溺没信仰
2020年 春文集『転寝』
重い瞼は、現実世界に意識を持って行きたくないという意思の表れだ。動かない四肢は、生きる希望を失った屍に堕ちたという意味だ。下を向く顔は、未来を託して命を懸けたものへの裏切りだ。
ゼンの脳で再生される言葉は、彼が幼い頃から刷り込まれるように復唱させられたものだ。生きるために戦うのだと、物心がつく前に知らされた現実は人々を容赦なく痛めつけていた。
はあ、と小さくため息をつく。音を立てないように、ショルダーバックの中にある支給品を漁った。
防具をつけていない顔は擦り傷だらけで、消毒しないと感染症にかかる恐れがある、とゼンは思った。しかし、応急手当の道具をこれくらいの怪我で使えるほど潤沢な資源はない。
通信機器は数十メートル先に吹き飛ばされている。多少の衝撃には強く作られているため、壊れてはいないだろう。本部への救援要請や作戦行動の変更を伝えるために、今、あれがゼンには必要だった。
瓦礫に隠れながら、ゼンはあたりを見渡す。自分を吹き飛ばした張本人を探した。
それは通信機とは反対方向にいた。全長三メートルはあろうかという巨体が鼻息を荒げていた。遠くから見ても分かるほどの筋骨隆々ぶりで、爪や牙は隠せるほどの大きさではない。尾が空を切るたびに、低い音がし、砂塵が舞う。このようななりをしているが、まだまだ子供といえる大きさだった。
任務中の予期せぬ出来事だった。安全圏で簡単な調査を行うだけのはずだったが、奴が現れた。一人で乗っていたジープ型オープン車に気付くと、体当たりをしてきた。幸い、ゼンはレーダーと通信支援で奴の乱入を把握していたため、大事には至らなかった。車は中央部がへこみ、エンジンが踏み潰されて使い物にならない。
猛獣の動きを止め、仕留める。それが今のゼンに課せられたミッションだ。
鞄から目くらまし用の閃光弾を取り出す。死角から攻めることが出来なかった時の保険だ。それを短銃の中に丁寧に入れる。
「大丈夫。俺は死なない」
自信を奮い立たせるように呟いた。たった一人で戦うには、大きすぎる獲物だ。だが、味方が誰もいない以上、ゼンだけで倒すしかない。下手に時間だけを消費していても、家族単位の群れを形成する奴が近くにいるだろう仲間を呼びかねない。
獣が完全にゼンに背中を向けた時がチャンスだ。自身の改造銃用の弾丸にそっと唇を落とす。すべてを託した一発を銃身にセットすると、無をも切り裂くような目つきで獲物を視界に捉えた。射程距離ギリギリにいる奴の中心に狙いを定める。
「マザーの加護を」
すう、と息を整える。冷静さを保ちながら引き金に指をかけると、ありとあらゆる感覚を一発の銃弾に込め、渾身の一撃を放った。
カン、カン、カンと鉄製の階段を誰かがリズムよく踏む音がする。気分がいいのか、鼻歌も聞こえてきた。足音を発する人物は、土に汚れた仲間を見つけるやいなや宝物を見つけた子供の様に駆け寄ってきた。
「よう! 生きてたか、ゼン!」
「なんとか、な」
従順な獣のような目つきをした人物にちらりと目をやると、ゼンは緊張の糸が解けたように笑みを浮かべる。その男―レイメイ―はよろけながら歩くゼンに肩を貸した。ゼンはありがたくその優しさを受け取る。
「正直、無線にお前が出なかったから死んでると思ったぜ」
「それは洒落にならんな」
「補給物資がついさっき届いたんだ。医務室に行くだろう?」
通路を右折しようと、レイメイは重心を傾ける。それに反するように、ゼンは左へ足を延ばした。
「おっと、どこに行く気だ」
「治療より報告が先だろう」
ため息とともに、ゼンはレイメイの肩から体を放す。資源を節約するためか、通路は薄暗い。土に汚れたままずるずると司令部へ足を運ぶゼンを見て、レイメイは「この真面目くんが」と渋い顔をした。
ほどなくしてゼンは司令部の扉の前にたどり着いた。幼い子が親について来るかのように、レイメイもその数歩後ろにいる。
鞄から個体識別カードを取り出し、扉の右端にあるカードキー挿入口に入れこむ。ピッという軽快な音とともに、重々しい扉が開いた。
中には十数名ほどの職員がいた。誰もが電子画面とにらめっこをしており、ゼンとレイメイが入室したことに何ら興味もなさそうに見えた。
数歩中に歩みを進める。機械音と呼吸音のみが響く部屋の中で、二人の足音は異質なものに聞こえた。
「あああああっ! 何やってるんですか!」
ゼンの肩よりも低い少女が声を荒げる。彼女は二人を恐怖心に満ちた目で睨みつけた。
「ああ、リュイ。司令部長は今どこにいる?」
「そんな事より今すぐ出て言ってください! 泥を落として入室しろって何回言えばわかるんですか!」
リュイはゼンの腹部を両手で突くと、ドアの外へと押しやった。鳩尾に彼女の手が突き刺さり、ゼンはみっともない声を出す。それを聞いたレイメイはけらけらと笑った。
リュイたちが騒いだにもかかわらず、司令部室内の人間は機械のように画面を見つめ、通信をし、呼吸していた。ゼンはある意味死んだような彼らを哀れに思いながら、司令部室のドアが閉まるのを見届けた。
「司令部室は精密機器だらけなんですから、ちゃんとした服装で来てくださいよ。壊れたからといってひょいひょい交換できる物じゃないんですからね」
「非常時用の予備機械があるだろう」
「非常時用は非常時に使うものですからね? それにどの機械も壊れても代替品の用意ができるまで動く予備機材を積んでますけども……」
「報告をしなければと思ってな」
「話を遮らないでください、この真面目人間! 貴方の報告より機器類のほうが大事なんですからね」
ゼンはバツの悪そうな顔で、「すまん」と呟いた。
怒りが収まってきたリュイは、そんな彼の様子を見てはあ、とため息をつく。
「きっと何度言っても貴方は同じ失敗を繰り返すでしょうね」
諦めたような声だった。
「リュイ、司令部長は今どこに?」
「技術開発室のアルバートさんに呼ばれて出かけています。多分、彼の部屋かと」
ゼンは礼を述べると、踵を返し薄暗い通路をまた歩き始めた。レイメイはその後ろを追いかけることはなかった。呆れた顔をするリュイの肩にそっと手を置く。
「何の慰めにもならないのでやめていただけますか?」
「ありゃりゃ、厳しいねえ」
「レイメイさん、ゼンさんと同じ部署なんですよね? あの真面目っぷりはどうかならないんですか」
「いやあ、俺に言われても……。任務は常に一緒ってわけじゃないんだぜ?」
あっけらかんとした態度を取るレイメイに、リュイは二度目のため息をついた。
「でも、あんな奴だけど敵と戦う時だけは格別だ。惚れ惚れするような作戦を立てて、機敏に行動する力を持っていやがる」
「そんなの、マザー・ドームの中では関係ないんですけど」
レイメイをリュイはじとっと睨みつける。年甲斐もなくぺろりと舌を見せると、レイメイは後ずさりをしながらその場を離れた。もうリュイには彼に文句を言う気力はない。
レイメイの姿が見えなくなると、リュイは自分の仕事を再開した。通信信号とレーダー反応を照らし合わせて出動部隊のサポートを行う司令部は、戦えない者にとって生命を全うする権利を得られる場所の一つなのだ。
ゼンは地中に住処を作る蟻のように、地下へと続く階段を下りていく。分岐点には必ずと言っていいほど案内標識が立っているが、迷宮のように入り組んだこのドームでは毎日数名が頭上にクエスチョン・マークを浮かべているという。
目に飛び込んでくる標識を脳内で的確に処理し、進路を変えながらアルバートの部屋を目指す。彼は技術開発部の最高責任者であり、広々とした作業部屋兼個室を与えられていた。
異彩を放つ扉を見つけると、ゼンは目標に向かって前進した。
「失礼します。第三機動部隊隊長ゼン、入室します」
機械油の匂いが鼻をツンとついた。次に飛び込んできたのは火薬の香り。そして、金属の冷たい空気だ。
部屋の中央の机には、背の高い男女が何か話している。ゼンが入室すると、二人はちらりと扉の方に目をやった。
「おやおや、ゼンじゃないか。どうした? 何か欲しいものでもあるのかい?」
へらっと笑うようにアルバートは声をかける。だらしなく制服を着崩している姿は、部署のトップに立つものとは到底思えない。スキップをするようなステップでゼンに近づくと、薄汚れたゼンの戦闘服の匂いを獣のように嗅いだ。
「安全圏の土の匂いだ。その割には傷が多いし、キミの銃弾の匂いがする。何かあった?」
「司令部長に報告したいことがあります」
「僕は聴いちゃいけない事かな?」
アルバートは長身の女性に向けてへらりと笑った。女は首を横に振り、気にしないと言った。
「安全圏に妖獣の存在を確認しました。接触したのは一匹だけでしたが、群れをつくる個体ですので周辺に数体いると思われます」
「へえ、キミが調査任務だったのか。珍しい。その様子だと武装はほとんどしていなかったようだね」
ゼンはこくりと頷いた。
「だってさ、ヘレナ。これからどうしていこうか」
ヘレナと呼ばれた女性は静かに目を閉じ、暫く何かを考えるような素振りを見せて、ゆっくりと口を開く。
「ゼン、接触した場所の座標は記録しているか?」
「司令部に転送済みです」
「わかった。アルバート、至急十五名分くらいの戦闘物資の補給を頼む。第一部隊と第二部隊と第三部隊の分だ」
アルバートは気の抜けるような声で返事をすると、入り口とは反対方向にある扉の向こうに消えていった。
