傍若無人の死霊魔術師2
神奈川県小田原市立花北地区。
その住宅街に建設された、日本には似つかわしくない洋館。
ユリア・シンプソン=ロクスバーグ邸。
その敷地のおおよそ半分を占める庭園は、細部に至るまで手入れが行き届いており、その美しさは誰もが息を呑むほどであった。
そして彼もまた、その美しさに魅了された一人だ。
屋敷の玄関口に立ち、美麗な庭園をその視界に映していた彼は、意識せずにポツリと言葉を漏らした。
「さすが……俺だ」
自身が口にした、自身に向けられた賛辞の言葉に、彼は満足して頷く。
この場には、彼以外の誰も存在しない。
ゆえに、彼の独り言に反応する者など誰もいないはずだった。
しかし数秒の沈黙を挟んだ後、彼は誰かに応えるように両腕を広げて天を仰ぎ見た。
「そう褒め称えるな。
確かにこの美しい庭園は、俺がいるからこそ成り立っているがな」
先も述べたように、彼の周囲には誰もおらず、彼の言葉に応えた者もいない。
だが彼にとってそれは些末な問題でしかなかった。
なぜならば彼の心内には、彼を心棒する大勢の存在がいるからだ。
その存在が、彼の一挙手一投足に感涙むせび泣き、崇拝の言葉を上げている。
彼はその存在を『神の囁き』と呼んでおり、主はその存在を――
妄想だと呼んでいる。
「ああ、分かっている。
主とて過ちはある。
俺はそれを責めたりなどしない」
誰に向けてでもなく――否。
その『神の囁き』に向けて――、呟いて、それからまたしばらく、彼は庭園を誇らしげに眺めていた。
だが唐突に、彼はピクリと眉を一度撥ねさせると、おもむろにその視線を背後の屋敷へと向けた。
彼は不満げに表情を歪めると、唇を尖らせてまたも独りで呟く。
「また主が屋敷を壊したのか?
幾ら俺が有能だからと、それに甘えすぎではないか?」
そう口にして、彼はすぐにとある事実に思い至った。
「ふむ……そう言えば、今日は新入りがくる日だったか?
時間的には、主とその新入りが話をしているはずだが……あまり穏便にことが進んでいないのかも知れんな」
やれやれと肩をすくめ、彼は溜息を吐く。
「主にも困ったものだ。
守護隷などこの俺――プラトン様一人で十分だというのに」
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「……今、何て言った?」
「やれやれ、仕方ない。
もう一度だけ言うから、よく聞いておくのじゃぞ」
ユリアがスッと碧い瞳を細める。
「お主は……わしの生き別れた息子なのじゃ」
「違うだろ!」
「おお間違えたわ。
お主がすでに死んでおるという話じゃったな」
さらりと言い直すユリアに、若干の気勢を削がれる玲児。
彼は大きく溜息を吐くと、「馬鹿馬鹿しい」と肩をすくめ、ユリアに向けて無理やりに笑みを浮かべた。
「俺が死んでる?
んじゃあテメエは、ここにいる俺を幽霊だとでも言うつもりか?」
「まさにその通りじゃ」
断言するユリア。
否定が返されると予想していた玲児は、躊躇いのない彼女の返答にむっと口を閉ざした。
ユリアが人差し指を一本立て、それをクルクルと回す。
「お主はすでに魂だけの存在であり、そこにあるお主の体は、生前の姿を模した人形に過ぎぬ。
わしが降霊術により、お主の魂をその人形に封じ込めたのじゃよ。
とどのつまり、この幼子の器に魂を封じ込めておるわしと、お主は同じ境遇にあるということじゃ」
クルクル回していた人差し指を、ビシリとこちらに突きつけてくるユリア。
彼女のその、まるで作り物のように滑らかな指先を見つめつつ、玲児は口を開く。
「……どうして見ず知らずのテメエが、俺の魂を人形に封じ込める必要がある?」
「地下の試験場でも話したが……お主にはわしの守護隷として働いてもらう」
