傍若無人の死霊魔術師3
庭園からの気配に、ユリアは一度だけ眉をピクリと跳ねさせた。
唇に付けていたカップをソーサーに戻し、小さく舌を出して唇を舐める。
「やはり悪魔の連中に悟られたか……あれほどの降霊術を用いれば当然ではあるが、これほど早く姿を現すというのは、意外ではあるかのう」
悪魔の狙いは十中八九、死霊魔術師たる自分だろう。
連中に命を狙われる理由は、復讐から売名に至るまで、五万とある。
少し前ならば、そのような身のほど知らずの悪魔など、自ら出向いて速やかに排除、或いはサンプルとして捕獲していただろう。
だが今は状況が異なる。
自分は一度死を迎え、今は穏やかな死後生活を望んでいる。
ベルリンで暮らしていた時のように、自ら悪魔と相対する気など、毛頭なかった。
ユリアは唇に指先を当て、つっと黙して考え込む。
思案にそれほど時間は掛けない。
僅か五秒ほどで考えをまとめると、ユリアはパチンと手のひらを打つ。
「どれ、ちょうど紅茶を飲み終えたところじゃし、レイジの働きっぷりでも見学してみるか。
退屈しのぎぐらいにはなるかも知れんて」
気楽にそう呟くユリア。
だがことはそう楽観できるものではない。
庭園から感じる気配は、恐らく中級以上の悪魔のものだ。
レイジが地下の試験場で打ち倒した下級悪魔とは、力に雲泥の差がある。
守護隷になりたての彼が、その悪魔に勝利する確証はない。
もっとも、死霊魔術師であるユリアがその気になれば、どれほど強大な悪魔であろうと容易に始末できる。
ゆえにレイジが敗北しようと、自身に危険が及ぶことはない。
ただし、自ら脅威に対処することは、彼女の意に反していた。
彼女が望むのは平穏な死後生活だ。
降り掛かる火の粉を自ら払うなど、本来あってはならないことなのだ。
例えどのような脅威があろうとも、あたかも脅威など存在しないかのように、穏やかな日々を送り続ける。
それこそが、今のユリアが望んでいることであり――
彼女の死後生活における要なのだ。
「観戦にあたり茶菓子が欲しいところじゃが……冷蔵庫でも探ってみるかのう」
こくこくと一人で頷いて、ユリアはソファから腰を上げた。
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黒い翼を羽ばたかせている怪物。
本来ならば、その異形な存在を前にして、悲鳴の一つぐらい上げていたかも知れない。
だが玲児は妙に冷静な気分であった。
異様な事態が立て続けに起こり、恐怖や困惑というような感覚が麻痺していたのだろう。
「貴様ら……人間ではないな。
『悪魔狩りの魔女』の守護隷か?」
玲児とプラトンに視線を向けた怪物が、裂けた口を開き、そう声を漏らした。
怪物の問い掛けに、無駄に胸を張ったプラトンが高らかに答える。
「いかにも!
この俺は死霊魔術師ユリア・シンプソン=ロクスバーグ殿の、最強の守護隷と呼び声が高い、プラトン様だ!
だが貴様などに、名乗る名などない!」
「しっかり自己紹介しているじゃねえか」
「当然だ!
名前を知ってもらえないなんて寂しいじゃないか!」
玲児の冷めた指摘に対し、支離滅裂な返答をするプラトン。
だが後ろめたさなどまるで感じさせない堂々とした態度で、少年が噴水の上を飛んでいる怪物をビシリと指差す。
「貴様の方こそ何者だ!
名前と出身地、趣味と好きな子のタイプを述べよ!」
「合コンか?」
再び冷めた指摘をする玲児。
怪物が裂けた口を開き、プラトンの問いに答える。
「我は『十二星座』が一角――サジタリアス」
怪物の答えに、プラトンが大仰な仕草で腕を組み、首を傾げた。
「『十二星座』だと?
聞いたことがないな。
あれか?
