武芸百般の退魔師1
神奈川県某所。
県立宮良美高等学校。
開校より五十年を迎えたその県立高は、男女共学で七百名もの在校生徒を抱えている、全日制の教育機関だ。
県内有数の進学校というわけでもないが、平均と比べてやや上位に位置するその学校には、自身の将来を正しく見据え、日々勉学に励んでいる生徒が大勢いる。
だがやはり、どのような学校にもはみ出し者というのは存在する。
いわゆる不良と呼ばれるその者達は、自身を日陰者と自覚しているが故か、人の目の届かないところを好む傾向にある。
宮良美高校の不良らもその例外ではなく、彼らは暇さえあれば、人気のない場所に集まり、益体のない話で時間をつぶす。
一般の生徒は、不良とのトラブルを嫌う。
ゆえに、彼らがたむろしていそうな場所には、極力近づかないようにする。
日の当たらない体育館の裏や、本来ならば施錠されている校舎屋上などは、その最有力候補といえるだろう。
それら事情を踏まえると――
(無関係な奴が屋上に現れて、この状況を教師に報告するってこともねえだろうな)
内心でそのことを確認し、彼は改めて前方に視線を向けた。
彼の前には、六人の男子生徒が険しい面持ちで立っていた。
その六人の男らは、各々が髪の毛をカラフルに染め上げて、学校指定の制服であるブレザーを乱暴に着崩していた。
その見た目からも分かるように、その男子生徒らは俗にいう――
不良であった。
「あぁっとテメエ、下陰玲児っつたよなあ?」
頭を赤色に染めた不良の一人が、語尾を無駄に伸ばした独特の喋り方で、話し掛けてくる。
不良の無意味な問い掛けに、彼――下陰玲児は気だるげに髪を掻くだけで、返事をしなかった。
赤髪の不良がぺっと唾を吐き、眉尻を吊り上げる。
「テメエよぉ……うちらの者に手ぇ上げたらしいなぁ?
どういうつもりよぉ、あぁ?」
その言葉に、玲児は赤髪の男から、赤髪の隣に立っている茶髪の男に、視線を移した。
頬にシップを貼った茶髪の男が、こちらを見てにやついている。
玲児はその茶髪の男を一瞥した後、また赤髪の男に視線を戻した。
髪を掻いていた手を下し、今度は眉尻を掻く。
「……誰だっけか、そいつ?」
玲児の返答に、赤髪を含めた六人の不良生徒が、一斉に声を荒げる。
「テメエ!
しらばっくれてんじゃねえぞ!」
「タカちんがやられたって言ってんだ!」
「適当こいて舐めてんじゃねえぞ!」
「ぶっ殺されてえのか!?
らああああ!?」
不良から上がる罵声を適当に聞き流しながら、玲児は眉尻を掻く手を下した。
本当のところを言えば、茶髪の男には見覚えがあった。
昨日の下校時に、肩がぶつかったなどと、一般の生徒にすごんでいた男だ。
治療費云々と声を荒げていた男が耳障りで、とりあえず通り掛かりに一発殴り、大人しくさせたのだ。
そして翌日――つまり今日――、その茶髪の不良仲間から呼び出しを受け、今こうして屋上で彼らの罵声を聞き流すに至る。
玲児はその現状に、小さく溜息を吐く。
玲児自身は、自分のことを不良などとは考えていない。
だが昔から、こういった不良連中に絡まれることが多く、トラブルが絶えなかった。
それは、不良連中を相手に引くことがなく、面倒になるとすぐに手を上げる、彼の粗雑な性格が起因しているといえる。
そのため中学生の頃は、裏番長などと好き勝手に呼ばれ、他校の不良から喧嘩を売られることも多かった。
だがそれだけならばまだ良い。
最悪なのは、教師からも危険人物として扱われ、ただでさえ低い成績に悪影響を及ぼしていたということだ。
玲児は決して頭が良くない。
そんな彼が宮良美高校に合格するためには、それこそ死に物狂いで受験勉強して、芳しくない成績を補う必要があった。
それほど苦労して獲得した高校生活を、このような下らないトラブルで無下にするのは、愚かしいことだろう。
謝罪の一つでもして穏便に事を収めるのが良い。
それは玲児にも分かっていた。
昨日は突発的に手を出してしまったが、これ以上、事態を悪化させることは得策ではない。
(梨々花からも喧嘩しないよう口うるさく言われているし、形だけでも謝ってお――)
そう考えていた時、茶髪の不良が玲児に殴り掛かってきた。
ぼんやりとしていた玲児は、その不良の拳を躱すことができず、強かに頬を打たれる。
瞬間――プチリと頭の中で音が鳴った。
「昨日の威勢はどうした!
