披露宴から逃げ出したい
エスコート役は父だった。多分、父親。そう主張していたので。
薄い灰色の髪は、白髪交じりで、目は青かった。ディヴィスには全然似ていない。無害だった父親に、顔を合わせても好悪のどちらも感じなかった。
日が暮れて、藍色の空が広がっている。会場の中だけが、これでもかと眩しい。
父が離れた。代わりに、王子が現れた。これからしばらく歓談の時間をもって、正式な発表へ移る。挨拶をすると、めぎつねめ、とよく分からない返事が来た。
めぎつね――女狐。ずいぶん高貴な身分に合わない言葉をご存じだ。
王子が騒ぐのは、過去にもあった。周囲は無視を決め込んでいるので、話を聞いているのはリリーと、王子の後ろにいる娘だ。
彼女を罪に問えるほど、傷つけたのだという。両の足で立って、美しいドレスを着ているのに、ひどい言い草だ。せいぜい、手首に包帯が巻いてあるくらいだ。
殿下、私、ころすなんて面倒な真似、しませんよ、とのど元まで出かかって、扇を広げた。
反応が鈍いせいか、王子の主張はどんどん激しく、下世話で無根拠になっていった。果てはリリーが幼いころ気狂いだったと糾弾する。行動から心を押し付けられただけで、リリーはいたってまともだったと自認するが、口をはさむのは厄介ごとが増えそうでやめた。
そう、それで? と、頭の中で先を促しているのに、一向に王子の口は止まらなかった。
愛想がない。親切じゃない。優しくない。さすがに、醜いとは言われなかった。心根は卑しいそうだ。
じっと王子を観察する。どうにも、後ろを気にしがちだ。そうそう、と頷く少女。何か、特別なのだとリリーに主張した少女だ。
人形だ。糸のない人形。似た者同士で割れ鍋に綴じ蓋でいいかと納得していたが、人形はやっぱり、後ろに人間がいないと動けないものだ。
別に、それならそれで――流されても、いい。
一人納得した。けれど。
お前の、とさらに続いたから、ぱちん、と音を立てて扇を閉じた。
「殿下――」
「家庭教師とかいうアーヴィング」
「もうよろしゅうございます」
むっとした王子が、一度は口を閉ざしてリリーをにらんだ。残念ながら、射殺されそうなディヴィスの眼光と比べて、迫力はマイナスだ。
「何がだ。お前の罪を自覚したのか」
「十分に。不勉強なわたくしでも、あなた様の隣にふさわしくないと身に沁みました」
ディヴィスの家名はアディントンだと訂正はせず、きちんとそれらしく遠回しに婚約辞退を申し出たのに、王子は一瞬目を丸くした後、すぐに馬鹿にした顔になった。
「嘘をつけ。ならば、自らの罪状を告げてみよ」
まさかの繰り返せ宣言。半分聞き流し、余計な罵詈雑言が多くて長いから、とても面倒だ。すぐに反応しなかったのは、王子のお気に召さなかった。
「そら見ろ。やはりここは最後まで言わせてもらう。お前の――」
王子の後ろで、少女が影の奥でかすかに笑っていた。
自慢げに滔々と語る口元が、嫌にゆっくりだった。
腕を振り上げた時、現れた幻の仏頂面が低い声で止せと言ったけれど、ほぼ同時に振り下ろした手のひらは、狙い通りリリー最速かつここ一番の精確さで相手の頬に当たった。いや、のめり込んだと言っていい。
加えて、これはリリーの予想外だったことに、相手の体が見事に吹っ飛んだ。ふわっと確実に宙に浮いて、床に転がったのだから、さすがに驚いてしまった。
なんというか、想像以上に軟弱だったらしい。
おやまあ、と目を見張りながら、まあこれで、どんな言い訳も立たない最悪な状況が出来上がったと妙に冷静になれた。
一瞬で静まり返り、事態を把握するにつれて徐々にざわめきが広がっていく中で、さっさと一人踵を返した。
二度と見られない不機嫌顔に向かって、振り返る代わりに御免と小さくつぶやいた。