流行りのキラキラネームか?」
「我が所属する組織だ」
プラトンの頓珍漢な疑問に、意外にも律儀に答える怪物。
怪物からの返答を受け、プラトンが何やら考え込む素振りを見せた後、ポンと手を打った。
「言い忘れていたが、俺も所属している組織がある。
その名も、『レインボーアトミックグラウンドエスパージェイソンゲレゲレ唐揚げ弁当』と言ってな――」
「張り合ってんじゃねえ」
張り合いきれてなかったが。
それはそうとして、プラトンがふんと鼻息を吐く。
「悪魔の分際で組織とは偉そうな。
肩を寄り添いお遊戯会でも始めるつもりか?」
「死霊魔術師ユリア・シンプソン=ロクスバーグを殺す」
怪物がさらりと口にしたその言葉に、玲児は息を呑んだ。
玲児は日頃、周りから口が悪いと窘められることが多い。
そんな彼にとって、『殺す』という単語は、日常的に用いられる威嚇の言葉に過ぎなかった。
しかしこの怪物が口にしたその言葉は、玲児の使用している威嚇とは別種のものであった。
怪物がその言葉を口にした時、そこに威圧的な雰囲気など何もない。
そのことから、怪物がそれを威嚇ではなく、当たり前の事実として口にしていることが知れた。
怪物が平然と口にした殺人予告。
麻痺しかけていた玲児の感覚に緊張が走る。
だがそんな彼に対して、まるで怯んだ様子もなく、プラトンがニヤリと挑戦的に笑った。
「殺すとは随分と大きく出たものだな。
脆弱な悪魔が手を取り合い、数の優位に自惚れたか。
ユリア・シンプソン=ロクスバーグがどのような存在か、知らぬでもないだろう」
「無論のこと……『悪魔狩りの魔女』の悪名は、我ら悪魔にも響いている。
数千もの悪魔を快楽のためだけに狩り続けた、悪魔にとっての悪魔。
奴の首を取ることができれば、世界に散らばる我が同胞らから、一目置かれる存在となろう」
「主を打ち倒して名を売ることが目的か?
それとも同胞を殺された復讐か?」
「どちらも違うな。
我が属する『十二星座』の目指すものは改革だ。
悪魔による世界の統治こそが我らが目的。
『悪魔狩りの魔女』はそれを果たす踏み台に過ぎない」
「愚かしいな下等な悪魔よ。
貴様が踏み台と称したその存在が、貴様が見上げることすら叶わぬ、天突く巨塔であることを、主の守護隷たる俺が証明してやろう」
玲児を置いてけぼりに、何やら陰謀めいた会話を繰り広げる怪物とプラトン。
世界の統治だの改革だのと、ここまでスケールが大きくなると、むしろ滑稽さが際立ってくる。
(……てか、もう悪魔がいることが当然みたいに、こいつらは話しているが……)
噴水の上を飛んでいる怪物が人間でないことは間違いない。
もしもこれが催眠や幻覚の類でないというならば、確かに悪魔だという説明が的を射ている気もする。
(だがそれを認めちまうと……俺がもう死人だってことも認めちまうことになるしな)
目の前で繰り広げられている非日常。
それをどこまでを信用してよいのか。
判断を悩ませる玲児。
するとその時、プラトンがこちらへと振り返り、「ほう」と目を丸くした。
「悪魔を目の前にして、怯える様子もないとは見上げた奴だ。
なるほど。
悪魔に対する恐怖よりも、それを遥かに上回る戦闘意欲が、貴様の中でたぎっているというわけか」
「……全く違う。
話についていけねえだけだ」
「謙遜するな。
だが貴様の気持ちも分かるが、ここは新入りには荷が重い。
貴様はそこから、この先輩様が華麗に悪魔を打ち倒す様子を、失禁がてら眺めていると良いぞ」
なぜ失禁の片手間に眺めなければならないのか。
それは分からないが、玲児は軽口を返すことなく、プラトンに不承不承ながら従う――失禁はしないが――ことにした。
悪魔などという存在を、やはり容易に信じることはではない。
だが悪魔だという怪物とプラトンが戦うのであれば、その戦いを観察することで、何か分かるかも知れない。
玲児から怪物へと視線を移し、プラトンが自信ありげにニヤリと唇を曲げた。
「……一瞬だ。
一瞬で終わらせてやる。
後悔する間もないほどにな」
玲児から見える少年の背中が、一回り、二回りと大きくなる。
少年の膨れ上がる気配に、玲児は思わず唾を呑み込んだ。
そしてプラトンが――大きく吠える。
「やーい!
