1-3 嚙み合わない関係 ⑥
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バターの甘い香りに包まれた店内で、リリカはウットリとした表情で溜息を漏らした。
ショーケースの中には、丹精込めて作り上げられた宝石のようなチョコレート。
(一粒、四百円……)
ヒカルは既に、驚きも呆れも通り越した虚無の目をケースに向けている。
ラスク、タルト、クッキーまでは理解ができた。ガレット、フィナンシェ、マドレーヌ辺りも、まだ分かる。だが店の奥へと進む度に、甘い香りは強くなり、菓子の名も価格も段々と可愛げがなくなってきた。
カヌレとクグロフはどう見ても同じものにしか見えないし、ダックワーズは形が伸びたマカロンだ。ケークオーフリュイ――つまりフルーツケーキは、家で作るパウンドケーキと色も形も同じなのに、随分と可愛らしくない値段を誇らしげに掲げている。
最高級の食材を最高の職人が加工して、リッチな土地に構えた店舗に並べる。それだけで、小麦粉の塊がまるで宝石のような扱いを受けている。
「わあっ……!」
アーモンドを砂糖で包んだような菓子を見つけて、リリカが思わず声を上げた。
クラシカルなメイド風の制服に身を包んだ店員は、我が子を見る母親のような柔らかな眼差しを菓子にもリリカにも向けている。菓子を褒められることは嬉しくもあり、自分たちの仕事を認められることは喜びなのだろう。
「ねえねえ、これ、アオ姉が結婚式で」
「貰ってきてたね」
パステルカラーで彩られたアーモンドたちは、「ドラジェ」と大層な名を掲げている。
最近は割と落ち着いてきたが、アオイは以前、毎月のように結婚式に出かけていた時期があった。生涯独身者が増えていても、式を挙げないカップルが増えているとはいっても、やはり在るところには在るものなのだ。
毎回祝う側に居る姉の姿を見て、ヒカルはなんとも複雑な気持ちになったものである。
「あ、あっちのシュークリームもカワイイ!」
ヒカルの制服の裾を引っ張りながら、リリカは興奮を抑えきれない様子だ。
店の雰囲気を壊してはいけないという配慮なのか、緊張しているのか、はたまた本人にも自覚がないのかは定かではないが、なぜか小声である。
リリカがシュークリームかエクレアかと迷っていると、彼女は店員に声を掛けられた。どうやら店員は、リリカを知っているようだ。
「やっぱり。可愛いなって思って。本物はもっと可愛いですね!」
「そんなことないです。やだあ。恥ずかしい」
店員はリリカの「ニャンスタ」のアカウントをフォローしているという。
スマートフォン片手に楽し気なリリカを横目に、ヒカルは呆れた様に眉を下げた。可愛いだのキレイだのと褒められれば決まって謙遜するが、家に帰れば当たり前だと豪語するのがリリカなのだ。
「コスメだけじゃなくて、お菓子の紹介もされてましたよね? 一緒に合わせる紅茶も素敵だねって、みんなで話してて」
「ありがとうございます。嬉しい! あ、でも私、お茶は全然分からなくて。あの日は、たまたま家に在っただけなんです」
合わせる紅茶を態々買いに出かけたっけと、ヒカルは少し前の週末を思い出していた。
自転車に二人乗りで、坂を上ったり下ったり。勿論漕ぐのはヒカルで、リリカは後ろでスマートフォン片手にナビをしていた。
途中でパトカーを見かけて逃げるように小道に入ったり、道を間違えたり。そうして何気なく目に映ったガードレール越しの夕日が、燃えるように赤かったのを覚えている。
ぐるりと店内を見渡すうち、ヒカルの目が、ケースの中に佇む砂糖菓子の家に止まった。切り株やキノコに囲まれて建つ、丸太の小屋だ。屋根は色とりどりの飴細工に彩られ、クッキーの壁にチョコレートの煙突を立てている。
ヒカルはそこに小人のようなリリカが住む姿を想像して、クスリと笑った。家具も菓子で作れと、いつものように我儘を言うに違いないと思ったのだ。宝石のような菓子に囲まれて眠る時、リリカは一体どんな夢を見るのだろう。
会話の流れが買い物にシフトしたのを察して、ヒカルは視線をリリカに戻す。
リリカはシュークリームを幾つか買ったようで、店員が手際よく箱に詰めているところだった。
「買えて良かったね」
ヒカルが声を掛けると、リリカは笑顔を見せる。
「お待たせしました。ちょこっとですけど、オマケ入れておきますね」
「わあ! ありがとうございます!」
惜しみなく笑顔を見せると、リリカはケーキ箱を両手で宝物のように受け取った。
「どういたしまして。彼氏さんと仲良く食べてくださいね」
店員は、ニコリと笑う。
ヒカルもリリカも笑顔こそ崩さなかったが、互いの間に大きな緊張が走ったことを確かに感じ取っていた。
互いの関係性には否定も肯定もしないまま、二人は笑顔のまま機械的に礼をして店を出る。互いに相手が次の言葉を待っていることに気付いていたが、二人には自分から関係を確認するような勇気もなかった。
道を行くうちに、後ろから自転車のベルを鳴らされて、ヒカルが歩道側に体を寄せた。ヒカルの右肩とリリカの左肩が僅かに触れて、それは少し間をおいてからゆっくりと離れていく。
どちらともなく、二人の足は帰宅ルートを変更して公園を目指していた。この時間は交通量も増えるため、公園の中を抜けていく方が安全だと無意識に考えていたのかもしれない。
二人はその後も無言のまま、公園の中を進んでいった。