自分の家から逃げ出したい
ただのリリーが、リリーシャ=エヴァンズなんとかという長い名前に変わったのには、何の面白みもない理由があった。母親が、昔下働きをしていた貴族の息子に手を出された。そこに愛があったかどうかは知らない。何しろ、幼い時に死別してしまった。
知り合いを頼りつつ、何とか数年暮らしたリリーのもとに、突然現れた父親に、当時はただ驚いて固まるしかなかった。
あれよあれよと娘扱いされ、ドレスやら豪勢な食事やら、広すぎる屋敷での生活が、目の前に転がり込んできた。ちなみに、その時に年齢も十歳と決められた。
あいにくと、いいことばかりとは言えない。
衣食足りて、その次を求められる生活。マナーにダンス、教養に勉学。一日の予定は隙間なく埋まっていた。
父親と名乗った人物には、たった一度会えただけ。女主人といえる夫人は、リリーシャの前に決して姿を現さず、露骨な嫌がらせをする使用人さえいた。
貧乏暮らしでも、母一人子一人、楽しかった街での毎日を思い出すたびに、母の判断は間違っていなかったと確信した。リリーの性分もあるけれど、だまし合い皮肉なぞかけ遠回しが多い会話には、いつだって扇の下で微笑みながらも閉口した。
当然、リリーは逃げ出した。何度も何度も、手を変え品を変えて逃げ出した。猿と呼ばれようが、金切り声で叱られようが、食事を抜かれようが、絶対にあきらめなかった。
嵐に紛れて抜け出したし、カーテンやシーツをあっという間に引き裂く技術も身につけた。
使用人の行動から人数を割り出し、抜け道を探り当てるのも得意だった。庭の木はもちろん、壁だって少しばかり凹凸があれば難なく上った。
お嬢様、と普段は取り澄まして呼ぶ執事から「クソ猿」の罵倒をもらったこともある。意外な口の悪さに、ちょっと笑ってしまったのは、悪くない思い出の一つだ。
家庭教師は軒並み首になったし、エヴァンズ家の「お嬢様」にあらぬ噂――病気、気狂いなど――がまことしやかに流れた。
とある昼下がりに、その男が現れたのは、いわばエヴァンズ家の家人が方々手を尽くした結果だった。
よく晴れた日だった。庭の草木は新芽のころで、水をやった後は特にきらきらと輝いていて、それを見るのが毎日の楽しみだった。けれど同じくらい、庭の向こうから歩いてくる人の金の髪は綺麗だった。
ただし、顔の見える距離に近づくと台無しだ。ピリリと背筋に緊張が走った。
黒に近いこげ茶の瞳に、真正面から見下ろされた。他人の気配はなく、仕方なしにごきげんよう、と挨拶をした。逆らってはいけない、という本能からだ。
なるほど、と相手は小さくつぶやいた。
「馬鹿ではないらしい」
当たり前ではないか、とむっとした。他はどうだか知らないが、町では自分の事は自分でやるのが基本だ。報酬の相場を知るのも、交渉をするのも、料金をいかに受け取るか考えるのも自分。馬鹿では、あいにくと生きていけない。
「ディヴィス=アディントンだ。二度と逃げられると思うなよ、子ザル」
なるほど、とリリーは納得した。逆らってはいけない相手ではなく、越えなければならない壁だったのだ、と。