ゼンはヘレナの言葉から新しい任務が下されるのだと悟り、次の指示を待つ。真っ直ぐ向けられた目からヘレナは顔を背け、また何かを考えこむように黙った。ゼンは忠犬のようにその場を離れようとはしない。
「ゼン、ゼン。どうせまだいるんだろう? これを運んでくれないか?」
ピンと張り詰めた空気を引き裂くような、我が道を行くアルバートの声に弾かれてゼンは指示されたように動いた。
彼から頼まれた箱には多くの銃弾と砥石が入っている。
「第一部隊が刃物メインの接近戦特化の部隊で、第二と第三が銃メインの所だったよね。これで足りるかな」
「十分だと思います。ただ、俺の部隊には狙撃手もいるので、そいつ用の弾も欲しいですね」
「了解了解。任務当日までには用意しておくよ」
二人の会話が終わる頃、ヘレナはようやく目を開け、ぽつりぽつりと任務の概要を説明した。
三日後、第一機動部隊、第二機動部隊、並びに第三機動部隊はゼンが妖獣と接触した地点周辺の探索を行うことになった。その際に妖獣と出会った場合、駆除と死体収集を優先するようにするという。無駄な戦いを避けるのではなく、積極的に交戦し、内臓を裂いてどの区画の生物を食べているのかなどの生態調査を行うように命ぜられた。
「複数部隊が同時に行動する任務は稀だ。部隊によって戦闘スタイルが違うから連携が取りにくいかもしれんが、そこは部隊長同士が上手く隊員を扱え。安全圏と名乗る土地がある以上、その名を穢されるわけにはいかん。必ずなぜそこに妖獣が現れたのかの原因を追究しろ」
「了解しました。他の部隊長には俺から伝えておきましょうか」
ヘレナは「頼む」と言い、ゼンの細やかな気遣いに甘えた。
敬礼をし、身をひるがえしその場を退出したゼンの足音が聞こえなくなると、ヘレナはようやく一息ついたと言わんばかりに深呼吸をした。
「ヘレナはゼンが嫌いなのかい?」
稲妻のように目を光らせながら、アルバートを睨む。触れられたくない話題だったのだろう、ひどく顔を歪めていた。
「はははっ、キミは正直だね」
「貴様は物事を直球で伝えるのをやめろ、ゼンみたいで気に食わん」
彼女は持ち込んできた書類を手元でまとめた。
「嫌い……というより哀れんでいるだけだ。あいつは昔、書物保管室でマザーについての文献を読んだらしい」
「あらら、そうかい」
アルバートは頭をかきながら言った。
「盲目信者が部隊長に成り上がっちゃったもんだね」
「馬鹿みたいだろ。上に上がれば上がるにつれて、世界の真実に行き着くっていうのに」
語気が強くなる。手元の書類はくしゃりと音を立てた。
「真実を教えないヘレナは意地悪なんだね」
アルバートは意味ありげに、にやにやとしながら彼女を見つめた。意地が悪いのはどっちだ、とヘレナは苦い顔をする。
「うるさいな。ならお前がゼンに伝えたらどうだ」
刺すような声に全くひるまず、アルバートは「何で?」といたずらに笑った。
「僕はマザー信者でも元マザー信者でもないんだよ?」
妖艶に輝く目の男の発言を鼻で笑うと、ヘレナは引きつった笑顔で言った。
「どうせ奴も全てを知ったら絶望するだろうさ。昔の私みたいにね」
リラクゼーションルームという小部屋で、ゼンとレイメイと若い女が立ち話をしていた。その場所には他にも数名の隊員が立ち会わせている。
「……というのが今度の任務の内容だ。物資は当日までに届くようだから、それ以外の準備を済ませておいてくれ」
レイメイは頷く。女は怯えたような声で、小さく「わかりました」と言った。
「アンリちゃんの部隊と組むの初めてだ。よろしくねん」
小柄のアンリはレイメイを見上げるとさっと目線を逸らし、蚊の鳴くような声で「よろしくお願いします」と言った。
「しっかし、三部隊同時任務とは大がかりだな」
「それほど重要な事なのだろう。いつもみたいにふざけてばかりいると痛い目を見るぞ」
「あっれー……俺そんな風に思われてたわけ?」
心外だな、と言わんばかりにレイメイはゼンを小突く。
アンリはその二人の輪に入れずにいた。
「しゃあねえな。俺は先にアルバートから砥石をかっさらってくるとするか!」
あばよ、と挨拶をして、レイメイはその場から軽快な足取りで消え去った。
残されたアンリとゼンは細やかな打ち合わせをする。安全圏調査に特化したアンリの部隊と、討伐に特化したレイメイとゼンの部隊とで優先行動が違うため、それをすり合わせておく。また、調査時にはアンリの部隊に、妖獣と戦闘になる場合はレイメイとゼンの部隊に指示権を与えることで了承した。
「状況によって違うだろうが、今回の任務はアンリの部隊の仕事が重要になると思っている。よろしく頼む」
「いえ、もし妖獣と交戦する場合、わたしは役に立たないので……そんな……」
「そこは俺たちの仕事だ。任せろ」
「そう、ですよね。こちらこそよろしくお願いします」
弱弱しい声は更に震え、今にも泣き出しそうな顔になる。彼女を見る度、ゼンはどうしてこのような子が部隊長なのだろうと思う。折れそうな腕、臆病な性格。部署を変えた方がいいのではないかと助言したくなる。
「アンリの部隊は全員が銃を使っていたな。狙撃手はいるか? アルバートに追加の銃弾を頼んでおくが」
「いえ、わたしのところは短銃と突撃銃しか使いません。大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」
アンリはぺこりと頭を下げると、小さな歩幅でぱたぱたと歩き部屋から出ていった。彼女の後を数名の隊員が追従してく。
リラクゼーションルームの自動販売機に配給券を入れ、苦い飲料を買った。ゼンの好みという訳ではないが、無駄にたまっていく配給物資を消費するためだけにいつもそれを飲んでいる。
他の部署の隊員たちが椅子に腰かけて談笑している。和やかな雰囲気が流れていた。つかの間の平和を見ているかのようだ。
こつん、と小さな足音がした。リュイだ。ゼンをみるやいなや、露骨にため息をつく。
「俺と会いたくなかったか?」
「あからさまに嫌な態度を取ったことは謝りますが、そこまでストレートに聞かないでもらえますかね」
「すまんな」
リュイは上着のポケットから配給券を取り出すと、甘ったるそうな柄の飲料を選ぶ。握力がないからといって、ゼンに蓋を開けてもらった。
「……話聞きましたけど、大掛かりな任務があるそうですね」
「まあ、やれるだけのことをするまでだ」
「貴方らしい回答ですね。少しほっとしました」
頬の筋肉を緩め、リュイは言った。
彼女の態度を見てゼンはまたぽろりと本音をぶつけてしまう。
「リュイは俺が嫌いじゃないのか?」
あんぐりと口を開け、突然何を言っているんだこの人は、とでも言わんばかりの顔でリュイは声を荒げながら異議を唱えた。
「唐突に聞かないでくださいよ、そんなこと。答え難いじゃないですか!」
「嫌いじゃないなら苦手か?」
「人の話をスルーしないでもらえます? 急にそんなこと聞くなって言ってるでしょう?」
司令部室の騒動の時のように、ゼンはバツの悪そうな顔で「すまん」と言った。
リュイも同じように諦めた声でぼそぼそと言葉をひねり出していく。
「人の話を聞かないときのゼンさんは、身勝手で嫌いですよ。でも、どんな任務でさえ生きて帰ってくるから、その点は良いと思ってます。司令部にいて一番つらいのは、任務中に通信が途絶えてしまうことです。捜索部隊を出しても、僅かな残骸しか見当たらないことが多い中、ゼンさんは通信機器が壊れても必ず帰還しますよね。だから、そこだけは嫌いじゃないです」
ちびちびと飲み物を口にしながら、リュイは少し苦しそうな顔で言葉を絞り出す。
「…………次の任務も、ちゃんと帰ってきてくださいね」
「ああ」
飲み物を全て胃の中に流し込むと、ゼンは器用に前方のゴミ箱に投げ入れた。どこからか、ナイスショット、と声がした。
「マザーはきっと俺たちを助けてくれるからな。大丈夫だ」
「マザー……?」
子供の頃、彼らの娯楽である書物保管室でゼンが読んだ古びた本に書いてあったもの。神であり、野獣であり、人類の遺物であるマザー。黒く塗りつぶされた箇所や虫食いの跡があり詳しくは分からないが、かつての人類に希望を与えた創造物として彼女は描かれていた。
知能と言語を手に入れたヒトは、余計な感情を持ってしまったことで、種の存続に影響が出た。母の胎内十か月。長い月日の浪費は、余りにも非効率的で、時折命さえも脅かしていた。
そこである人は言う。我々の代わりを作ればいいじゃないか。農業も、工業も、機械を作って我々の代わりにした。複雑な計算も、人工的に知性あるものを作り上げて代わりにやらせた。遺伝情報を■■■本ずつ持った細胞の塊も、以前は我々の手で一つにまとめていた。それならば、もう最初から最後までやり遂げてくれるものを作ればいいのだ。
倫理がどうとか道徳がどうとかの議論が飛び交った事実は否めない。だが、誰しもがその魅力に飛びついた。将来を諦めなければならない不安。労働人口が減り国力が減少する恐怖。何もわからない幼子の世話を押し付け合う怒り。それらを取り除くことが出来るシステムは、異議を唱える人々の心の奥底でひっそりと小さな幸福を与えてしまった。
その計画は、メディアに晒されることなく秘密裏に行われた。■■■■■と称され、一部の研究員のみが知ることになる。
永遠に死なない母体と様々な遺伝情報を生み出す父体。クローンの■■にならないよう、数多の組み合わせの情報を生み出すようにした。