ユリアの言葉に、「あん?」と疑問符を浮かべる玲児。
彼の高圧的なその態度を、特に気にした様子もなく、ユリアがこちらに突きつけていた指を、静かに下す。
「死霊魔術師は自身の身の回りの世話をさせるために、手足となり動かせる守護霊を、一体から複数体、所持するのが通例じゃ。
わしの守護隷であるお主には、わしに降り掛かるであろう火の粉を払う役目を、担ってもらおうと考えておる」
「降り掛かる火の粉だと?」
オウム返しに尋ねる玲児に、ユリアが何とも悩ましげに頭を振った。
「わしは生前、少しばかり無茶なことをやらかしてきてのう。
本当にごくごく一部の者から恨みを買ってしもうてな、たまに命を狙われることもある。
ベルリンでは相応の警備を敷いていたがゆえ、安全の保障がされていたが、日本に移住したわしは、今や無防備状態と言える。
ゆえにお主には、その危険からわしの命を守ってもらいたいのじゃよ」
「命を狙われるって……テメエは一体なにをしてきたっていうんだよ?」
「稚児のイタズラ程度のことじゃ。
ほとんどが逆恨みじゃよ」
気楽な調子で話して、ユリアがきらりと碧い瞳を輝かせる。
「お主の実力は、地下の試験場にて見させてもろうた。
わしが降霊術により召喚した下級悪魔を、一撃のもと打ち倒すさまをのう。
満足といえるほどではないが、わしを護衛する資格ぐらいは認めてよいと考えておる」
守られる立場だというのに、随分と恩着せがましい口調でそうのたまうユリア。
玲児としては色々と言いたいこともあったが、今は彼女に合わせて、淡々と会話を進める。
「ベルリンでの暮らしのほうが安全だったなら、どうしてわざわざ日本に越してきたんだよ。
そこに籠っていれば、俺みたいな護衛なんぞ要らなかったんじゃねえのか?」
「……それは確かにその通りじゃが、わしが求めるのは絶対的な安全ではないのじゃよ」
溜息まじりにそう呟いて、やれやれと頭を振るユリア。
背中を倒してソファの背もたれに寄り掛かると、彼女が碧い瞳で虚空を見つめて、穏やかに話をする。
「生前は行き急いでいたわしじゃが、もはやその一生を終え、今は死後生活を送るだけになった。
これまで慌ただしく生きてきたでのう、これからは詰まらぬ些事には囚われず、ゆるりと平穏に過ごしていきたいのじゃ。
ゆえに、しがらみの多い故郷を離れて、住みやすい日本に住居を移すことにした。
多少なりと危険があろうともな」
「……なるほど。
よく分かったぜ」
玲児のこの反応を受けて、ユリアが「それは大義なことじゃ」と満足げに頷く。
彼がユリアの言葉を信じて、納得したものだと彼女は考えたのだろう。
だがそうではない。
玲児は鋭く瞳を尖らせると、敵意を剥き出しにして言葉を続けた。
「テメエとは、まともに話もできねえってことが、よく分かった。
黙って聞いてれば、俺がすでに死んでいるだの、命を狙われているだの、大層な作り話を長々と……何が死霊魔術師で降霊術だ。
厨二病の妄言に付き合ってやるほど、俺は暇してねえんだよ」
玲児の痛烈な言葉に、きょとんと目を丸くするユリア。
しばらくの沈黙を挟んだ後に、少女がその丸くしていた瞳を半眼に細めて、呆れ口調で言う。
「なんじゃ。
これだけ説明してもまだ納得せなんだか。
頑固者を通り越して、ただの阿呆じゃのう。
わしが人間の体でないことは、お主もすでに承知しておるな。
ならばお主の常識など、もはや信に足るものではなかろう。
第一、わしの言葉が嘘偽りならば、お主が地下の試験場で体験したことは何と説明する?」
「知らねえよ。
特殊メイクだとか催眠だとかそんなんじゃねえのか?
冷静に考えれば、テメエの首やら腕やらが取れたのも、トリックの類なんだろうと思えてきたぜ」
「やれやれ、また振り出しかえ?
