うるさい少女から逃げ出したい
孤児院や救貧院に寄付をする、とは貴族の婦女子に求められる美徳だ。だが、金を渡してもパンを渡しても、絶対に足りることはない。何しろ、あふれて困るなんてことにはならないから。誰かが横取りし、誰かが盗んでいく。分け合っても、いずれ尽きる。
それでも、刺繍の布より、明日のパンを買う小銭だ。慈善と称して行くときは、宝石を貨幣に換えて持って行った。
そこで、同じ年ごろの少女に出会った。向こうはこちらを見知っていた。こっちは紋章を見るまで名前は不明だった。よくあることだ。そして、王子が今、熱心に口説いている相手だと知った。結局、婚約披露宴の直前になっても、変わらなかった。むしろ悪化して、リリーよりふさわしいと言い出しているとか。だったらどうぞ取り換えてくれて構わない。
すれ違うだけにするつもりが、向こうから噛みついてきた。王子と同じように、自分の方が妃にふさわしいという。ああそう、と投げつけるわけにもいかず、扇を広げる羽目になった。
遮ってくれたのは、リリーと呼ぶ幼い声だ。つい、いつもの癖ではあい、と返事をしてしまった。相手が唖然としている隙に、「ではどうぞ、そのように殿下におっしゃって」で話を切り上げた。あとはすすすと走っていると思われない速度の限界で逃げる。
リリー、リリー、とあちこちから呼ばれる。だから、リリーはここに来ていた。
救貧院に隣接する土地を買って、廃屋だった建屋に手を入れた。そこで、ゴミ拾いからちょっとした手伝い、刺繍の手仕事までをあっせんする事業を始めた。
物を渡して尽きるのは必然。だから、仕事を得られる環境を作った。
パンは欲しかった。お金も欲しかった。仕事は、もっと欲しかったけれど、絶対に手に入らないものだった。
出来るだけ、秘密裏に。事業を拡大するのは、リリーの手を離れた後だ。国権が絡めば、さらに盤石になると踏んでいる。
だから別に、王子と結婚するのは、嫌ではない。向こうもこちらも打算のみ。お互い様だ。きっとあの王子は、結婚した後も手に入らないものを求めてふらふらするだろう。
離れに戻ると、ドレスの仮縫いに入った。色は白。宝石は青。これもいつか売り払えればいいと、つい考える。
よく食べるように意識したおかげか、少し縫い目を変えるという。よし、と内心で喜んだ。これで軽いなどとは言わせない。
婚約おめでとうございます、と職人は言う。品よくありがとうと告げる。そういえば、侍女に言われたことがないと今更思った。無駄口を叩かないのは変わらない。
寝る前には届いた手紙を確認する。ピアノを教えてくれた音楽家が、ずいぶん遠い所から便りを送ってきた。南の国で、海が綺麗だと、絵までついていた。多才な人だ。
大体は茶会の誘いだ。必要なものだけをより分けて、返事は翌日に出すことにしている。どうせ、誰もかれも同じことしか言わない。おめでとうと、どうぞよろしくの二言だ。要約すれば。
ここ最近の流れはいつも一緒だ。予定をこなして、手紙を読んで、ベッドに入る。入ると、涙が出るところまでで一日が終わる。
ディヴィスは、ついに顔を出さなくなった。数日、そして十日経って、こんなにも顔を見ない日が続いたのは初めてだと気づいた。会いたいけれど、会えない方がいい気がした。また泣いて困らせる。
夢の中なら、一度だけ会えた。本当に王子と結婚するのか、と聞かれた。現実ではありえない。
いいことも悪いことも、両方あるなら、どこで生きるのも変わらない。逃げたらきっと殺されるから、逃げる方が損だ。確か、そんな言葉で答えた。
相変わらず、馬鹿じゃないんだな、と言われた。当たり前だ、と、今回は言えた。
何も変わらなかった。披露宴の、当日まで。