完成したマザーは、■■の神であり野獣である。長く伸びた体には妊娠線のような白いひび割れがいくつも刻まれていた。子■■付近にはM1と刻まれた。彼女は一日に数体から多い時には■■■体もの生命を孕み産み落とした。種族は優勢なものがないようになっている。きちんと当時の比率を守っていた。
科学者は歓喜する。あとは生まれた個体が成熟するまで、最低十五年から十八年押し込めておく施設と管理スタッフの調達だけが課題だった。土地と人員が確保されるまで、マザーから生まれ続けた生命達は■に変換された。
有り余るほどの土地を有したヒトは収容所をすぐに建設できたが、人材が集まらなかった。一般的な■■■■■■■とは違い、金銭授受が発生しないこの施設では、一体誰がスタッフに金を払うのかという議論が日夜行われた。無償でしますという都合のいい輩などいない。科学者たちはこの計画に携わってから、初めて頭を悩ませた。
その間にもマザーには新しい命が宿される。生まれた子等が目の前で売買される姿を、母なる獣はどのように感じたのだろうか。ヒトに作られた獣も感情を抱いてしまったのだろうか。
暴走。人工物につきまとう現象。生まれた個体に番号を付けなくなってから数か月がたったある日の異常。
当時の研究職員はこう語る。夢かと思った。人類を模して造ったはずの胎内から、■■が出てきた。見た目はヒトだが、ヒトらしからぬ体毛がいたるところから生えていた。歯もあった。犬歯は八重歯の子以上に目立っていた。それに、生まれて間もないというのに目が開いていて、鋭い瞳孔に心臓が縮んだのを覚えている。―バグだ。初めてのエラーだ。畏怖を感じるほどの不具合。異常だよ。
初代マザーは――――という形で処理されたとされる。それがいなくなった半年後には二代目マザーが生まれていた。子宮口付近にはM2と書かれ、その横に生命活動を司る核を埋め込まれた。彼女も同じように狂い、次に造られ続けたマザーたちも異形のヒトを生み、■■目のマザーが壊される頃には、この計画を中止しようという声が上がっていた。
そのようななかで、人類を襲った■■感染症。罹患したらほぼ死ぬとさえされていた。ワクチンを作ろうにも、時間と人が足りなかった。
世界中がウイルスへの対策に追われている中、■■■マザーが新型感染症にかからない生物を生み出した。歴代のマザーたちと同じように、■■ではない何かだ。ぎょろりと浮き出るような目と鋭く尖った爪。四肢の関節はもはや■■■ではない。
異様な形態を持つ生き物だったが、科学者たちは歓喜した。これで、人類を救うことが出来る。やはりマザーは■■■神だった、と研究員だった者は語る。―――――――。■■■■■をもって■代目マザ■の活動を停止。核を破壊。■■■■■は終了した。―――――――。――――――――――――――。
過去の人類の危機を救ったマザーは、今もどこか秘密裏に保護されているのか分からない。
マザーに関する書類が発見されたことで、この建物は「マザー・ドーム」と名付けられた。ここにいる人間で、書物保管室に足を運んだことがある隊員は、きっとマザーの存在を認知しているのだろう。そして、この数枚ほどの紙にまとめられた報告書を読んで、マザーに希望を抱いたに違いない。この惨めな現実を打ち破る存在こそがマザーなのだと。マザーさえ見つけることが出来たら、今の状況は一変するのだと。そんな淡い願いを持っているはずだ。
「リュイはマザーを知らないのか」
「ええ、初めて聞きましたね」
「それなら一度、書物保管室に行って過去の報告書でも読んでみるといい。……希望が安く買えるぞ」
「……はあ」
「マザーのために戦い、マザーのために死ぬ。心の支えとなるものがあれば、絶望しないで済む」
「信仰心が篤いことです」
空になった容器をゴミ箱に入れると、リュイはくるりと身をひるがえた。
「じゃあ、そのマザーとやらに祈っておきますね。皆さんが無事に帰ってくるようにって」
「頼む」
へへへと顔の筋肉を緩ませると、リュイはそのまま薄暗い廊下に消えていった。
数日後に控えた大掛かりな任務を脳の片隅に置き、ゼンも闇に吸い込まれるようにリラクゼーションルームを後にした。
群青色の空が視界に広がる。
マザー・ドームを出た十数名の隊員は、ゼンの部隊を先頭に件の座標まで向かっていた。十分な資材を乗せたジープ型オープン車が三台、砂利道を走る。見通しの良いポイントに着くと、周囲を警戒するように円状に広がり、調査用の仮設テントを立てていく。慣れた手つきで設営はすぐに終わった。
準備が整うと指示権はアンリが握る。各部隊の隊員を混ぜた小チームをいくつかつくり、キャンプを中心点として同心円状に広がっていく。妖獣を発見した場合はすぐに戦闘が出来るよう、武装したままだ。
一定距離までに広がった後、何かしらの痕跡がなければキャンプ地を移動させ、同じように周囲を警戒していく。
五回ほど繰り返した後、一つのチームが真新しい排泄物と三匹の妖獣を見つけた。レイメイの部隊がそれを討伐し、第二部隊の隊員が発見したフンは草食性の妖獣のものだと言った。
「他の妖獣まで安全圏に侵入しているのか」
「……草食性の方が先に来たと思います。ゼンさんが遭遇した妖獣はただそれを追っただけだと思いますね」
「草食性の奴らには悪いけど、殲滅させなきゃな」
部隊長同士で話し合う。安全圏は今のポイントから北に百キロメートルほど広がっている。すべての範囲を隅々まで調べ上げ、獲物を殺していくのは骨が折れる作業だ。
「アンリはさっきの妖獣と草食性の妖獣がここに来た原因を探してくれ。俺とレイメイの部隊で妖獣を見つけ次第殲滅していく」
「……わかりました。お二人とも気を付けてください」
「任せろって! そういう時の戦闘用部隊なんだからよ」
キャンプ地点を変えつつ三十キロメートル進んだところで日が沈み、野宿の手はずを整える。数名の隊員が見張り役となり、残りはキャンプの中で休息を取る。一時間おきに交代をし、朝日が出るまでそれを続けた。
二日目も同じことを行う。効率を上げ、昨日より十キロメートル多く進むことが出来た。藍色の幕が空を覆いつくしたあと、前進を止めた隊員たちはのんびりとした時間を過ごしていた。この調子で行けば三日目には調査が終わり、四日目にはマザー・ドームの中へ戻ることが出来ると安堵する者もいた。ただ一人を除いて、誰も危機感を持っていなかった。
「ゼンさん、レイメイさん」
青白い顔をしてアンリが二人を呼び止める。
「体調が悪くなったか? 車に薬があるからそれを使うといい」
心配そうにゼンは言った。しかし、アンリは小さく首を振る。
「気になることがあって……」
「何かわかったことでもあった?」
「わかったこと……まあ、そう言うこともできますね。……ええと、今回の調査で何も(・)わ(・)か(・)ら(・)な(・)い(・)こ(・)と(・)が(・)わ(・)か(・)り(・)ま(・)し(・)た(・)」
未知の経験に怯えるような目でアンリは言ったが、ゼンもレイメイもどういう意味かと首をかしげる。
「ん? つまり安全圏にどうして妖獣が出現したのかわかんないってことだよね?」
「……そうですけど」
「言い方回りくどいよ!」
レイメイがアンリの肩を小突く。
「え……そんなことはないですよ。重要な事しか言ってませんけど……」
「すまない、アンリ。俺たちには生態調査に関する経験が乏しい。具体的に言ってもらえないか?」
落ち着いた声でゼンが頼むと、アンリはまだ青白い顔で言葉を紡いだ。
「まず、今回見つけたのは草食性の妖獣の排泄物のみ。これだけだったら珍しいことではありません。ゼンさんが以前遭遇した肉食性のものがたまたま群れからはぐれて安全圏に来たばかりと考えるなら、あってもおかしくない結果です。それにレイメイさんたちが倒したものも草食性でしたし。」
一呼吸置いて、アンリは「ですが―」と続ける。
「二日にわたりこの区画の安全圏を調査しましたが、一切植物が生えていない場所で草食性の妖獣とそのフンが見つかることがおかしいんです。最初に排泄物を見つけたポイントはマザー・ドーム側から五十二キロメートルの地点。安全圏外周からは百二十九キロメートルの地点です。草食性の妖獣はどんなに排泄行為を我慢したとしても大体三十キロメートル間隔でフンを落とします」
説明を聞く中で先ほどのアンリが言った言葉を反芻する。
―何もわからないことがわかりました。
生唾を飲む。ありえないが積み重なる今回の調査結果に胃もたれしそうだ、とゼンは思った。
「それに……」
さらに顔色を悪くさせながらアンリは言う。
「それに、今回見つかった排泄物、どう考えてもまだ生まれて間もない妖獣のものなんです。草食性の妖獣は成熟するまで大人と共に行動するのが常なのに、なんで子供のものしか見つからなかったのか……。レイメイさんが倒した妖獣だって、未成熟の個体でした。わからないことだらけで、正直混乱しています」
藍から黒へ色を変えていく空の下、三人は黙っていた。
ゼンもレイメイも、アンリが伝えたかった違和感をはっきりと捉えた。生態調査の経験が少ないからと言っても、この説明を受けて何も思わない愚か者ではない。
「報告感謝する、アンリ。とりあえずは安全圏外周出口を目指すことにしよう。それまでにこの謎がわからなければ、司令部からの指示を仰ごう」
まずは、安全圏に他の妖獣がいないかの調査だけでも終わらせなければならない、とゼンは告げた。