特殊メイクだとか催眠だとかトリックだとか、わしがなぜそんな手間暇を掛けてまで、お主を欺く必要があるというのじゃ?」
「だから知らねえよ。
だが少なくとも、死霊魔術師だとか俺が死んでいるだとか、そんな突飛な話よりは、よほどそっちのほうが信憑性あるってことだ」
自身の理屈が乱暴であることは、玲児も自覚していた。
それでもやはり、ユリアの言葉はあまりにも、常識からかけ離れている。
彼女が言うように、見ず知らずの彼女が玲児を欺く理由など思いつかない。
だが全ての物事に理由が存在するわけではないだろう。
それこそ一般人を笑いものにする、下らないテレビショーだという可能性も考えられる。
否。
これは理屈や可能性の問題ではない。
仮にユリアの発言が、非常に的を射たものであろうと、玲児はそれを認めるわけにはいかない。
認められるはずがなかった。
(俺がもう死んでいるなんて……納得できるはずがねえだろ)
歯噛みしながら、玲児はそう思う。
「疑うのならば、自身の尻の穴でも確認するがいい。
先も話したように、排泄を要さない人形に、尻の穴はない。
それを見れば、お主が人形の体であることはすぐに分かるわ」
ユリアからの指摘。
確かに自身の体を確認すれば、彼女が真実を述べているか否かの答えを、容易に知ることができるだろう。
彼女が偽りを述べていると確信しているなら、すぐにでもそれを確認して、その証拠を元に彼女を糾弾すればいい。
だがユリアからの提案を、玲児は頭を振り一蹴した。
「……くだらねえ。
んなことしなくても、俺は俺が人間であることを知ってる。
テメエの口車に乗せられて、下半身さらして赤っ恥かくなんざごめんだね」
これは体のいい言い訳であった。
本当はただ、まだそれを確認する覚悟がないだけだ。
ユリアの言葉を信じているわけではない。
だが不可解なことが立て続けに起こっていることは事実だ。
いずれ知ることであろうと、今はまだそれを先延ばしたかった。
心臓の鼓動が早まるのを感じた。
だが自身が人形ならば、心臓などないだろう。
やはりユリアの言葉は偽りなのか。
或いはその感覚自体が、幻覚に過ぎないのか。
心内で渦巻く困惑と動揺。
それを怒りの感情で無理やり抑え込み、ソファに腰掛けているユリアを鋭く見据える玲児。
彼の敵意ある視線を受け、彼女が小さく肩をすくめる。
「困ったものじゃ。
わしのようなオプションを、お主の体にもつけておけば良かったのう。
自分の首が撥ね飛べば、さしものお主も認めざるを得なかったじゃろうて」
「勝手に言ってやがれ。
とにかく、話がそれだけなら、俺は帰らせてもらうぞ」
語気を強める玲児に――
「そうか。
ならば仕方ないのう。
気をつけて帰るが良いぞ」
何ともあっさりと、ユリアはそう言った。
ユリアのその反応に、てっきり引き留められると思っていた玲児は、怪訝に眉をひそめる。
やはり彼女の言動は偽りであったのか。
その疑いを強くした時――
ユリアがおもむろに、懐から数枚のカードを取り出した。
「口で説明しても分からぬというのなら、その身に分からせるしかないからのう」
そう独りごちて、ユリアが取り出した手のひら大のカードを、無造作にテーブルに放り投げた。
ばさりと無数のカードがテーブルの上に散らばる。
テーブルに放り出されたカードは、デザインが全て統一されており、片面が無地の白色、そしてその裏面には――
円形を縁にした奇妙な文様が描かれていた。
「何だこれは?」
カードに描かれている、まるで迷路のように線の入り組んだ文様を見て、眉根を寄せる玲児。
困惑顔をする彼に、ユリアが唇の端を吊り上げて、応える。
「構成陣じゃ」
「こうせい……?」
「とどとのつまり、魂の設計図じゃよ」
そう言われたところで、玲児に理解できるはずもない。
だがそれ以上の説明をする気などないのか、ユリアが玲児から視線を外し、右腕を高く振り上げた。
そして――
バンッと力強くテーブルを叩く。
直後――
バリッ!
とカードから稲光が奔り、突風が部屋の中に吹き荒れた。
「――なっ……んだこりゃあああ!」
突然の強風にバランスを崩しつつも、テーブルにバラまかれたカードを見つめる玲児。
稲光を走らせているカードが、まるで焼け付くように赤い明滅を繰り返している。
時間にして三秒。
唐突にカードは沈黙し、部屋にまた静寂が戻る。
何が起こったのか見当もつかず、呆然と目を瞬く玲児。
立ち尽くしているその彼に、さも可笑しそうに碧い瞳を細めたユリアが、挑発的な口調で言う。
「何をボケっとしておる。
帰るのではなかったのか?」
「……テメエ、何をしやがったんだ?」
瞳を尖らせて尋ねる玲児に、ユリアがニヤリと含みのある笑みを浮かべる。
「わしの降霊術を用いて、この屋敷に無数の悪魔を放っておいた。
どれも下級悪魔でたいした力などないが、数が集まればそれなりに厄介な存在じゃぞ」
「悪魔って……そんなの――」
「無論、お主は信じぬのじゃろう?」
玲児の言葉を先読みし、ユリアが小さな肩をクイッとすくめる。
「ならば何の問題もないじゃろう?
