3-2 素直で、でも不器用で ②
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十時半。
「北上センセって、東北出身だよねえ?」
数学科にあてがわれている資料室の扉を開けるなり、大柄な女性が北上に質問をぶつけた。一九三センチある北上と殆ど身長の変わらないその女性は、ノッシノッシと部屋の中を進んでくる。彼女は体育科主任の増田といい、バレーボールの元日本代表選手であった。
「明けましておめでとうございます。そうです」
短く答えて、北上は直ぐに視線をPCに戻す。年末年始も自宅で仕事をしていたので、彼には年が明けたという実感がない。
「じゃあさ、スキー得意じゃない? だから、来月のスキー合宿、頼めないかな?」
スキー合宿は、一年生の行事だ。北上は二年生の担任なので、基本的には自分に引率の仕事が回ってくるとは思っていない。ましてや、受験期だ。北上の元には、受験を控えた生徒が連日相談にやってきている。
そういった内容をざっくり伝えると、増田は離れた所から椅子をガリガリと引きずってきて、北上の前にドカッと腰を下ろした。
北上は床の状態を不安に思ったが、見なかったことにした。
「最近の子ってさあ、ヤワ、なんだわ。もう全然よ、全然。『スキー? あ、無理ですう』とか言っちゃうの」
「じゃあ、ホテル待機ですね」
「そうすると、皆が待機になるじゃないのよ! 無理無理。回んない!」
アハハハと手を叩いて、増田は笑っている。
北上は急に大きな音を耳にしたので、タイピングをミスってしまった。
「という訳だから。あたしの東北生まれリストの中から、北上センセが選ばれったってワケ。だって一年の担任陣って、おじいちゃんとか多いのよ~。キビキビ動けるの、うちの南城ちゃんくらいかな」
「南城先生がいるなら、大丈夫ですね」
増田の言葉が気に掛かりつつ、北上はサラリと躱して仕事を続ける。東北生まれリストとは、なんだろう。
そもそも、担任陣が老体ばかりというのは、人事の問題だと北上は考えた。スキー合宿は今年から開催とはいえ、年度の始めには決定していたはずだ。今更になってこのように人手が足りないと嘆くのは、筋違いではないか。
「あのねえ、南城ちゃんに、分身しろっていうの? ……北上センセさあ、いい人、居る?」
始まったぞと、北上は周囲の音を遮ることにした。
「今年、三十四、五でしょ? 独身貴族も、そろそろ年貢の納め時なんじゃないの? あたし、思うワケ。なんだかんだ言ってもさあ、やっぱり愛がないと」
大して興味もなく、北上は増田の声を遠くに聞いている。想像力に乏しい北上にしては珍しく、彼の脳裏では煌びやかな恰好をした小人たちが「ねんぐ」と書かれた米俵を優雅に運んでいる。
「愛することを知らないとさ、誰にも優しく出来ないじゃない? その点、教育って凄いと思うの。だって愛じゃない?」
増田の言い分はまったく意味が分からないので、北上は手元の書類作成に集中している。先程の空想の小人たちは、既に脳内から追い出されていた。
「愛とはね、助け合いの精神。助け合いの精神とは、愛。分かるかなあ」
「その時期は、入試です。数学科は欠員が出ています。私は、授業があります」
「入試って、うちの? 中学の? 二月の二日でしょ? 合宿は二月の四、五、六だから、行けるじゃない。一日くらいだったら、授業だって回るでしょうよ」
「採点作業もありますので」
「北上センセが、全部一人でやる訳じゃないじゃない。それこそ助け合いよ。……あ、今度は『その次の週には、生徒の大学入試もあります』って言うつもりでしょ? そうでしょ? でもねえ、受験するのは北上センセじゃないのよ」
北上はすっかり呆れて、溜息を漏らした。増田は、北上が首を縦に振るまでここに居座るつもりだ。
「北上センセさあ、いい人見つけなよ。恋愛して、結婚してみなって。そうしたら、人生、割り切れる事ばかりじゃないんだなって思うからさあ」
「そうですか」
(割り切れる事ばかりとは思っていない。それくらいは、俺にだって分かる)
北上は、胸の中でやりきれない思いを吐露した。
独り身で居るというだけで、肩身が狭い。ただ一人で歳を重ねてきたというだけなのに、性格に難があると決めつけられるのも辛い。これが男女逆だったら、今頃相手はセクハラで訴えられていることだろう。
ふと北上は、男の自分がセクハラで相手を訴えても良いのだと思い直した。
しかし、こんなことを訴えるのは恥ずかしいし、実際、流しておけばいいだけなのだから余計な事はしたくない。それに増田はお節介が過ぎる部分はあるけれど、基本的には善人なのだ。
「とりあえず、考えておいてくんないかな?」
「……善処します」
「オーケーってことね? ありがと! あ、あともう一個お願いがあってさあ」
遠回しに断りを入れたのだがと、北上は自分の意図が伝わっていないように思い焦りを覚えた。
増田は何時から手にしていたか分からない紙袋を、机の上にドスンと置いた。黒地に金のライオンが描かれたその紙袋は、高級和菓子店である「獅子や」のものだ。
「これさあ、南城ちゃんの所へ届けてほしいのよ。今日中に。出来るだけ早く。確実に」
自分で行けばよいのにと思いつつ、北上は南城の家を知らないと答えた。
増田はポケットから封筒を取り出すと、そこに走り書きのメモを付けて北上に押し付ける。封筒の中身は、南城が年末に忘れていった彼女のIDカードだという。
「すっごく近所。もう、本当に近所。だから大丈夫」
「いえ、あのですね」
「本当は行きたかったのよ。でもねえ、うち、ヒロたんがお熱出しちゃって。あ、ヒロたんて孫ね。見せたことあったっけ? 可愛いのよお。で、午後からお嫁ちゃんと交代しないといけないの。あ、その羊羹は、頂き物。うち食べないし、南城ちゃんそういうの好きだし、丁度いいでしょ? 具合悪いみたいだし、ちょっと気になってるのよ」
「具合が悪い?」
「おねちゅよ~。三十八度。インフルエンザじゃないといいんだけどねえ。今年、凄いみたいじゃない? うちの学校も、しばらくオンライン授業かしらねえ」
一瞬混乱しかけたが、北上は「ヒロたん」のことではなく南城の事だと言った。
増田はスマートフォンを取り出して、初孫のベストショットを北上に見せる。
「今日、お休みなのよねえ。まあ、始業式までは有給消化のセンセも多いし、問題ないんだけど。珍しいじゃない? あの子が体調不良なんてさ。IDも通用口に落としてったみたいだし。年末くらいから、ちょっぴり変なのよねえ……」
なにかあったのかしらと、増田は視線を落としている。
次々切り替えられるヒロたんの写真を眺めるふりをしながら、北上はクリスマスに会話した時の南城の様子を思い出していた。あの後、彼女になにかあったのだろうか。
「じゃあ、ヨロシク! 待っててねえ、ヒロたん。ばあばが行きますよ~っとね」
ノッシノッシと、増田は部屋を出ていく。
扉が閉められると、資料室の中は静寂に包まれた。PCの僅かな駆動音が耳に触る程だ。
北上は押し付けられた羊羹と封筒とを眺め、溜息を漏らすのだった。