アンリは震える声で了承した旨を伝えると、休息を取るためにテントへ向かう。
アンリの姿が見えなくなると、ゼンはふうとため息をついた。
「頭が割れそうだ」
「お前、こういう謎めいた事苦手だもんな」
ケラケラと笑うレイメイをよそにゼンは考え込む。不透明な現実の恐怖が深刻になりそうだ、と。
気付けばレイメイの姿がなかった。思考を張り巡らせることに集中していたためか、彼がいなくなったことを全く感じ取れなかった。足元の土交じりの砂利道に、あばよ、と雑に書かれた文字がある。
どっぷりと夜が支配している時間だった。昨日と同じように数名の隊員が見張り役として周囲を警戒している。
もう寝よう、とゼンはテントの中に入る。雑に毛布が敷いてあるだけの簡易的なベッドにゆっくり横たわった。
「マザーの加護を」
そう小さく呟くと、ゆっくり瞼を閉じた。
雲一つない空だ。さんさんと降り注ぐ太陽光はほどよく体を温めてくれる。
任務は滞りなく行われた。午後三時を過ぎた頃、車はちょうど安全圏外周部にたどり着いた。これ以上先は、妖獣の巣窟と呼ばれるほどうっそうとした弱肉強食の世界が広がっている。
一時休憩を隊員たちに伝える。後は帰るだけだ、と喜ぶ声が聞こえた。ゼンは自分の部隊の車に乗り込むと通信装置を起動させる。人工物らしい音を立てながら、機械は正しく動いた。
「こちら、第三機動部隊部隊長ゼン。司令部、応答せよ」
『こちら、司令部主任リュイ。どうされましたか?』
「安全圏外周部に到達した」
『何かわかったことありました?』
ゼンはアンリの言葉を借りることにした。
『―そう、ですか。確かに妙ですね』
「謎だけが浮き彫りになった。一応これから帰還するがレーダーを見ていて気になった点はないか」
『しいて言うならマザー・ドームから五十二キロメートル地点に一瞬だけ変な影がありました。まあ、砂塵の密度が濃いとよく見られる現象なのですが』
「わかった。留意しておく」
電源を切ると、ゼンは全ての隊員に向けて撤退命令を出した。行きのような張り詰めた空気はなく、マザー・ドームの中にいるような落ち着いた雰囲気がそこにあった。
時速六十キロメートルの速度で車を進める。何もなければ三時間ほどで帰還できるはずだ。車体が揺れる度に、ほとんど使うことがなかった銃弾たちが勢いよく跳ねる。
今回も無事に住処に帰ることができる。その事実に安堵して、ゼンはつい転寝をしてしまった。
目をつぶっていたのは二十分ほどの短い間だった。ひょいと斜め上に目をやり、空を見上げると先ほどまでさんさんと輝いていた太陽が見当たらない。いつの間にかおびただしい数の雲が空を支配していた。色から察するに、雨雲ではない。しかし、太陽がないと辺りの小さな物陰に気付きにくくなる。帰還する前に周りは闇に飲まれるかもしれない。
夜間の走行は危険が伴う。たとえマザー・ドームの近くであってもだ。
他の部隊長に了承を貰い、速度を五割増しにした。安全な帰還を経て、はじめて任務は達成する。車体の安定よりも、完全に暗くなる前にマザー・ドームへ着くことを優先した。
それから一時間経過した。電源を入れていた小型通信機が耳元でピピピと音を立てた。
『ゼンさん、すみません。また影があって……』
「わかった。車を停めて周囲を警戒しておこう」
アンリの部隊以外の隊員が車外へ出る。リュイから聞いたポイントへ足を運ぶが、何もない。
『あの…………』
掠れるような声で通信が入る。
「目視で確認したが何もいない。多分、砂塵だろう」
『いえ、あの、数キロメートル後方から突然妖獣の反応が……』
「何だと………………!」
ゼンは急いで車に戻り、車内の通信機の電源を入れた。レーダー機能を素早く立ち上げると、リュイが言った方角を見た。
画面に映し出されたのは、十数体ほどの影。ゼンたちが通ってきた道の上に現れたようだ。数分前に通った時には、自分たち以外何もなかったはずだった―。
「レイメイ! 戦闘態勢に入れ!」
「言われなくてもやってるよ」
剣を抜き、銃を構える。肌を刺すような緊張が駆け巡った。
奴らは迷うことなくまっすぐゼンたちの元へ突進してきた。その勢いを銃で止め、死角から銀色の太刀が肉を切り裂く。
「アンリ、聞こえるか?」
『はい』
「二号車に望遠レンズを付けた監視モニターがあるだろう。それを使ってくれ」
通信機越しの起動音が鼓膜を揺らす。
「俺たちが見えるな? 現れた妖獣について気になることがあれば言って欲しい」
はっと息を飲む音がする。アンリの声は昨日の夜のようにこわばって震えていた。
『絶対内陸には生息しないものがいますし、肉食性、草食性が入り混じっていますね。……………それとゼンさん、気づいていますか?』
「ああ」
アンリが言おうとしていることを察し、相槌を打つ。
「こいつら、ま(・)だ(・)子供だ(・)!」
生臭さが鼻を突き抜ける。醜い咆哮が脳まで響いた。
統制の取れていない獣の動きは瞬く間に沈められた。周囲の安全を見て、アンリの部隊が車から降りる。ピクリとも動かない遺骸に近づき、腹を裂く。第二部隊の隊員となにやら話をしているようだ。聞こえる場所にはいないゼンにもなんとなく想像がつく。
名も知らぬ隊員がゼンとレイメイを呼びに来た。アンリから話したいことがあるという。
解体しつくされた妖獣の前で、両手を血で汚したアンリが地面に座り込んでいた。彼女を囲むように二人は立つ。むん、と鉄の臭いがした。
「戦闘お疲れさまでした」
「アンリこそ。解剖お疲れさま」
テンプレートと化した挨拶を交わした。
「早速ですが報告します。解剖した結果、これらの妖獣の胃には何もありませんでした。腸まで調べましたが何一つでてきませんでした」
「生まれて間もない、ということか」
ゼンの言葉にアンリは無言で頷いた。
二日目のアンリの報告と、今回の解剖結果が重く肩にのしかかる。正体不明の事案が起こっているとわかっているが、対処のしようがない。
表情筋が固まっていくアンリとゼンを見たレイメイがため息をついた。
「謎なもんはしょうがないよ。一旦帰ろうぜ。日が暮れたら余計に危ないだろ」
「…………妖獣が現れた時、一瞬だけ黒い影が司令部のレーダーに映ったらしい」
「それが犯人だって言いたいのか? 砂塵の密度がうんたらかんたらって司令部の連中がよく言うことだろ」
「一日目に遭遇した妖獣の時も観測されている。偶然だと思うか?」
鋭い目つきがレイメイの心臓を刺す。
喉元に針を突き立てられるような空気の中、「偶然だと思いたいです……」とアンリが今にも泣きそうな声で言った。
「そうじゃないと、妖獣を作る何かがあるって考えるしかないじゃないですか……」
「火のないところに煙は立たない。無から何も生まれない。きっと妖獣が現れる原因があるはずだ」
小刻みに震えるアンリの肩をゼンはそっと叩いた。血の気が引いた彼女は氷のように冷たかった。
ゼンはレイメイを見やる。何かを察したレイメイは仕方ないというかのように頷いた。
「アンリ、よく聞け。まず第二部隊はマザー・ドームに帰還しろ。そして今回採取したものを科学部に送って、任務の結果を司令部に報告するんだ」
「……ゼンさんたちはどうするんですか?」
「俺たちは戦闘特化型の部隊だ。物資もまだたくさんある。謎の影とやらの正体を探ろうと思う」
力強さが声からだけでなく肩に触れた手からも伝わってくる。
「きっ、危険です! 未知なる妖獣が現れるかもしれないんですよ! たとえゼンさんたちでもそれはっ……!」
「アンリちゃん、俺たちに任せなさいって」
ゼンの手と反対側に、レイメイもその手を乗せた。
二人はアンリを説き伏せて、マザー・ドームへ帰らせた。一台の車が目でとらえきれなくなるまで小さくなっていくのを見送ると、レイメイはくすくすと笑いながらゼンを小突いた。
「お前も本音を隠せるときがあるんだな」
「何のことだ」
「『アンリの部隊を守りながら戦うのは骨が折れるから帰ってくれ』っていつもなら言いそうなのによ」
「そう言ったら、アンリは司令部にも科学部にも行かないで自室に引きこもるだろう」
「建前を取り繕うことができるなら、リュイにもしてやればいいのに」
邪険な顔でレイメイを睨むと、ゼンは耳元の機器のスイッチを押す。
これからの行動を司令部に報告した。アンリと同じようにその危険性について指摘を受けたが、物資が枯渇しない程度までなら自由に捜索しても構わないという許しが出た。遭遇した妖獣は全て殲滅するという任務は変わらない。
第一部隊と第三部隊の隊員を全員集め、新たに発注された任務を伝える。隊員たちの間に流れていた和やかな雰囲気が、流氷が流れる川の如くピリッと冷たくなる。真剣な眼の奥には、敵を倒すという確かな意思が現れていた。
車内のレーダーを見張る。半径十キロメートル以内に怪しい影を見つけたらすぐに移動することにした。安全圏に紛れ込んだ異物を除去するため、電子版から目が離せなくなる。
その日のうちに黒い影がレーダーに映ったのは二回だけだった。妖獣と遭遇することはなかったが、いずれもゼンたちが初日に妖獣と出会った場所の近くからだった。
燃料や食料物資の在庫を確認する。あと二日くらいは安全圏を自由に捜索できそうだった。戦闘の頻度も少なかったため、砥石や銃弾は有り余るほどある。
夜に司令部からアンリの部隊が無事帰還したと報告を受けた。彼女たちを送り出した後、安全圏に妖獣が現れるならマザー・ドームまで護衛したほうが良かったのではないか、と後悔したが、安否の確認ができてゼンは胸をなでおろす。このことをレイメイにも伝えると、ゼン以上に嬉しそうな反応を示した。