わしが召喚した悪魔は、お主が屋敷の外に出ようとするのを阻止するが、これもまたわしの妄言に違いない。
お主は何の障害もなくただ単純に屋敷の外に出て、自分の家にスタコラと帰ればよいだけじゃよ」
「……」
「グズグズするでないわ。
わしを妄言者とするならば、躊躇うことなどなかろう」
「……そんなハッタリで、俺がビビるとでも思ってんのかよ」
玲児は大きく舌を鳴らすと、大股で部屋の扉へと近づいていく。
ニヤニヤと笑みを浮かべているユリアを横切り、彼は扉の前に立つと、若干の躊躇いを挟んだ後、右手でドアノブを掴んだ。
ドアノブを回して静かに扉を開ける。
だが――
やはり何も起こらない。
多少の安堵から玲児は息を吐き、首だけを回してユリアに振り返る。
「んじゃあな、イカれた嬢ちゃん。
もう会うこともねえだろうさ」
「うむ。
達者でのう」
あくまで余裕の態度を崩さないユリア。
玲児はふんと鼻息を吐くと、開いた扉からゆうゆうと廊下に足を踏み出した。
そして彼の全身が部屋から出た、その直後――
まるでバネが弾けるように扉が自動的に閉まり、再び玲児を部屋の中に押し戻した。
「ぐぉおおおおおお!?」
閉まる扉に押され、部屋に転がり戻る玲児。
ゴロゴロと後転を繰り返して、仰向けで停止した彼に、ソファに腰掛けているユリアが、何とも穏やかな口調で話し掛けてくる。
「おや?
もう会うこともないということじゃったが、早速出くわしてしもうたのう?」
「やかましいわ!」
ユリアの皮肉を怒声で返し、ガバリと玲児は立ち上がった。
扉を睨みつけてギリギリと歯ぎしりする玲児。
その彼に、ユリアが分かりやすい嘲りの笑みを浮かべる。
「どうした?
はよう、わしが妄言者だということを証明して見せてくれんか?」
「これからするところだ!
くそったれ!
建付けの悪い扉だ!
こんなもん――」
全力で駆け出し、玲児は扉に向けて蹴りを放った。
自身が思ったよりも、遥かに容易に蹴破られた扉が、向かいの壁に激突して廊下に横倒しになる。
「よっしゃああああ!」
勢いよく廊下に出る玲児。
左右に伸びる廊下の奥に視線を投げ、どちらに玄関があるか推測する。
左手はすぐに壁。
右手は十数メートル先にまで廊下が続いている。
向かうべきは右手だ。
そう判断して、今まさに一歩足を踏み出そうとした、その時――
突然に足元の床がせり上がり、玲児を天井へと押し上げた。
「ぬぅおおおおおおお!?」
天井にぶつかる。
そう考えた時には、すでに天井をぶち破り、二階の部屋に体を放り出されていた。
ベンベンと二階の床をバウンドする玲児。
天井の強度を考えれば、体の骨が粉々になっても良さそうだが、不思議と軽い痛みのみで、怪我はないようであった。
(体が人形だからか……いや違う!
そんなことあるはずがねえ!)
素早く体を起こし、部屋の中を見回す。
どうやらそこは寝室のようで、天蓋が設けられたキングサイズのベッドと、その周りにこれでもかと、多様な人形が飾られていた。
自身が飛び出してきた床の穴に、視線を向ける玲児。
せり上がった廊下が床の穴に蓋をしてしまっているため、その穴から一階に降りることはできそうになかった。
「くそ……と……とんでもねえカラクリ屋敷だ!
だがこんなもんに騙されねえぞ!」
自分に言い聞かせるようにそう叫び、玲児は部屋の扉に向けて、駆け出そうとした。
だが瞬間、玲児は脳裏に閃くものを感じて、咄嗟に身を後方に引いた。
頭上から走り抜けた黒い影が、玲児の鼻先を掠めて床板を踏み砕く。
「――な!?」
素早く後退して、頭上より現れた黒い影の正体を確認する。
それは――
身丈がせいぜい一メートルほどの、何とも愛らしい姿をした、クマのぬいぐるみだった。
動くはずのないクマのぬいぐるみが、踏み砕いた床板から自身の足を引き抜く。
「……どうなってやがる?」
ユリアの放った悪魔が、ぬいぐるみに憑依しているとでもいうのか。
否。
そんなことはあるはずがない。
玲児は馬鹿な考えを捨て、ぬいぐるみを鋭く見据える。
「つまんねえ小細工ばかり使いやがって!