ああん!?
ビビッて何も言い返せねえのか!?」
にやついている茶髪の不良が、再び拳を玲児に向けて突き出してきた。
玲児は軽く体を傾けて、不良の突き出した拳を躱すと、男のそのにやけ面に向けて――
躊躇なく拳を叩きつけてやった。
「ぶぼべらああああああ!」
無様に背後に転げていく茶髪。
玲児は血の滲んだ唾を吐くと、瞳を怒らせ声を荒げた。
「調子づいてんじゃねえぞ、クソどもが!」
玲児の反撃に、「ぶち殺せ!」と不良らが一斉に襲い掛かってくる。
玲児は一度大きく横に飛び退くと、向かって一番左端にいたモヒカンの男に蹴りをくれてやった。
鼻血を噴き出して転倒するモヒカン。
その男の腹を踏みつけながら、体を回転させて金髪男を蹴りつける。
革靴の踵が頬にめり込み、金髪男の歯が宙を舞う。
「くそ!
もう容赦しねえ――げぼお!」
何かを言い掛けた白髪の男の、その鳩尾に右拳を突き刺す。
大量の空気と涎を吐き出し、白髪が前のめりに倒れた。
その直後、玲児は直感から身を屈める。
背後から突き出された拳が、髪を掠めて頭上を通過した。
不意打ちを外して驚愕に目を見開く緑髪の男。
その緑髪の顎めがけて、玲児は立ち上がる勢いそのままに頭突きを喰らわせてやる。
瞬く間に五人の不良が倒され、残りは赤髪の男ひとりとなる。
拳や頬などに返り血を浴び、眼光を凶悪に輝かせる玲児。
その姿を見てか、赤髪が怯えたように声を震わせる。
「な……なな……テ……テメエ……よくもこんな……」
「先に殴ったのはテメエらだからな……恨むんじゃねえぞ」
正確には、昨日の下校時に玲児が先に手を上げたわけだが、それは不可抗力として換算しないこととする。
玲児の睨みに気圧されたか、赤髪がビクンと肩を震わし――
悲鳴を上げて逃げ出した。
「テメエ!
一人だけ逃げてんじゃねえぞ!」
「ひぃやああああ!
あああ……悪魔だ!
たたた……助けて!
殺さるううう!」
すぐさま赤髪の後を追いかける玲児。
屋上の出口に向かい、躓きながら走る赤髪の男の、その背後に瞬く間に詰め寄ると、駆ける速度を緩めないまま跳躍し――
赤髪の背中を全力で蹴りつけてやった。
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神奈川県小田原市立花北地区。
一般的な住宅が軒を連ねるその住宅街に、何とも不自然な洋館が建てられていた。
中世ヨーロッパを思わせる、古びた様式のその建物は――
死霊魔術師ユリア・シンプソン=ロクスバーグが暮らしている屋敷だ。
午前六時。
まだ朝日が昇り間もない時間。
屋敷の地下にある、一辺が二十メートル、高さ四メートルの広い一間に、ユリア・シンプソン=ロクスバーグは一人立っていた。
享年八十一歳。
老衰により亡くなる直前、降霊術により自身の魂を人形に封じ込めた彼女は、今は十代半ばの少女の姿をしていた。
彼女の魂の器となった人形は、非常に精巧かつ美しく造られており、その白い肌の質感は赤子のように滑らかで柔らかい。
ユリアはその自身の体を確かめるように、頬をパシパシと叩き、縦に巻いた金髪を指先でつまんだ。
人形の体になってから八年の時が経過した。
だがやはり、どこかどうというわけではないが、若干の違和感がぬぐえないでいる。
(これはまだ、この体に不慣れがゆえの感覚か?