チカチカと星が夜空にまたたいている。西の空から重たそうな雲がゆっくり歩みを進めていた。
テントが水をはじく音で目が覚める。昨日のうちにジープ型オープン車に屋根を取り付けていたため、車内は濡れることはなかった。隊員の誰かが、雨かぁ、とぼそりと呟いた。
雨の日は視界が悪くなるうえに、通信機器の精度も落ちる。昨日のようにきちんとレーダーが謎の影を捉えるか不安だった。ゆっくりと移動しながら怪しいものがモニターに映らないかと、神経を張り巡らせる。
『……ん、ゼ……さん、聞こ……ますか』
酷いノイズまじりの声が小型通信機から聞こえてきた。マザー・ドームからたいして離れていないはずなのに、音声を上手く拾うことが出来ない。
「リュイか? ゼンだ。何があった?」
『右……メートル…………の反応……をつけて……』
「すまん、何だって?」
『右に百……ル……例の影の反……気を付けて……さい!』
カッと目を開く。目の前にある電子盤には一切反応がない。
「隊長!」
目視であたりを警戒していた狙撃手が声を張り上げた。
「謎の生命体と遭遇!」
「全員車から降りろ! 戦闘態勢だ!」
わらわらと飛び出る隊員はすぐさま慣れた陣形をとる。レイメイの部隊と突撃銃の隊員を先頭に、ゼンの部隊の狙撃手が最後列に並ぶ。
雨脚はかなり強かった。視界は白くぼやけ、喉が裂けそうになるまで声を張り上げなければ命令が伝わらない。小型通信機を付けているのは部隊長だけである。未知なる生物の前に上手く統率をとって戦闘が行えるか不安だった。
突撃銃を持った隊員がぱっと手を上げる。何かを発見したようだ。
その人が指さす方を見ると、雨で白くなった視界の先に黒く小さな山くらい大きい影が見えた。耳をすませば荒々しい呼吸音が聞こえる。
これほどまでに巨大な生物は見たことがなかった。視界が悪く、剣で裂けるほどの外皮なのかは判断が付かない。銃で先手を取っても、致命傷には至らないだろう。
通信機を使ってレイメイに連絡を取る。山のような生物の周りを囲って、周囲から一斉攻撃を仕掛ける作戦だ。剣の使い手が被弾しないように、隊員の配置には十分に気を遣った。
遠くの空から雷鳴が聞こえる。
戦闘を始める前にゆっくり呼吸を整えた。深呼吸を数回行う。胸に手をあて、自分を励ます。脳では幼い頃飽きるほど復唱させられた言葉を思い返す。
「……マザーの加護を」
いつもの言葉を口ずさむと、ゼンは肺が膨れ上がるほど大きく息を吸い込んだ。
「突撃!」
その声が引き金となり、隊員たちは一斉に謎の生命体に襲い掛かる。銃弾と共に弾ける火薬のにおいと、研ぎたての鉄の匂いが雨と共に広がった。
大きな山は唸り、体を捻じ曲げる。案の定、大した傷にはなっておらず、剣先は表皮を掠めるだけだった。
生物は体を起こす。ヒト肌に近い色をした外皮が獣の匂いを発しながらゆるりと動く。
「ゼン、お前らの部隊は動くな。弾がなくなると何も出来なくなるだろ」
レイメイが言った。
「第一部隊! 剣が通らねぇなら通すまでだ! 体が地に落ちるまで、抗うことを諦めんじゃねぇぞ!」
「はいっ!」
普段の緩い空気を纏った男とは思えないほどの怒号と共に、銀色に光る太刀を振りかざす。ぬかるんだ地面にしっかりと足をつけ、重い一撃を何度も浴びせた。
それでも皮膚の下の組織にまで到達することはできない。分厚い皮膚は天然の鎧だった。
傷つけられたことに危機感を持った生物は咆哮した。円柱状の首を伸ばし、天に向かって叫ぶ。頭部から腹部にかけて、たくさんの白い筋が見えた。
雨が地を打ち付け、剣が皮を裂く音以外聞こえなくなった。静まり返った生命体はじっとして動かない。
突如として、生物の胸部から腹部にかけて一文字を切るように裂けた。レイメイたちの懸命な攻撃が通ったわけではない。自然と割れたのだ。
生温かい匂いが立ち込める。獣の裂けた部分からどろりとした粘り気のある液体と固形物が流れ出てきた。冷たい雨に反応して、白い蒸気が体中からあふれ出ている。
隊員たちに悪寒が走る。
槍のように降る雨は粘着性のある液を丁寧に洗い流した。体に張り付いていた液体が流れ落ちると、固形物はぴくりと動き、その姿をあらわにする。
その場にいた全員が息を飲み、目を疑った。
「…………………………………………妖、獣」
目の前に現れたのは四足歩行のしなやかな筋肉を持つ獣だった。一日目にレイメイたちが倒した妖獣と酷似した風貌を持っている。ゆっくりと立ち上がった獣は殺意を持った者たちに囲まれている現状に酷く怯えていた。
裂け目から流れ出る妖獣はとどまるところを知らない。次々と産み出され、その数は十を超えた。
奇怪な情景を目にした隊員たちは石像のように固まってしまった。妖獣を産み落とす化け物を目の間に、誰一人として動くことが出来なかった。
生まれた十匹のうちの三匹が肉食性の妖獣だった。誕生したばかりの獣は目の前にいる草食性の獣を見ると、よだれを垂らし襲い掛かる。悲痛な弱者の叫びがきっかけとなり、隊員たちの意識が現実世界へ戻ってきた。
「お前ら、先に妖獣からぶっ倒すぞ!」
張り上げたレイメイの声は震えていた。
怪奇。異様。不可思議。
妖獣を生み出す獣の姿に、誰もが怯えていた。
小刻みに揺れる体ではろくに刃を振ることが出来ない。いくつかの傷を負いながらも、第一部隊は十体の妖獣すべての生命活動を停止させた。
その様子を唖然として見ていた第三部隊が、ありえない、と呟いた。ゼンも同じ気持ちだ。
剣を持った隊員は、生々しく裂けた生物の体内から産み落とされる妖獣たちを手当たり次第に倒していく。すべてを倒し終わる頃にはまた新しい個体が生まれていた。
キリがない。
いずれはヒト側の方が先に息が切れ、倒されてしまうだろう。
「撤退……するしかないな」
ゼンはレイメイに連絡を取る。
「妖獣を全部仕留め、奴が新しく吐き出す前に車に戻れ。狙撃で撤退の援護をする」
「馬鹿言うんじゃねえよ。産出スピードが上がっているんだ。倒す前から追加されてる。このままじゃ、撤退云々やってられんぞ」
一言飲み込んだ後、ゼンは「俺たちの部隊も加勢する。撤退準備をしろ」と吐き捨てた。
二人の狙撃手を車に残し、ゼンは戦場へ足を踏み入れた。
第一部隊はどれだけの敵を倒したのだろうかと思うほどたくさんの死骸が転がっている。熱波のように広がる血の匂いに胸やけをおこしそうになるほどだった。
「標的の大きさは?」
べっとりと血が付いた剣を振り回すレイメイに問う。
「わからん。推定十五メートルから二十メートルといったところか。産出口だけでも六メートルほどある」
息を切らしながら答えた。
外皮よりも傷ついている生き物の裂け目は、底なし沼のように奥深いように思えた。突撃銃を持ち、その穴の中に数発の弾丸を打ち込む。柔らかい肉を銃弾が貫く音が聞こえた。
「こいつ自体は攻撃してこない……だが妖獣が出てくるのは本当に厄介だぜ。もう二十体以上は倒したが、止まる気がしねえ」
一生止まらないんじゃないか、とレイメイはぼやく。
ゼンは間近でその生物を観察した。人肌のような色の外皮はごつごつとしており、剣で簡単に切り裂けるようなものではない。妖獣を出す場所は薄い桃色をしており、人間の皮膚以上に柔らかく艶やかであった。ごうごうと唸る穴の奥からどぽりと排出される未成熟の妖獣たちは、自らを纏う粘着液が溶けだすとすぐに活動を始める。産出口から白く伸びるひび割れのようなものは、その生物の体中に張り巡らされていた。
「……ん?」
ゼンは産出口の上に何かがあると思った。いや、何かが書かれている。
「レイメイ、俺を上まで飛ばせるか?」
「あ!? 何言ってんの!?」
「いや、高く飛びあがりたいだけだ。気になるものがあってな」
「はぁ……? こんな時になんだってんだ」
渋々承諾したレイメイに向かって、助走をつけて駆ける。手に足をかけ、レイメイが上へ投げる力と同時に跳躍する。
地上五メートル付近までゼンの体は跳ね上がった。レイメイの予想通り、産出口は六メートルほどあることが分かった。そして、地上からちらりと見えた何かがゼンの視界にはっきりと飛び込んでくる。
「…………………………」
泥水の上にゼンは着地した。着地が完了した体勢から暫くピクリとも動かなかった。
「で、どうだった? 何かわかったか?」
その言葉にもゼンは反応しない。彼の頭は、導き出された一つの結論への抗議でいっぱいいっぱいだった。ぐらぐらと脳が揺らぐ。自分を作ってきた基盤が、大きく崩れ去っていった。
「おい、ゼン。大丈夫か?」
異変に気付いたレイメイが声をかける。目をカッと開き呼吸が乱れるゼンを見て慌てた。戦場で見慣れていた、冷静さと優れた状況判断能力を駆使して戦う彼とはかけ離れた姿だった。
「ゼン! しっかりしろ! 一体何があった!」
「…………裂け目の頂上に、文字が書いてあった」
信じがたい、と言わんばかりに裏返った声を絞り出した。
「M1…………こいつは、彼女は、…………初代マザーだ…………………」
信仰が敗北した瞬間だ。
一体、俺は誰の加護を受けようとしていた? 世界を狂わせている妖獣を生み出した母体を神だと思っていたのか? 人類存続の危機を救うために生み出されたはずの野獣が、人類を脅かしていただと? この事実を知っている人物はいるのか? マザー信仰は、この世界の反逆者だと捉えられかねない。俺は、俺は―。