やーい!
このクソったれのヘッポコ悪魔!
全身毛むくじゃらで気持ち悪いの!
臭いはクセエしよ!
阿保面さらして育ちが知れてるってもんだ!」
突然プラトンが口にした、何とも低次元な悪口に、玲児はもとより、怪物までもがポカンと目を丸くした。
唖然とする二人を他所にして、「ぺっぺっ」と唾を吐く素振りを見せて、プラトンがさらに罵りの言葉を続ける。
「俺には分かるけど、お前いままで女にもてたことねえだろ!
バレンタインなんて、誰からもチョコ貰えないくせに、一人で舞い上がって、放課後も少しの間、教室に残っちゃう奴だろ!
だっせえの!
だっせえの!
死んじゃえよ!
バーカ!」
「……何やってんだ?
テメエは?」
何とか絞り出された玲児の疑問。
プラトンが玲児に振り返り、怪訝そうに眉を曲げる。
「見て分からんか?
罵詈雑言だ」
「見て分かるから訊いてるんだがな?」
半眼になる玲児に、あくまで居丈高の姿勢を崩さずに、プラトンがこくりと頷く。
「素人の貴様には分からないかも知れんな。
戦いにおける勝敗とは、先に相手を泣かしたほうが勝ちだという、普遍的なルールがあるのだ。
否。
自然の節理だというのが正しいか」
「正しいわけがあるか!」
堪らずに叫ぶ。
なぜかふんぞり返るプラトンに、玲児は手を戦慄かせて声を荒げる。
「何かこう……悪魔との戦いだとかで、少しばかり緊張して見ていた俺が馬鹿みたいだろうが!
何が泣かしたほうが勝ちだ!
子供の喧嘩をやってんのか!
ああ!?」
「さらに緊張して見ているがいい。
これより口に出すも憚れる、卑猥な言葉を――」
「止めろボケカスが!
見えるに堪えんわ!
ああクソ!
だがこれではっきりしたぞ!
やっぱ悪魔だ何だなんて、ただの下らねえ茶番劇に過ぎな――」
ここで、目の前でふんぞり返っていたプラトンの体が、視界の中でブレた。
言葉を呑み込んで、プラトンの姿を確認する玲児。
小柄な少年の体。
その足先が僅かに宙に浮いている。
弛緩したように垂れさがる手足。
少年の腹部から背中に掛けて――
錐状の刃が突き刺さっていた。
「――な?」
驚愕に声を詰まらせる。
少年を串刺しにした刃が浮き上がり、少年の小柄な体が上空へと持ち上がる。
頭上に浮かんでいく少年を目で追う玲児。
彼の視界に――
鋭利な指先で少年を串刺しにする、怪物の微笑む姿が見えた。
「これがあの『悪魔狩りの魔女』――死霊魔術師ユリア・シンプソン=ロクスバーグの使役する守護隷か?
なんとあっけないものか。
拍子抜けもいいところだな」
怪物が腕を振るい、串刺しにしたプラトンを、ゴミでも払うように投げ捨てた。
玲児は考えるよりも早く、上空から放り出された少年の元へと駆け寄る。
人間離れした動きで、素早くプラトンの落下地点まで着くと、少年が地面に叩きつけられる前に、玲児は少年の体を両腕で受け止めた。
少年の体は、ともすれば玲児の腕から抵抗なく滑り落ちそうなほどに、ぐったりと力が抜けていた。
腹部に直径二十センチほどの穴を空けた小柄な少年。
まるで眠っているように身動ぎのない少年の体を腕に抱きかかえ、玲児は頭上にいる怪物を鋭く睨みつけた。
「テメエ……いきなり何しやがんだ!
