笑しく思った。今日以上に酷い思いをすることが、この先にあるだろうか。


 北上は、満足そうに頷いた。


 それから南城の体を労わる言葉を掛けて、北上は夜道を独り去っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