「―何のために戦ってきたっていうんだ」
安い希望を買っただけのはずが、抱えきれない絶望で帰ってくるとは。自分だけでは背負いきれない暗闇に飲まれてしまいそうになる。
チカチカとめまいがする。二本足で立つことが出来ない。
「今までに造られたマザーは全部処理されているはずだ……」
幼い頃読んだ書物を思い返す。虫食いの箇所、黒く塗りつぶされた箇所だけが強調されて脳裏によみがえる。核と呼ばれる部分を破壊することで活動を停止させられていたはずだ、と必死に思い出した。
では何故、初代マザーは今もまだ生き続けているのか。
「ゼン、聞こえるか? ゼン!」
レイメイは必死に友の名を呼んだ。何度声をかけてもぶつぶつと独り言を言い続けるゼンを見るだけで胸が痛む。
次々と妖獣が産み落とされる産出口から距離を取るために、レイメイはゼンを担いだ。自分より身長も体重もある人間を運ぶのは骨が折れる。しかも、戦闘を続けている他の隊員の邪魔をしないようにしなければならないため、更に大変だった。
「ゼン。この状況を取り仕切るお前がこんなざまだなんて、聞いて呆れるぞ! 指示を出せ。撤退命令を出したんなら、完了するまで場を仕切ろ!」
何度も声をかける。意識だけが別の場所に跳んでしまったかのようなゼンには、レイメイの悲痛な叫びは聞こえない。見たこともない友の姿と戦場に、思考回路がショートしそうになった。
それは他の隊員も同じだった。終わりの見えない戦いと摩訶不思議な生命体との遭遇で、武器を持つ手に力が入らない者がいた。腰が引けて、妖獣の攻撃をいなすだけで精一杯になっている戦闘員さえいた。このまま無駄に時間を浪費してしまえば、犠牲者が出かねない。
リーダーとしての機能を失ったゼンの代わりにレイメイが叫ぶ。
「撤退だ! 肉食性の奴だけ殺して後はもう放置しろ! 今は自分の命を第一に考えるんだ!」
勢いがない返事だけが聞こえた。
胃もたれしそうなほど黒く重たい雲の隙間から稲光がした。ザンと降る雨とクシャリと響く雷が聴覚機能のすべてを支配下に置いた。
「顔を上げろ! 今まで死んだ奴らの意思を無駄にするつもりか!?」
声を張り上げる。
「手足を動かせ! 武器を握れ! 生きる希望まで見失おうとするな!」
がなり立てる。
「目を開けてしっかりと前を見ろ! お前が倒すべきものは何だ! お前が守るべきもの何だ! 戻ってこい、ゼンッ!」
頭の中で、幼い頃に復唱した言葉が駆け巡る。
ゼンの中で一人の部隊長としてやるべきことと、これからすべき愚かな自分の贖罪行為が脳内を駆け巡った。
「……………………レイメイ」
「ゼン!」
突撃銃をしっかりと握りしめ、ゼンは初代マザーの方を見る。彼女はなおも妖獣を孕み、生み続けていた。
母体と父体を兼ね備えたかつての人類の神であり、野獣であり、遺物である創造物。ここで仕留めないかぎり、現代の人間を脅かす獣たちを完全にこの世から殲滅することは不可能だろう。
神を殺さなければならない。
車に残しておいた隊員に通信を行う。
「核を探せ。子宮口付近にあるはずだ」
ノイズ交じりの承諾の声が小型通信機から聞こえた。望遠レンズ付きのモニターはアンリの部隊の車にしか設置していなかったため、狙撃手のスコープを用いて調べる。
数分の内に折り返しの連絡が来た。申し訳なさそうなトーンで、狙撃手たちは言った。
「隊長……その核とやらが一切見当たりません」
近くに雷が落ちる。
「いや、そんなはずはない。マザーには核がつけられていて、それを破壊することで活動が止まるはずなんだ」
ゼンからのマザーという単語を聞いて、隊員の声がうわずる。彼もゼンと同じマザー信者だったようだ。
「お、恐れながら申し上げますが、隊長もマザーに関する書物をご覧になったことがあるのでしょうか」
「ああ、そうだが」
「…………ということは、あのM1という模様は、初代マザーという事ですか」
「信じがたいが、そうだろうな」
ごくり。生唾を飲み込む音がする。嫌な予感だ。
「…………マザーに核がつけられた記述があるのは、二代目マザーからで……初代マザーに核があるなどといういわれはありません」
鳩尾を抉られるような衝撃が走る。そういえば初代マザーの最期だけは黒く塗りつぶされていたな、と思い出した。
同じ小型通信機を付けたレイメイが異変に気付く。彼はマザーを知らない人間だが、話の内容からことの重大性を察するくらいはできた。
「倒す手段はないってことか……?」
再び反応を示さなくなったゼンの顔から、息が詰まりそうなほどの憂うつさが背後から迫ってきた。
恐れのせいか、雨のせいか、体がどんどん冷え固まっていくのが分かる。ピクリとも動かない部隊長らの姿を見て、隊員たちの間に不穏な空気が流れた。
初代マザーを倒さないかぎり、一部の土地に追いやられて生きる現状から脱することが出来ない。しかし、彼女を討つ術が分からない。鎧のような皮膚に刃は通らない上に、子宮口に銃弾を撃ち込んでも致命傷に至っているようには思えない。ウジ虫のように湧く妖獣の相手をするにも、そろそろ限界が来るだろう。撤退したからといって、安全圏に妖獣が出るという事実とそれを生み出す化け物がいることを知ってしまった今、再び討伐任務が下されることは明らかだった。
何をすればいいのだ。目の前で飛び散る獣らの血潮を浴びながら、誰もが考えた。
『………ン………せよ』
雑音の中から声がする。
『ゼン……こ……ヘレナ……応答せ……』
「……っ! 司令部長!」
慌てて通信に出る。ゼンの心臓の高鳴りは未だに治まらない。
『……遺伝情報器官を探せ…………生産は止ま……マザ……止まるはず……』
「ですがどうやって……」
『…………………………』
「司令部長……?」
『…………………………』
レイメイが肩に手を置き、悲しそうに首を振る。マザー・ドームとの通信は酷い天候のせいで、途絶えてしまった。
「遺伝情報器官……っつーのは、どういうもんだろうな」
「多分、マザーの中にある母体器官と父体器官の事だろう。以前はそれを使ってヒトを作ってたらしいからな」
どうやって探すんだよ。レイメイが諦めたように言った。
妖獣を生成する器官があるとするならば、妖獣が出てくる場所の延長線上にあると考えるのが一般的だろう。外皮よりも柔らかい内側の肉は、骨を折ることもなく切り裂けそうだった。
「レイメイ、予備の短剣かなにか持っていないか?」
ほらよ、という声と同時に脇差ほどの大きさの剣が差し出される。今までの戦闘で使っていないようで、刃は綺麗に研がれていた。
突撃銃の弾の残りとショルダーバッグに入れている予備の銃弾、それと短銃を確認する。脇差を器用にバッグに結び付けると、ゼンは妖獣が産出される場所を見つめた。
「リーダーの権限を全てお前に託す。後のことは頼んだ、レイメイ」
「…………さっさと帰って来いよ、ゼン」
ああ、と吐き捨てると、ゼンはマザーの子宮口へ駈け込んでいった。
そこは生温かい粘液と、目を疑うようなスピードで細胞分裂を繰り返す受精卵で埋め尽くされた場所だった。手元のランプの光が闇に飲まれてしまうくらいほの暗い。やられる前にやる精神で、手当たり次第に目についた妖獣の形になろうとしている卵を潰していった。見慣れた形をした細胞も潰していく。
奥へ進むほど、その細胞の形は単純になっていく。遂に受精卵になりたてのものが見え始めるところまで来た。初めての体細胞分裂を行おうとする受精卵をひとつひとつ切りつけていく。
嗅いだことのない匂いで満ちていた。異物であるゼンを追い出そうとする様子も見られないマザーの胎内は外の荒くれた世界と比べたら平和だった。
受精卵さえ見当たらなくなると、行き止まりにたどり着いた。そこには二つの異なる形の凹凸がある。この裏に、目的のものがあるに違いないとゼンは悟った。
脇差に付着した粘液を服で拭うと、まずは向かって左側の壁面に突き立てる。内部の柔らかい肉とは別の感触をつかみ取った。どくんと剣先が揺れた。
その瞬間、マザーの体内がうねる。地割れのような衝撃がゼンに走った。粘着性の液に足を取られ、転んでしまった。
内部の肉は柔らかく、体を打ち付けることはなかった。しかし、上下左右に激しく揺れ動く現状は変わらず、立つのがやっとだった。ゼンはしっかりとレイメイの刀を握りしめ抜き取ると、切りつけた肉の裂け目に突撃銃を差し込み、弾丸を放つ。粘液とは違う鼻を曲がらせるようなどろりとした液体が切り口から湧き出る。きっと、これで大丈夫だ、とゼンは懸命に心の中で呟いた。
同じように反対方向にある凹凸にも手を伸ばす。剣を突き立て、出来た切れ目に銃口を差し込む。
再びゼンの足下が震えだす。先ほどよりも大きな揺れだ。粘液と鼻をツンと突く液体が混ざり合った足場は、ゼンのバランスを奪い去る。耐えきれない臭いにゼンは胃の中のものを吐き出した。
「ゼン……生きているか……!?」
「レイメイ、か。ああ、無事だ。外はどうだ」
「妖獣の出現が止まった。だが、この……マザーだったか。こいつの様子がおかしい」
生きる意味であった遺伝情報器官を潰された生物が悲痛な叫びをあげているのだろう。山の如く動かなかった初代マザーが激しくのたうち回っているらしい。その衝撃で数人が怪我をしたという。
「任務は達成した。今から戻る。なるべくマザーから離れた場所で待機して、怪我人の救護に当たってくれ」