ガキの冗談ぐらい笑って済ませられねえのか!?」
「異なことを……悪魔と死霊魔術師が相対すれば、どちらかが滅ぶのは必然だろう」
ばさりと黒い翼を広げて、怪物がその赤い瞳を、一際輝かせる。
「貴様も守護隷というのならば、その者と同じ運命を辿ることになる」
瞬間、玲児は直感に従って横に跳んだ。
だが反応が遅い。
頭上に浮かんでいた怪物の姿が掻き消えたと同時に、左肩に強い衝撃を感じた。
そして――
玲児の左腕が肩口から千切れ飛ぶ。
「――があ!?」
苦悶に声を漏らしながらも、玲児は崩れ落ちそうになる膝に力を込め、転倒を防いだ。
素早く視線を巡らして怪物の姿を探す。
翼の生えた怪物は、先程いた位置から、ちょうど玲児を挟んだ反対側に移動していた。
黒い翼を羽ばたかせて、怪物が面白そうに裂けた口元をニヤリと曲げる。
「躱したか。
どうやらその小僧よりは使える守護隷らしいな。
だが二度目はないぞ」
ギリギリと瞳を尖らせる玲児。
そんな彼を挑発するように、怪物が両腕を広げる。
「幾ら睨もうと無駄なこと。
我の移動速度は音速の九十パーセント。
人間はおろか、死霊魔術師が使役する守護隷とて、我の姿を捉ええることなどできない」
左右に開いた両腕を自身の胸元に当て、怪物が誇らしげに声を上げる。
「『音速飛行』。
それが悪魔の術法――我が保有する魔術の能力だ。
貴様がどれほどの守護隷であろうと、姿すら見えぬ敵を倒すことなどできまい。
諦めることだな」
こちらが聞いてもないことを、べらべらと話し始める怪物。
親切心ということではないだろう。
恐らくは、こちらの絶望感をあおり楽しんでいるのだ。
それは、ギリギリと表情を歪ませていく玲児に、怪物の笑みが一段と濃くなったことからも、推測できる。
玲児はその場で屈み込むと、右腕に抱えていたプラトンの体を地面に寝かせてやった。
意識のない少年。
その小柄な体にある腹部の穴を一瞥し、玲児は再び立ち上がる。
奥歯を強く噛みしめ、表情に暗い影を落とす玲児。
全ての状況を呑み込めたわけではない。
だが確かなこともある。
その得られた事実が、彼を絶望の淵に叩きこんでいた。
いつの間にか固く閉じていた瞼。
玲児はそれを力なく開け、掠れた声で呟く。
「……そうだな……もう諦めた」
玲児のこの言葉に、怪物がひどく愉快そうに空中で跳ねた。
翼を羽ばたかせながら、弓を引くように体を僅かに後退させ、怪物が鋭い牙を剥き出しにする。
「良い心掛けだ。
安心しろ。
大人しくしていれば、痛みを感じる間もなく殺してやる」
そしてこの直後――
怪物の姿が上空から掻き消えた。
魔術『音速飛行』。
怪物曰く、音速の九十パーセントもの高速移動が可能だという。
つまりおおよそ、秒速三百メートル――大気の状態により変動するが――となる。
怪物の言葉が事実であるならば、確かに人間が感知できる速度ではない。
怪物と玲児との距離は目測で三十メートル。
計算上はコンマ一秒後には、玲児は怪物の牙に掛かり、殺されることとなる。
躱すことなどもちろん、瞬きする時間さえない。
当然、こんなことを冷静に考えている時間すら、本来はあるはずがなかった。
だがしかし――
玲児はそれら全てを瞬時に考え――
さらに高速移動する怪物に向けて――
全力で右拳を突き出していた。
「――ごばああああ!」
玲児の右拳に顔面を殴られ、怪物が庭園をバウンドしながら、噴水のプールにバシャンと飛び込んだ。
突き出した拳を静かに下し、玲児は深々と溜息を吐く。
プールに沈んでいた怪物が、ふらふらと体を揺らしながら、立ち上がる。
噴き出す水に全身を打たれながら、呼吸を荒げた怪物が困惑した声を漏らす。
「ど……どういうことだ……まさか……我の動きが……貴様には見えているのか?」
「……ああ。
どうにも、そうみてえだな」
脇に下ろした右手首をプラプラと揺らし、玲児は嘆息まじりに呟いた。
「一度目はいきなりだったんでな、反応が遅れたが……冷静に対処すれば何てことねえ。
ただ速いだけだ。
喧嘩は慣れてっからな、このていどなら幾らでも対処できるぜ?」
「馬鹿な!