或いは所詮は偽りの体ゆえか?)
恐らく、その問いに答えなどないだろう。
ユリアは小さく溜息を吐くと、右手を振るいローブの上から羽織った外套を、バサリと揺らした。
ジャラリと音を立てる手首に巻かれた装飾品。
ちょっとした魔除け効果のあるこれら貴金属は、悪魔と対峙する機会の多い死霊魔術師にとって、必需品といえる。
気を取り直し、ユリアは足元に視線を向けた。
コンクリートで固められた床。
味気ないその灰色の床は、つなぎ目はおろか、小さな傷一つ見当たらない。
そのまっさらな床の上に、とある図形が赤いペンキで描かれていた。
それは、直径が三メートルほどの巨大な円を縁にして、その内側に迷路のような複雑な幾何学模様が描かれた、奇妙な文様であった。
ユリアにとって見慣れたその文様は――
構成陣と呼ばれている魂の設計図である。
その文様の中心に、一体の人形が仰向けに寝かされていた。
薄闇に判別しづらいが、人形の大きさはユリアを少し上回り、突き出した胸の双丘から、女性であると知れた。
「さて……始めるとするかの」
両手首をプラプラと揺らし、首をコキコキと鳴らす。
降霊術に身体的な機能は必要ない。
だがコンセントレーションを高めるために、柔軟体操は欠かすことができない。
精神を鎮めて意識を尖らせる。
まるで一本の糸のように細長くした意識を、編み物をするようにして紡ぎ上げていく。
一次元の細長い糸が、緻密に編み込むことで二次元の面を形成し、二次元の面が折り重なることで三次元の立体を形成する。
精神の中で紡がれ体積を得たその意識は、足元の魂の設計図から構成された、魂の雛形だ。
図形により描かれた魂の設計図。
そして意識により編み込まれた魂の雛形。
それらを適切に交じり合わせ、現実に魂を召喚する術法。
それこそが死霊魔術師が用いる――
降霊術となる。
時間にして三十秒。
下級悪魔の召喚とは異なり、高度な魂の召喚には、それなりに集中する時間を有する。
もっとも、これほど高度な魂を召喚することそれ自体が、一流程度の死霊魔術師では不可能なことでもある。
何にせよ、降霊術の準備を整えたユリアは――
膝を曲げて屈み込み、足元の構成陣に両手のひらを当て、意識を流し込んだ。
バシンッ!
と構成陣から稲光が奔り、それと同時に空気が膨れ上がり旋回する。
構成陣から生まれ出る強大な気配に、既存の空気が押し出され、圧迫されているのだ。
旋回する空気に大きくはためく外套。
荒々しく暴れる外套が、小柄なユリアの体を左右に激しく揺らす。
だがユリアは、体を床に縫い付けているように腰をしっかりと据え、碧い瞳で構成陣の中心を一心に見つめていた。
パンッ!
と空気が弾ける。
空気の旋回が収まり、構成陣から奔る稲光も消える。
沈黙するユリア。
彼女の視線の先。
構成陣の中心。
そこに寝かされていた人形が――
ゆっくりと上体を起こした。
「目覚めたか。
気分はどうじゃ?
守護隷フィリナよ」
ユリアのその言葉に――
人形がニコリと微笑んだ。