3-2 素直で、でも不器用で ⑦
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二十時三十五分。
「兄さん。食事です。ここへ、置きますよ」
部屋の前で膝を着くと、南城は膳をドアの前に置いた。
兄の部屋の前には、黒墨で大きな×印が幾つも描かれている。兄が、自分で描いたものだ。
「……今日は、まだ何も召し上がっていないのでしょう?」
兄は起きていて、自分の声も届いている。それは、南城には気配で分かるように思った。
しばらく兄の反応を待って、諦めて南城は立ち上がる。そうして背を向けた時、扉の向こうから、小さく彼女を呼ぶ声がした。
「ねえ。誰か……来ているの……?」
久しぶりに耳にした兄の声は、まるで少年のようだった。
「直に、お帰りになりますよ」
「そう。……父さんの、お仕事の方かな? そうだろう? ……そろそろ、国政にでも、打って出るおつもりかな」
「どうでしょう。私には、分かりかねます」
南城は、嘘を吐いた。彼女は、父親が国政には興味がないことに気付いている。欲を出すとすれば、都政の方だろう。
来訪者の名を、兄は尋ねた。
南城は、名前を聞いていないと答えた。
「僕の存在は……きっと、父さんを困らせているよね?」
兄の声は、震えていた。
南城は背を向けたまま、兄の言葉を否定する。しかし兄は、そんな南城の言葉を否定した。
「お前だって、母さんだって……みんな、僕が憎いだろう? 僕がこんな奴で、僕がダメな奴で、僕が……」
「兄さん。皆、心配しております」
「うるさいっ!」
バンッと、ドアを叩く音。
それから、ドサリとなにかが地面に落ちたような音が続いて、兄の泣き声が廊下まで漏れ聞こえてきた。
兄は自分を卑下する言葉を並べ立て、家を呪うように泣き叫んでいる。客人が家にいることなど、まるで忘れてしまったようだ。
南城は足早に、兄の部屋から離れた。胃の辺りに込み上げてくる不快な感情が、彼女を静かに苛立たせていく。
(父は病気。母も病気。兄も、病気。みんな、みんな病気……)
客間へ向かう途中、向こうからやってきた家政婦の谷口に、南城は適当な用事を言いつけた。
谷口は南城の言葉の意図を直ぐに悟った様子で、頭を下げて台所の方へ引き返していく。表情には出ていなかったが、彼女の耳にも兄の声が聞こえていたのかもしれない。
客間の前まで行くと、南城は声を掛けずに酷く無作法に襖を開けた。彼女はすぐに我に返って自分の行動を恥じたが、父からの叱責はなかった。
父の姿が、見当たらない。
「……北上? 父は、どうした?」
北上は、本を片手に独りで呑んでいた。タイトルには、『剣の道』とある。いつだったか、南城の父親が戯れに書いたものだ。
北上は左の眉を少し下げて、弱ったような顔で彼の背後に視線を送る。そこには南城の父親が、座布団を枕に横向きで寝かされていた。
「お前、潰したのか?」
信じられず、南城は父に駆け寄った。
父親は北上のジャケットを体に掛け、赤い顔をしてグウグウと幸せそうに寝ている。
「嘘だ。父は、酒には強いんだぞ。本当に酔ったことなど、私は、見たこと……」
「すまない。もう、呼びにいこうと思っていた」
北上は、名残惜しそうに酒を飲み干した。
頬の辺りが少し赤く見えなくもないが、北上は普段とほとんど変わらない様子だ。南城はそれを、気味悪く思った。そうして彼女は北上が、生徒から「鉄仮面」と呼ばれていることを思い出す。
襖を開けて人を呼ぶと、南城は父親の世話と北上への手土産とを手早く指示した。
「……それ、別に無理して読まなくていいぞ。大したことは、書いていない。今日は悪かったな。家は、どのあたりだ? 車を出させる」
「いや。近所だ」
北上は本をテーブルに置くと、水を一杯飲んでから帰り支度を始めた。
南城は畳の上に、三つ折りにして放置されていたコートを見つける。あれだけ人が出入りしていて、誰もその存在には気付かなかったようだ。
コートを手に北上の後ろへ回ると、母や滝が父にそうするように、南城は彼にそれを着せてやった。
視線を感じて顔を上げると、南城は北上と目が合う。
「あのな、北上。一月だぞ? そんなに呑んで、外で倒れられてみろ。明日には、冷凍死体の出来上がりだ」
うんと、北上は短く返事した。
(……なんだ? 部屋で上着を着るなとか、そういうことか?)
なにか言いたげな北上を不審に思いながら、南城は駆け付けた家政婦に父親を託し、北上と部屋を後にする。
玄関には滝と車係の山中、それに父親の秘書の堀井がいた。
堀井は南城の父親の行動を謝罪し、慣れた様子で深々と頭を下げる。滝と山中も、それに続いた。
北上が困るだろうと察したので、南城は北上の背中を押して彼を玄関の外へと連れ出す。玄関の扉を閉める直前、南城は滝から風呂敷包みを受け取った。
「車、本当にいいのか?」
「いい。十分もかからない。酔い覚ましだ」
「そうか? なら、いいが。……今日は、本当に悪かったな。二人に、悪気はないんだ。こんなことを言える立場ではないが、水に流して貰えると助かる」
「ああ。いや、却って申し訳なかった。皆さんによろしく伝えてくれ」
頷いて、南城は北上に風呂敷包みを手渡す。それから、重箱は家に幾らでもあるので返さなくていいと伝えた。
「そういえば、なにを話したんだ? なんだか知らんが、滝は、お前の言葉を誤解したんだろう?」
南城は、北上の言動が原因で、滝が二人の関係を誤解したことは知っている。だが、その具体的な内容までは聞かされていない。知らなくとも問題がないと思っていたので聞かずにいたが、ここへきて急に興味を持った。
北上は、口の端をほんの僅かに持ち上げた。どうやら、笑ったらしかった。
「さくらが好きだ、と言った。真っすぐで、とても、可愛らしいから」
「ああ、その言い方では、人の方だと誤解するかもしれんな。滝は、悪くない。お前は、言葉足らずだよ。そんなことでは、いつか酷い目にあうぞ」
言ってすぐ、南城は自分の言葉を可笑しく思った。今日以上に酷い思いをすることが、この先にあるだろうか。
北上は、満足そうに頷いた。
それから南城の体を労わる言葉を掛けて、北上は夜道を独り去っていった。