さ……先程、貴様はもう諦めたと言ったではないか!
あれは偽りか!?」
「……嘘じゃねえよ。
もう……諦めた」
そう力なくぼやき、玲児は肩口から砕けた左腕を、悲しげに見下ろした。
「こんなになってんのによ……血の一滴も出やしねえんだ。
痛みだって直後はひでえもんだったが、今じゃもうそれほど感じねえ。
あの女が言っていたことを頑なに否定してきたが……さすがにこれじゃあ、俺は人間だって主張を、諦めざるを得ねえだろ?」
「……何だと?」
「つまり俺はもう死んでいて、ユリアとかいう女の守護隷だと、認めたって言ってんだ」
粘土のような質感を覗かせる、破壊された左腕の断面。
そこから視線を外し、玲児は足元に寝かしたプラトンを見た。
少年の胴体に空けられた巨大な穴。
その致命的な怪我もまた、玲児の左腕同様に、血液がこぼれる様子はなく、粘土のような質感の断面が覗いている。
少年が人間でないというのなら、この怪我でもまだ、生存しているかも知れない。
視線をプラトンから怪物に移す玲児。
全身を水に濡らした怪物――悪魔の姿を見据え、彼はただでさえ目付きの悪いその瞳を、さらに一段と凶悪に歪めた。
「最悪の気分だぜ……知らねえ間に死人になっているなんざよ。
これからテメエをボコして、少しでも留飲を下げさせてもらう。
テメエから仕掛けてきたんだ。
文句ねえだろ」
「なん……我を倒すというか!?」
「自慢じゃねえが、こちとらタイマンの喧嘩に負けたことはねえんだよ。
テメエが悪魔だか何だか知らねえが、ぶん殴れるっていうなら、俺は誰にも負ける気はねえ!」
玲児の言葉にプライドを傷つけられたのか、牙を剥きだしにして歯ぎしりする悪魔。
黒い翼を大きく左右に広げたと同時、悪魔が噴水の囲いから頭上へと跳び上がる。
「図に乗るな!
我は『十二星座』のサジタリアス!
負けることなどあるものか!」
「さっきから思っていたが、その『十二星座』って名前もクソダセエよな。
字面だけカッコ良さげなものを引っ張ってきて、ネットで英訳しただけって感じでよ」
「――殺す!」
頭上にいた悪魔の姿が掻き消える。
玲児はすぐに悪魔を迎え打とうと、腰を落として構えを取った。
だが悪魔の気配は、一直線にこちらに向かってくることなかった。
直線的な動きで行動を読まれることを嫌ったのか、玲児の周囲を悪魔がランダムに飛び回る。
周囲に鳴る空気を引き裂く音。
それに混じり、悪魔の勝ち誇った声が聞こえてくる。
「さあどうする!
幾ら我の動きを目で追えようとも、体がついていかねば何の意味もなかろう!