耳元からは嬉しそうな調子の返事が聞こえてきた。ゼンもつい顔を緩ませる。少しだけ胸が痛むのは気のせいだろうか。
胃液さえも吐き出しそうな臭いが充満したところから退散しようと、来た道を戻る。潰してきた卵からも、同じような臭いがした。腐臭に近いものだった。
耳に響いてくるのは粘液の上を足が駆けていく音と通信機のノイズ。手で感じるのは、冷たい鉄の引き金と、借り物の剣。目の前に広がるのは、命の誕生を阻害された残骸。
これで妖獣が勝手に生み出されることはないだろう。安全圏の平和が保たれ、もしかすれば、それ以外の場所で平穏な日常が送れるのかもしれない。淡い期待とひとつまみの後悔が全身を駆け巡っている。
「ゼン。まだ出てこないのか」
通信受信音と共に、焦りの声が入ってくる。
「…………いや、大丈夫だ。すぐに行く」
そう言いながらも、気づけば足が止まっていた。疲れで動かないわけではない。自責の念が重たく足に絡みついているのだ。自分は一体何をしてしまったのだ、と。
ランプの明かりが絶え絶えになる。僅かな燃料しか入っていなかったため、そろそろ役目を果たせそうになくなるだろう。ジジジというむなしいあがきを見せたランプの光はふっと闇の中に溶けていった。
明かりを失ったマザーの体内にいると底冷えを感じる。耳元で何かしら音が聞こえるが、よくわからない。
目の前に広がる暗闇にゼンは抱かれた。初めてこの個体を初代マザーだと認識した時のように頭が痛む。鼻を曲げるほどの臭いも、感じられなくなった。瞼が重くなり、首が頭を支えられなくなる。
未だに揺れ動くマザーの中で、ついにゼンは自立できなくなった。揺れに振り回されながら、粘液と異臭を放つ液体が混ざる足元へと倒れこむ。
ゼンの中でぷつりとこと切れた何かがある。
生温かい液体の中で振動を感じながら、重くなっていく瞼に抗うことを止めた。体中から力が抜けていく。魂までもが浮遊しているかのようだった。
体が引っ張られるように浮き上がる。強く握りしめられた腕から温かさを感じた。
「しっかりしろ馬鹿野郎!」
聞きなれた声がゼンの鼓膜を震わせる。その声の主の腰につけられたランプがほうほうと辺りを照らしていた。
レイメイはゼンに外傷があるかどうかを確認した後、安心したように胸をなでおろした。
「立てるか?」
「……………………肩を貸してくれ」
「了解」
レイメイはゼンの左腕を抱え自分の肩に回した。そのままぬかるんだ足下に注意を払い進んでいく。
「心配、かけたな」
ぼそりとゼンが呟くと、いつもの調子でマシンガンの如くレイメイが口を開いた。
「ったりめーだよ。帰って来いっつったのに、全然戻らないし通信にも反応しないし困ったもんだぜ? 本当に死んじまったんじゃないかって肝を冷やしたぞ。……でもまあ、生きてて安心したわ」
ゼンはその言葉を聞いて、そうか、と小さく言った。
「雨もだいぶ上がってきて司令部との通信も回復している。妖獣は殲滅した。後はお前を連れて帰るだけだ」
「マザーはどうなっている」
レイメイは鼻をフンと鳴らした。
「知らね。急にぴくりとも動かなくなった。だから俺がお前を助けに来たんだよ」
ゼンはなにやら口籠ったが、レイメイにその言葉は聞こえなかった。
バラバラに響く足音だけがそこにあった。
レイメイが最後に話して以来、お互いなにも言葉を発しなかった。
暫くして、レイメイの腰のランプ以外にも光が見えた。ようやく入り口まで辿り着いた。霧雨が降る外で、二人の帰還を今か今かと待ち構える隊員の声が聞こえてくる。
雲の切れ間から、二人を出迎えるように光が伸びた。レイメイの頬に優しく当たる。天候と同時に通信も回復し、司令部から安堵の声が漏れた。
「これで終わったんだな」
レイメイが言う。
「ああ、何もかも終わったんだ」
ゼンが答える。
脇差をレイメイに返すと、穏やかな顔でマザーの内部に数十発にも及ぶ銃弾をまき散らした。手慣れた動作で予備の弾丸を補充し同じように引き金を引く。
石像のように動かなかったマザーが大きく体をひねった。咆哮を上げ、悶絶しているように見える。
『一体何の音ですか!?』
通信機越しにリュイが驚く。レイメイも同じだった。今までに見たことのない優しげな顔をした友の姿を信じがたい目で見ていた。
「ゼン……ッ!」
そう叫んだレイメイをゼンは渾身の力を振り絞って外へ投げ出した。武器を持たずにステゴロで体術訓練をした際に全敗したことを、吹き飛ばされる瞬間にレイメイは思い出す。
泥水でぬかるんだ地面にたたきつけられたレイメイは、空気を吐き出した。受け身を取ったとはいえ、咄嗟の出来事で綺麗な着地が出来ず、鈍痛が全身を駆け巡る。心配そうに帯刀した隊員がレイメイに駆け寄った。
残りの者たちはおろおろとするばかりだった。隊長の地位を持つ男の予想もしない行為に上手く反応することが出来なかった。ゼンの直属の部隊は余計に混乱した。無計画に行動するような人物ではないと熟知していたため、きっと彼の行動に意図があるのではないかと必死になって考えた。だが、わからないという文字列が脳内を駆け巡るだけだった。
音しか拾えていない司令部は更に困惑した。突如として鳴り響いた銃声音に、戦闘が始まったのではないかと緊張が走った。レーダーで点滅する黒い影のようなものとの交戦の火蓋が切られたのかとざわついている。
「てめっ……何しやがる……」
地面に打ち付けた場所をかばいながらレイメイが吠えた。ゼンは少し俯いており、その眼に影が落とされている。
「自分でもよくわかっていない」
ゼンがか細い声で言葉を紡いだ。
「ただ、これが俺にとっての最善策だということはよくわかっている」
突撃銃を投げ捨て、ショルダーバッグからおまけとして持っていた短銃を取り出す。体を左右にねじるように暴れるマザーはその子宮口を徐々に閉めていった。上からジッパーのように閉じていく。それに合わせてゼンは撃鉄をおこした。
レイメイや他の隊員たちの血の気が引く。目の前の男が今から一体何をするのか、容易に想像がついてしまった。
「ばっ……止めろ! ゼン!」
駆け寄ろうとするレイメイの足下を一発の銃弾が掠め取った。無言の圧力と、不可侵命令のように感じた。
『状況説明を求めます! 何が起きてるんですか? 皆さん無事なんですか?』
再び聞こえた銃声に慌てるようにリュイが言った。
「こちら、第三機動部隊部隊長、ゼン。傷を負ったものはいるが、大体無事だ」
『じゃあ、先ほどの銃声は……』
「心配無用だ。暫くしたら、皆マザー・ドームに帰還するだろう。では通信を切る」
問答無用で耳から小型通信機を取り外すと、近くにいた隊員に投げつける。同じように、いくつか補給物資が入ったショルダーバッグも投げ出した。
「ゼン……流石にやっていい事と悪い事の区別くらいついてんだろうな……」
腰から下げた打刀を抜きながらレイメイが言った。低く響く声だった。
「わかっている。これは牽制だ。俺の問題だから近づかないで欲しい」
「部隊長ともあろう奴がそんなことしていいと思ってんのか」
「……駄目だろうな」
息を吐く。ゆるりと閉じられていくマザーの中で、ゼンは妙に落ち着いていた。
「もう一度言うが、これは俺の問題だ。俺の根幹にある、僅かな希望だったものを自分で壊してしまったんだ」
何を言っているんだとレイメイは呆れた。しかし、車の中にいた一人の狙撃手は息を飲んだ。
「希望がないと生きていけないこの世界で、唯一の望みだったものを失ってしまった。今も鉛のような失望感が心臓を這いずり回っているんだ」
顔を歪ませてもう一度ハンマーをおこす。
「任務のために覚悟を決めたが、やはりだめだったな。意外にも紙の上に綴られたものに依存していたらしい」
ゼンの中で切れてしまった何かを、彼自身がようやく自覚した。
「―弑逆した信者の行く末だ」
「やめろ、本当にやめろ……。まだ戦わなくちゃならんことがあるだろう」
「いいや、もうない。多分、マザーが全ての原因だった」
「結論付けるのは早すぎる」
マザーの産出口はゼンの頭上二メートルほどまで閉まっていた。隙を見つけて助け出したいと多くの機動部隊隊員がゼンに注目している。しかし、死角にいるはずの隊員が一歩でもその場を動いたなら、銃口が素早く向けられてしまう。誰もが手出しできないと感じていた。それはレイメイも同じだった。
「……安い希望は買うなよ。俺みたいに馬鹿を見るからな」
引き金に指をかける。
「リュイに謝っておいてくれ。約束守れなくて済まなかった、と」
「自分で伝える努力くらい見せろよ……」
「ははは。すまんな」
「笑うんじゃねーよ。一人でマスターベーションもどきか?」
「後のことは頼んだ、レイメイ」
「………………嫌なこった」
「マザーの加護を」
引き金を引く一瞬のうちに、走馬灯が駆け巡った。
幼少期に生きる糧になった神との出会い。
機動部隊に入隊した日に出会った、現第一部隊部隊長。
刷り込まれるように復唱させられた言葉。
妖獣と戦う日々。
神であり野獣であり人類の遺物と遭遇した今日。
気付けばしっかりと引き金は引かれていて、外の景色すら見えないくらいの闇の中でゼンはこと切れた。
ずどんという衝撃と共に地響きがした。妖獣を生み出す野獣は力尽きたように倒れた。
目の前で起きた出来事に上手く反応が取れない。司令部からの連絡も、右から左へ抜けていく感じがした。
『ゼンさん、レイメイさん。本当に何があったんですか? 標的は倒せたんですか……?』
