異国の土地に逃げ出した
「とまあ、そんな感じで」
「どんな感じですか、それ。全面的に頭おっつかないんですが」
「だから言ったのに。どうしても事情が知りたいって、ジョンが言うから」
「いやー……これは頑張って黙っておいてほしかった……かなぁ」
くせ毛に手を入れて目いっぱいジョンが頭をかく。同じ黒髪でも、こちらには気品も何もない。くしゃくしゃなだけだ。けれど、リリーとしては手入れの行き届いたあの頭より、ずっといい。
腰まであった髪は、見事に切られて首もあらわになっていた。服装によっては、男の子に間違われることもある。
あの日、馬車につながれた馬を無理やり引き離して跨り、夜の街をかけた。大した距離ではない。離れに向かった。侍女に説明なしで逃げろと忠告し、換金済の現金を渡したが、断られた。代わりになにか、ドレスでもなんでも、と言ったら、髪をくれと言われた。その場で、ナイフで切って渡した。
なじみの救貧院で服を拝借し、慣れた街の人ごみにうまくまぎれたのがよかったのか、途中で迷い込んだ貧民街が怪我の功名だったのか、はたまた森を抜ける道を選んだのが功を奏したのか。とにかく、追っ手につかまることなく、リリーは国を抜けた。
目指してたどり着いたのは、音楽家のいる、南の国だ。
言葉が通じないため、苦労したが、絵を見せて、現地語で書かれた住所を指して、ここに行くと、人を頼りながら歩き続けた。悪人に身ぐるみはがされたりしなかったのは、運もあるが、危険察知能力の高さを生かしたおかげである。
連絡も何もなく現れた、元・高貴な身分の教え子に、音楽家――ジョンはもちろん、腰を抜かした。が、抜かしたのは、出会い頭ではなかった。最初、男物の服と短い髪で現れたリリーは、お使いに来たどこかの小僧だと勘違いされ、ジョンは雑用を言いつけたのだ。もちろん、リリーはちゃんとこなして小遣いをもらった。次もよろしくと顔を見られたときに、唖然とし、蒼白になったのは、いい思い出である。
それから、季節が変わった。来た時はとっくに夏を過ぎて、海で泳ぐには遅すぎた。今は春の終わり。浅瀬の砂浜で、波と砂の感触を楽しむくらいだったが、本格的に泳げる日も近い。
十日経ってもひと月経っても、さらに月日が流れても――追っ手はこない。どこかで死んだと思われているなら、それはそれでよかった。
明らかに厄介ごとの種にしかならない、やつれた身の上のリリーを、ジョンは問い詰めることなく弟子として迎えてくれた。ピアノの腕がなまっていることを怒られはしたが、掃除洗濯料理とそつなくこなす優秀な弟子に、結局ほだされてくれたのだ。
海辺の小屋は、作曲や練習部屋だったが、リリーの住処になった。ジョンは教会の音楽家として町中に家があり、仕事はそれなりに忙しく、作曲から楽団の指揮まで、多岐にわたる。普段はもっぱら、楽譜の清書や音取りを含めた雑用をこなしつつ、ピアノを練習する日々だった。時々、持ち出したかの国の現金を両替していた。そして迷惑料だとジョンに渡しては、毎度断られている。
「まあいいじゃない。どうも今、あの国は政情不安定みたいだし。子供に構っている時間はないってことで」
「ソーデスカ……ソーン家、マリオス家。それから、エヴァンズ家って、あなたの所じゃありませんでした? 取り潰しって、かなりの大ごとじゃないですか」
「似たような家はいっぱいあるからなぁ。名前だけだと微妙」
「やらかしてるっぽい第二王子の情報が一切ないってのも、おっかないなぁ」
この国の王宮に出入りする、ジョンの音楽家仲間から、かの国についてそれとなく教わった。同時に、今まで何も言わなかったジョンが気になる、と言うので、さらっと自分の十年弱をまとめて教えたのだ。
メモを片手に、ひっくり返して裏を見るジョン。もちろん、今読んだ以上のことは何もない。
向かい合って昼ご飯を食べるリリーの顔を、覗き込んだ。
「手紙とか……出さなくていいんですか?」
「大丈夫。相手がいないよ」
ただの子供に敬語じゃなくていいのに、一度刷り込まれた身分はなかなか抜けないらしく、弟子が師匠を顎で使う、なんてこともしばしばだ。周りには時々怪訝な顔をされる。
うーん、としばらく頭を抱えていたが、まあ、とあきらめと妙にすっきりした顔でジョンが笑った。
「人生、これからってことで」
そういう事に、しておいた。