3-2 素直で、でも不器用で ③
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十七時。
辺りはすっかり暗くなり、気温も大分下がり始めた頃。北上は、道場の前にいた。
北上も南城の実家は剣道場だと耳にしたことがあったが、都内にこれほどの土地を所有しているとは知らなかった。
道場は、学校と北上の自宅とのほぼ中間に位置している。ここから北上の自宅までは、徒歩で十分もかからないだろう。
(ずっと、公園かなにかだと思っていた……)
延々と続く塀の向こうに同僚が住んでいるとは知らず、北上は毎朝その隣を歩いていた。高い塀の向こうを、想像したことも無かったのだ。
道場ではなく家の門はないかと、北上は辺りを見回した。しかし見回す限りでは、それらしきものは見当たらない。
仕方なく道場の門をくぐると、北上は眼前の石畳の上に老婆を見つけることができた。
北上が声を掛けてお辞儀をすると、老婆は彼の傍へ素早く駆け付ける。
「これは失礼いたしました。どちら様でございましょう?」
老婆は品のよい笑顔を浮かべていたが、明らかに北上を警戒するような素振りを見せている。
「北上と申します。お嬢さんに、これを」
北上はこの老婆に託して帰ればよいのだと思いついて、増田から受け取った紙袋と封筒とを手渡した。
老婆は頭を下げて紙袋を受け取ると、北上の顔と袋の中身とを交互に見ている。
怪しまれているような気がしたので、北上は説明が必要だと考えた。
「羊羹と、封筒が入っています。お嬢さんに、渡して頂けますか」
「これはまた、どうもご丁寧に……」
老婆は繰り返し頭を下げたが、北上に向ける目は先ほどよりも鋭くなっている。
北上は、なにか誤解されているように思った。そして、この老婆には、見舞いを兼ねていることを伝えた方がよいと考えた。
「具合は、いかがですか」
老婆の表情が、目に見えて変化する。
問題がなさそうなので、北上は更に言葉を続けた。
「先日お会いした際は、お元気そうだったのですが」
「先日?」
「昨年の、二十五日です」
まあ! と声を上げると、老婆はまるで雷にでも打たれたように動かなくなった。
どうしたのだろうかと不思議に思ったが、北上は老婆の言葉を待った。
老婆はしばらく放心していたが、やがて拳をぐっと握りしめ、再び顔に笑顔を作って北上と向き合う。
なにか決心した様子の老婆をみて、北上はそれをさらに不思議だと思った。
門の向こうに誰か通るのを見て、老婆は北上の腕を引き家の敷地の奥へと連れていく。
北上はなにが起きているのか分からなかったが、されるがまま老婆についていった。
「北上様と、仰いました?」
庭のようなところへ出るなり、老婆は北上の方へ向き直る。彼女は北上の言葉を待たずに、さらに言葉を続けた。
「失礼を承知で伺いますけれども、どのように、お考えですの?」
小柄な老婆は白い息を沢山吐き出して、一字一句をハッキリと発音し北上に迫った。先程までとは違う、ピリッとした表情だ。
どのようにと問われても、北上にはそれがなんのことか分からず、返答出来ずにいた。たがこのままでは、恐らく相手を怒らせてしまうということも予想は出来ている。
「お話が、見えません」
「まあ! ……そうですか! いいでしょう」
老婆はまるで、北上のために言葉を濁しているとでも言いたげな表情だ。
それから老婆は庭先の木を指すと、北上にそれを見るように言った。
「……お判りでしょう? どのように、お考えなのですか!」
(立派な木です)
そんなことはとても言えないと思い直して、北上は改めて老婆の指示す木に目をやった。暗いのと、もともと疎いのとあって、北上にはそれがなにか分からない。
ただ、老婆はとても真剣な表情をしているので、北上も真面目に返すべきだと考えた。
少し考えて、北上は自分が好きな木について思い浮かべた。このまま黙っているよりは、少しでも思ったことを口にした方が、会話の糸口が掴めるかもしれない。
「桜が好きです。凛としていて、佇まいが綺麗だ」
散り際も綺麗だとか、花見で酒を飲むのは悪くないと付け加えたつもりだったが、それは北上の口からは発話されていなかった。
老婆は、北上の言葉を耳にするなり震えだした。
それから再び北上の腕を掴むと、彼を無理やり家に上がらせて客間へと押し込む。
「こちらでお待ちくださいまし!」
座布団に押し付けるようにして座らせると、老婆は北上を残して慌ただしく部屋を出ていく。
「奥様! 奥様ー!」
襖の向こうでバタバタと老婆が走り回るのを感じ取って、北上は首を傾げるのだった。