そびえる壁から逃げ出したい
ディヴィスの宣言通り、リリーの脱走成功率は激減した。いや、ゼロになったと言ってよかった。途中まで抜け出せたと思ったら、その瞬間に後ろ襟をつかまれて、驚いたことも数えきれない。足も速いし、身のこなしも尋常ではない。なにより、一歩先どころか百歩先さえ見抜いていそうな頭の良さが、ディヴィスとの勝負を分けていた。
向こうの能力は天井知らずで、残念ながら、リリーの方は中の中、または中の上といったあたり。もとより太刀打ちできないが、そこをはしっこさと小さな体を生かして監視の目をかいくぐった。だが留守を狙ってもどこからともなく現れるディヴィスは、本当に千里眼でもついているのかと疑いたくなる相手だった。
「なぜ逃げる」
端的な質問をされたのは、よじ登った塀の向こう側にいたディヴィスに着地点で捕まった昼下がり。
「あてがあるのか。帰りたい場所が」
「ない。別に、ただここにいたくないだけだもの」
「なぜだ」
小脇に抱えられたまま、リリーはしばらく考えた。その間にディヴィスがリリーを抱え直す。本当に小さなころに母親に抱かれたころと同じ抱え方に、初めて近くに顔があった。
いつも通り、眉間の間にはしわがある。他はどこも白くするりと滑らかで、金の髪も、瞳も、綺麗だ。手を伸ばして触れても、怒られなかった。
「それで、答えはなんだ子ザル」
「だってここは怖い所だから。誰も笑っていないし、だれも楽しそうじゃない」
それはほとんど直感だった。ここにいてはいけない、と本能が叫ぶのだ。だから逃げる。窓があればよじ登るし、木があれば伝っていく。扉が開いていれば、迷いなくすりぬける。
なるほどな、とディヴィスが嘆息した。
「なに。馬鹿な理由だって言いたいの」
「いいや。馬鹿よりたちが悪いんだよ」
いつもより乱暴になった言葉が、どことなく笑っていた気がした。
屋敷の中にある離れが与えられたのは、それから間もなくだった。使用人は寡黙な中年の侍女が一人。不平や不満を言わない代わりに、余計な話を一切しない。食事も勉強もすべて離れで完結する。せいぜい、大きな書庫へ行くくらいが本邸へ行く用事になった。無論、ディヴィスは毎日来る。
専門は法律。とある子爵家の次男坊。兵役で軍隊に所属し、そこで出世の道もあったらしいが、現在は顧問弁護士が職業。そのうちの顧客の一人が、リリーの父だ。
というような話を、本邸にいた時に使用人たちが噂していた。本当かと聞いたら、リリーの父との関係だけが違うそうだ。
そして、お前は何でもまっすぐに聞きすぎる、と怒られた。
「でも、だったらどうやって質問するの、ディディ」
「情報はもっと前もって集めてから話すんだ。多少遠回しでも確信が持てるぐらいに。それから、ディディはやめろ」
「じゃ、デーベス」
「真面目にしゃべってないだろう」
「違う。なんか舌が回らないんだ」
発音、とぴしゃりと来た。鞭は持っていないが、声と迫力だけで十分代わりになる。小声でも、背筋がピリッとする。
離れに来て、屋敷から逃げたいという欲求はなくなった。ひもじいのと寒いのと、勉強が面倒なのを比べて、比べようもないことにあきらめがついた。
脱走にかけていた時間を勉強に当てると、それはそれで面白いくらい捗った。ダンスもマナーも専門の――ディヴィスが選び直した――講師が、手際よく教えてくれた。
見てくれは、どうも悪くないらしい、とそこで知った。どんな相手が来ても、まず褒める。月の光だとささやかれる白金の髪、新緑よりも眩いと言われる瞳。丁寧に洗われて手入れされた手指は、ほっそりと美しいと。子供の手が、節が目立つ前に仕事から遠くなったためだ。
全部お世辞かと最初は思ったが、ディヴィスにも聞いたら否定しなかった。
変わらず、呼び方は子ザルのままだったけれど、別に文句はなかった。多少勉強をしたところで、知識も何もかも追いつける相手ではなかった。学べば学ぶほど、ディヴィスの頭の中がとんでもないことが分かるだけだ。いつだって向こうからやってくる高い壁からは、どう頑張っても逃げられなかった。