レイメイの右耳から早口でまくし立てるリュイの焦りが聞こえた。
「多分、な。第一機動部隊部隊長、レイメイ。標的鎮圧……」
司令部室には多くの研究員が集まっていたのだろう。歓喜の声が上がった。それとは裏腹に、現場の空気は非常に重々しい。晴れ晴れとした空の下、十数もの影がぽつりぽつりと立っていた。
「お前ら、帰還すっぞ。あとは調査する奴らの仕事だ」
レイメイは自分の車の方へ踵を返す。第二部隊の車の中から小さな悲鳴と一発の銃声音がした。
「馬鹿がもう一人いたか」
はあ、と行き場のない憤りを吐き出すと、レイメイは速やかに撤退作業を命じた。
数名の隊員がマザーの子宮口があったところに刃や銃を突き立てている。どうにかしてゼンをマザー・ドームまで連れて行きたいという。気持ちは分かるが、あれほどの戦闘でも致命傷を与えることが出来なかった外皮に何をしようが無駄だろう、とレイメイは思った。
第二部隊の隊員にゼンの小型通信機を預けると、号令と共に車はマザー・ドームへと走り出した。呼吸するにもやっとだというくらいの耐え難い空気が流れている。車内の雰囲気を変えたいという思いはあるものの、皆、迂闊な発言で一層空気を悪くしてしまうことを怖れていた。タイヤが地面を擦る音と振動だけが響く。
第一部隊の車に繋がれていた通信機に信号が入る。湿っぽい体を起こし、レイメイは通信に応えた。
「こちら、第一機動部隊部隊長、レイメイ」
『こちら、司令部主任、リュイ……』
落ち込んだような声だった。
『第二部隊に連絡しているのですが繋がらなくて……』
そうだろうな、とレイメイは思う。通信権限を持つ部隊長が居なくなってしまったという事実を改めて認識するのも、それを司令部に早々に知られて余計に落ち込むのも、疲労困憊の隊員たちには嫌なのだろう。
「俺が代わりに指示を受けるよ。どーしたの」
自分でもわかるほどやる気のないトーンだった。
『先ほどまでの影が消えたのは司令部でも観測できました。それでなんですけど……』
「ごめん、リュイ。報告ならちゃんと帰ってするから。一時間以内には戻れるだろうし、今はそっとしておいてくれ」
レイメイの鼓膜を揺さぶったのは、一瞬にして心拍数を上げる伝達だった。
『…………再び黒い影が観測されました。さっきと同じ場所です。……猛烈なスピードで皆さんの方に向かっています!』
くそったれ。レイメイは吐き捨てる。
生き残っている狙撃手に後方の様子を確認させた。第二部隊からの通信に「マザー」という単語が含まれていた。M1という文字も刻まれているらしい。
神は再び排出口を開けた。どろりとした大量の液体が地面の汚泥と混ざり合う。壊された受精卵や一人の男がそれとともに流れ出てくる。
野獣から聞こえる咆哮は、怒りに満ちていた。今までに感じられなかった明確な殺意が込められている。
人類の遺物は遺骸をすべて出し切ったあと、時計の秒針が時を刻むよりも早く固形物が流れ出てくる。付着した粘液が取れる前に、それは動き出した。
「ふざけんな! ゼンが遺伝情報器官をぶっ壊しただろうが! なんで……なんで妖獣が生まれてくるんだよ!」
疲労がたまった体に鞭打って、車外に出た。
のそりと動く生物は、今度は二本足で立っている。今までの妖獣と違い、小柄で獣らしくない。関節の数や曲がる方向は奇形といっても過言ではないくらいだったが、その風貌はよく目にするものと甚だしく似ていた。
誰かが吐しゃ物をまき散らす。それにつられて数人が口元を抑え、そっぽを向いた。気持ち悪い、と誰かが言う。
「…………………………………………人間だと?」
腕の関節は一つ多い上に、その顔つきはまだまだ獣らしかったが、生まれてきた生物はヒトと言えるほどの見た目だった。
その生命体は飛び出た眼球をぎょろぎょろと動かし餌を見つけると飢えた獣のように飛びついた。仲間の成れの果てが貪られていく様子は心臓を抉ってくる。
「……っ! ゼンを放せ!」
私情に負けてレイメイが飛び出した。それに弾かれて他の隊員も飛び出す。接近戦をメインとしないガンナーたちが率先して前に出る。
大型の妖獣たちとは違いいともたやすく倒れていくヒトもどきたちが地面に積み重なる。
マザー・ドームからほど近い場所で繰り広げられたのは、さながら地獄絵図のようだった。嗚咽を上げる者もいた。武器を持つことを止めた者もいた。弾丸が尽き、刃こぼれがではじめ、思考力を鈍らせるような空気が漂った。
後方からエンジン音が聞こえた。異変を感じた司令部が応援部隊をよこしたらしい。三台の車がこちらに向かってきた。統率の取れた動きで現れた隊員たちは戦闘準備に取り掛かる。謎めいた生命体―マザーと産み出され続けているヒトもどきに一瞬だけたじろいだ。
『何ですか、これは』
リュイは新しく来た車に搭載されたカメラで現場を見た。レーダーでは上手く観測しきれなかったものの正体を知り、司令部はざわつく。
『初代マザー……』
ヘレナがぼそりと呟いた。
『マザー……? ゼンさんが言っていたのってこのことだったんですか……?』
『おい、レイメイ。本当に器官を破壊したのか? なぜ奴はまだ生産活動をやめない?』
「俺に聞かないでくださいよ、ヘレナ司令部長。ゼンの野郎は確かに壊したっつってたんですから」
『そうだ、ゼンさんはどうしたんですか。あの真面目人間が通信に応えないって変ですよ』
リュイの言葉に胸が痛む。
「ゼンはマザーの中で自害した」
引きつるような声が聞こえた。
「約束守れなくて済まなかった、てさ。リュイ」
甲高い嗚咽が漏れる。嘘だ、とか細く呟かれた言葉は、通信の波には乗らなかった。
「正直に言います。外皮よりも内側から切りつけた方が早いですね。一発で吹き飛ぶくらいの爆弾を体に仕込むか、内側からマザーを燃やし尽くすかすれば勝算はあります」
『そんなものすぐに用意できるとでも思ってるのか?』
「いいえー、思ってませんけど」
あっけらかんとした態度でレイメイは言う。
「代わりならいくらでもあるかなと思いまして」
その眼に光などなかった。
レイメイはマザーの方へ向かう他の隊員と正反対に歩みを進める。第二部隊の車から自死した狙撃手の亡骸を担ぎ上げ応援部隊が乗ってきた車に入り込むと、自分以外に誰も乗り込んでいないことを確認してからエンジンを入れる。ガソリンメーターはFに近いところを指し示していた。
『おい、レイメイ。貴様、何をしている……』
異変に気付いたヘレナが声をかけた。レイメイが乗った車は、まっすぐマザーへと突進していく。
「マザーを完全に止めるんですよ。まあ、見ててくださいって」
へらへらと笑いながらレイメイはマザーの子宮口から体内へと侵入した。
「おっと、忘れてた」
落とし物を拾うかのように、所々をついばまれてしまったゼンを抱きかかえると、車内に置いている狙撃手と隣に寝かせた。そして何食わぬ顔でマザーの奥へと車を走らせる。
ぬめりのある液体がまき散らされたマザーの中で、車は何度もタイヤを空回りさせながらゆったりと進んでいった。間もなく、ゼンが破壊したはずの遺伝情報器官の元へ着いた。しんと静まり返り、切り裂かれた二つの傷跡からはどくどくと異臭を放つ液体が流れ続けている。それらの数メートル横で新しく卵が作られていた。
「予備があったってことか」
くくく、と笑いをこらえながらレイメイは車から降りた。
『レイメイ……答えろ! 何をするつもりだ』
「二度も同じ説明したくないんですけど、司令部長」
レイメイは耳から通信機を取ると、遠い暗闇の中へ投げ捨てた。
給油口を開けると、手持ちの打刀と脇差を適当に振り回す。紙で指を切るような滑らかさでマザーの肉を切り裂いていった。その度に内部は地震がおきたように揺れる。粘液がこびりつき、切れ味が悪くなるまでレイメイは続けた。
みっともなく息を荒げる。打刀を投げ捨て、脇差を鞘にしまうと、車の中から一本の黄リンマッチを取り出した。
「あーあ、ゼンも俺も、なかなかの馬鹿だよなぁ」
足の裏でそれを擦ると、器用に給油口の中に投げ入れる。
「マザーの加護を、ってか」
けたたましい音と黒煙が辺り一帯を埋め尽くす。内側から焼かれた獣はなす術もなく、振り絞るように悲鳴を上げると赤々と燃える炎の中に抱かれて沈んだ。
その場にいた隊員とモニター越しの司令部は、雲一つない空を裂くように伸びる黒煙を、ただただ見つめているだけだった。
かつての人類の神はもう動かない。遺物は子孫らによって滅ぼされた。
立ち昇る煙はいつの間にか空を覆ってしまった。未だにマザーを囲む炎は弱まる様子を見せない。ぶすぶすと音を立てながら燃える獣の外皮は徐々に炭と化していく。腐臭と一酸化炭素の臭いがあたりに広がった。
これで本当に終わったんだ。揺れる火を見つめながら誰かが言った。
司令部からの帰還命令により、その場にいた戦闘員たちは撤退準備を始めた。怪我をした人へ手を差し伸べ、まだ使えると判断した資材は車に積み持って帰る。脱力した様子だった。その間もなお、マザーは燃え続けていた。
終始無言で行われた撤退作業が完了し、隊員たちは車を走らせる。段々と遠くなっていくマザーの存在を、誰もが気にかけていた。
遠くの空までもがマザーから溢れ出る黒煙で埋め尽くされている。燃える固まりが米粒ほどの大きさになるくらいまで離れると、ほとんどの人が火中にいる獣のことを気に留めなくなっていた。
追いやられてしまった人類の未来はこれで明るくなる。―誰もがそう淡い希望を抱いた。