このまま貴様の死角へと入り込み、一撃のもと息の根を止めてくれる!」
「……そう思うなら言わずにやれよ。
そういうところもダセエってんだよ」
「――本当に殺す!」
心なしか、少し悪魔の声が涙ぐんでいるような気がした。
さすがにそれはないと思うが、もしそれが事実ならば、プラトンの理論では玲児の勝利だということになる。
そんな愚にもつかないことを考えつつ――
玲児は背後を振り返り悪魔を捉えた。
「――!?」
コンマ一秒にも満たない時間。
その限りなくゼロに近い瞬間の中で、確かに悪魔が驚愕に目を見開いた。
その悪魔の表情を見据え、玲児は聞こえるはずのない声で言ってやる。
「死角から攻撃するって宣言されてりゃ、どうとでも対処できんだよ」
悪魔の顔面に右拳を叩きつけ、そのまま悪魔を引きずるようにして、悪魔の頭部を地面に叩きつける。
石畳で舗装された庭園の地面が、火薬でも破裂したように大きく爆ぜ、砕け散る。
悪魔の肉や頭蓋が砕ける感触が、玲児の神経を伝った。
パラパラと頭上より降り注ぐ、砕けた地面の欠片。
周囲に立ち込めた土煙が、庭園を抜ける風に吹き千切られ、徐々に晴れていく。
地面に突き刺した拳をゆっくりと引き抜く玲児。
彼の足元には、首から上を失った悪魔の残骸が、横たわっていた。
「……何か勢い余って顔面を潰しちまったが、これはこれで良かったんだよな?」
「構わんよ」
何となしに呟いた独りごとに、思いがけず答えが返されて、玲児は声の出所に視線を向けた。
屋敷の玄関口に、細めた碧い瞳でこちらを眺めている、一人の少女がいる。
否。
それは少女の姿をしているだけで、その正体は齢八十を超える老人であった。
名前はユリア・シンプソン=ロクスバーグ。
死霊魔術師の降霊術により、己の寿命が尽きる前に、自身の魂を人形に封じ込め、死に長らえた狂人。
そして――
守護隷たる下陰玲児の主。
(……てことかよ。
クソったれ)
苦虫を噛み潰した顔をする玲児に、ユリアは肩をクスクスと揺らし、言葉を続ける。
「死霊魔術師に限った話では、悪魔は捕獲するのが一般的じゃ。
悪魔を捕らえることができれば、自身の配下として再利用することができるでのう。
しかし生前ならいざ知らず、わしはもう悪魔をコレクションする嗜好はない。
殺してしもうても一向に構わんよ」
「ああ、そうかよ」
ぶっきらぼうに答える玲児。
頭部の潰された悪魔の体が、風化していくようにボロボロと微細に崩れていき、十秒もしないうちに、その姿を完全に消し去った。
ユリアがクスリと上機嫌な笑みを浮かべる。
「なかなかに面白い見世物であったぞ。
まあこの程度の悪魔に苦戦などしてもろうても困るのじゃが、あまりあっさりと倒すのもエンターテイメントして不足じゃからな」
「人の命懸けの戦いを、エンターテイメント扱いすんじゃねえよ」
危険がなくなった途端に姿を現し、勝手なことをぬかすユリアに、眉尻を吊り上げる玲児。
だが彼の威嚇などまるで意にも返さず、ユリアが気楽に肩をすくめる。
「さて、これでお主の帰宅を邪魔するものは何もないが……どうするつもりかえ?
本当に家に帰るのならば、日が暮れる前にしたほうがよいぞ?」
答えが分かり切っている問いを、敢えて口にするユリア。
何と捻くれた性格だろうか。
こめかみがヒクつくのを感じながらも、意地悪い笑みを浮かべているユリアに――
玲児は溜息混じりに呟く。
「こんだけ広い屋敷なら、ちゃんと俺の部屋もあるんだよな?」
その玲児の言葉に――
ユリアは満足げに頷いた。