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異国の土地から逃げ出したい

 


 ジョンにあっけらかんと笑われて、そうか、とようやく自覚した。


 追っ手を恐れているつもりはなかった。誰かを待っているつもりも。けれど、たぶん両方だ。大した恩を売ったわけでもないのに――多少はある。リリーの師匠として、貴族の間に名前が売れたから――巻き込まれて文句を言わないジョンは、やっぱりすごい師匠だった。


 いたら助かるなと言ってくれるジョン。助手を続けてもいいけれど、ピアノの腕で身を立てるつもりはない。なら、仕事を見つける必要がある。

 とはいえ、そこそこ大きくなってしまったリリーだ。職人などの丁稚奉公に行くには遅すぎる。飲食店で働くには、まだ言葉に壁がある。


 何にも縛られていないのに、どうにも身動きが取れない。

 これが自由だ。と妙に納得した。リリーはついに、あの高い壁を越えて逃げ出せたのだ。

 十年近くかかって、ようやくだ。なのに、達成感はない。喜びも湧いてこない。


 どこにでも行けるなら、また違う国に行こうかな、とは思った。午後からジョンのお使いに出るついでに、地図を買った。


 家の中は嫌いじゃないが、外にいたい気分だった。浜辺は地図を広げると飛ばされた。仕方なく、街を出て、ちょっとした林の中で過ごしやすい所を探した。

 程よく草が茂る場所があった。日の光が明るい。直射日光を避けて、切り株に腰かけた。もう一度地図を見る。


 カヴィン、ここが、リリーのいた国。下に指を滑らせて、トラッターノ、ここが今いる国。

 ウェンセン、チリア、山越えをすればたどり着く。それから……指が止まった。


 一人だった。ずっと。今までと同じだ。好きだった人と別れるのは、リリーにとって当たり前のことだ。母しかり、共に過ごした孤児院の子、宿屋のおばさん。いつだって別離は強引で容赦がなかった。


 今回は、マシなはずだ。自分で逃げると決めて、逃げ出した。選択の必然だ。

 なのに、いつまで経っても、いや、時間が過ぎるごとに、体の軋みが大きくなる。

 泣けばいいかと、思い切り泣いても、変わらなかった。余計に体が辛くなっただけだ。

 海を眺めても、星を数えても、どこか色褪せていた。今年の新緑は、リリーの目には勢いがなく見えた。ピアノの音は、濁って聞こえた。


 ディディ、と呼ぶ。もちろん返事はない。

 別れた後は、無害な人間だ。だからそのあとを考えたりしない。でも、彼がどこかで生きていればいいと、初めて思った。嫌な事よりいいことが多い、そんな毎日であればいい。


 幸せになってください、と別れ際の侍女――アニーがリリーに叫んだ。

 幸せが何かは知らない。でも、いまのリリーとアニーの気持ちが同じなら、リリーはディヴィスに幸せになってほしかった。


 ディヴィス。ディヴィス――ディディ。


「どうか……幸せになってね、ディヴィス」

「――ひどい無茶を言う」  

「……」


 独り言に返事があった。靴先が地図の下から覗いていた。仰向いて、息をのむ。

 出会った時と同じ、金の髪とこげ茶の瞳。綺麗だと見ほれたそのままの人。


 つまり――とても怒っている。

 背筋がピリッと伸びた。経験上、一番無難な言葉を、リリーは選んだ。


「ご、ごきげんよう、ディヴィス」

「人の名前をようやく覚えたか、子ザル」


 しまったと思った。一人きりだったことを引きずって、つい口に出てしまった。

 腕が伸びてきた。この腕を、よく知っている。地図は自然と手放した。


 猿と呼ばれるだけあって、リリーは怪我も多かった。足をくじく、擦り傷をこさえる。痛いと訴える――ことはしないとディヴィスが知ってからは、何かあればすぐに伸びてきた腕だ。

 いつかと同じ、片腕に乗せられて、あれ、と首を傾げだ。大きくなったはずなのに、これではまるで子供のころと変わらない。目線の高さが、少し上になっただけ。


「ディディ、力持ちになったの」

「お前は本当に、どうしようもないな」


 呆れたため息は、以前と同じ。けれど、より近づけば、目元にはクマがあるし、少し頬がやせていた。


「ディディ、病気?」

「そうだ。お前のせいでな」

「病気は人間のせいじゃない。小さい生き物が原因でしょう」

「……」


 黙れとばかりに睨まれた。再会はまるで過去の延長のようだ。馬に乗せられて、連れていかれたのは街の教会だった。付いていくのに、馬から降りる前に抱えられた。


「ディディ、何するの。お祈り?」

「結婚だ」


 けっこん。――血痕? 違う、結婚というのはあれだ。王子とするはずだったもの。


「誰が?」

「俺とお前以外に、誰がいる」


 誰もいない。二列に並ぶ長い椅子には一人の参列者もなく、儀式を取り仕切る司教さえいない。丸い天井の下、声が小さくてもよく聞こえる。

 祭壇の前で、足が床についた。ディヴィスの指が顎で揃った毛先をくすぐる。触れるようで触れない。


「でも」


 出来ないと口に出せず、リリーは途方に暮れた。


「お前、どうせ嫁に行くなら俺でいいと言っただろう」

「ありえないって」


 そう、否定したのはディヴィスの方だ。憮然としながら、そっちは忘れろとため息を吐く。


「なんで」


 尋ねると、ディヴィスの怒りの濃度が強くなった。急いで先をかぶせた。


「罪人でしょう? 私」


 罪があるとは、足枷だ。きっと、幸せからは遠くなる。ディヴィスの目が、考えるように細くなった。


「お前は馬鹿じゃないんだったな」

「そうだね」

「知りたいか?」


 これも、いつかと似た響きだ。境を超えたら戻れない。けれど、以前と違って何かを恐れる理由はない。


「教えて、ディディ」


 返事の代わりに、ディヴィスだ、と呟かれる。体が浮いた。降ろされた先は、最前列の長椅子の端だった。




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