ぶっ壊してやるから掛かって――」
その言葉の途中で、クマのぬいぐるみがパカンと口を開けて、そこに自身の腕を深くねじ込んだ。
ぽかんと目を丸くする玲児。
ぬいぐるみが口にねじ込んだ腕を、ゆっくりと引き抜く。
引き抜かれたぬいぐるみの手には――
刃渡り六十センチほどの刀が握られていた。
「んな馬鹿な!?」
玲児はそう叫びつつ、振り抜かれたぬいぐるみの白刃を、紙一重で躱していた。
ぬいぐるみの動きは俊敏で、普通なら反応すらできないはずだが、これも降霊術による――
「だから――んなわけがねえだろう!」
内心の呟きを全力で否定して、玲児はクマのぬいぐるみを蹴り上げた。
天井や床を数度バウンドして、ぬいぐるみが仰向けに転がる。
これで倒したのかは分からないが、動きだす気配もないため、玲児は素早く部屋の扉へと駆けていき、廊下に飛び出した。
廊下に出てすぐ、玲児に向かって壺やら植木鉢やらが飛来してくる。
「こなくそがああ!」
拳と蹴りを遮二無二に振るい、飛んできた壺や植木鉢を破壊する。
廊下に散乱する陶器の破片。
玲児はその欠片を踏みつけながら、廊下を全力で駆け出した。
だがその直後に、廊下に敷かれていた絨毯がめくれ上がり、彼にグルグルと巻き付いてくる。
「しゃらくせええ!」
両腕を広げて力任せに絨毯を引き千切り、また廊下を駆ける。
下り階段を見つけ、玲児は足を階段に掛けようとした。
だがその時、階段が大きく震える。
そして――
エスカレーターのように階段が動き始め、玲児を上へ上へと押し上げる。
「……地味だコラァアアアアア!」
しばらく上っていくエスカレーターに歩調を合わせていた玲児だが、特にこれ以上何も起こりそうにないので、階段を踏み抜く勢いで一階に向けて駆け出した。
仮にこれが悪魔の仕業というのなら、この階段に取り憑いた悪魔は、恐らく小心者なのだろう。
そんな愚にもつかないことを考えていると、突然脳天に重い衝撃を受けた。
ぐらりと足元が揺れるも、すぐに膝を曲げて踏ん張りを利かせる。
視線だけを動かして頭上を見上げると、頭の上に直径一メートルほどのシャンデリアが乗っかっていた。
「殺す気か――くそが!」
首を大きく振り、シャンデリアを振り落とす。
その間も、ウィンウィンと二階へと静かに上るエスカレーター。
その何とものんびりとした動きに、無性に苛立ちを覚える。
「この……階段テメエ、コラ!
ちったあこのシャンデリアを見習いやがれ!」
なぞの非難を上げて、玲児は階段を一気に駆け下りた。
その直後、廊下に掛けられていた絵画が外れ、まるでブーメランのように回転しながら迫りくる。
玲児は迫りくる絵画を冷静に観察すると、ぱっと空中で絵画を掴み取り、絵画をへし折って廊下に捨てた。
そしてすぐに、ぴょんとジャンプする。
それと同時、廊下に落とし穴が出現した。
玲児は空中で壁を蹴って、落とし穴の縁にまで移動し、着地する。
すぐに視線を巡らし玄関を確認。
左手の奥に玄関らしき扉が見えた。
床を蹴り駆け出す玲児。
廊下を駆けている間も、壺やら植木鉢やら間接照明やら、はては台所から飛んできたのか、ナイフやフォーク、包丁までも玲児に向けて飛来してきた。
だが玲児はそれを、破壊したり叩き落としたり躱したりと、駆ける速度を緩めずに対処する。
玄関まであと五メートル。
この調子ならば屋敷の外に出ることができる。
そう考えていた矢先、玲児は玄関口に立っている一つの人影に、ふと気が付いた。
それは少年であった。
見た目の年齢は、ユリアよりも幼い十歳前後。
黒い髪に黒い瞳。
服装は緑のスーツで、少年の幼い顔立ちと相まって、七五三のような印象を受けた。
その玄関口に立っている少年が、駆けてくる玲児に向けて、胸を張って声を上げる。
「貴様!
何を屋敷の中で暴れているか!
ここはこの俺、プラトン様が管理する神聖な場所だぞ!
これ以上騒ぐというのなら、この俺が自ら貴様を処分――ぐぼはああ!」
足を止められなかった玲児が、走る勢いそのままに、話の途中であった少年を蹴り飛ばす。
少年が錐もみ状に回転しながら、玄関の扉をぶち抜いて、屋敷の外に放り出された。
走る速度を緩めて、玲児は玄関から屋敷の外に出る。
玄関近くにある階段の下で、うつ伏せに少年が倒れていた。
ピクピクと痙攣している少年から視線を外し、玲児は頭上を見上げる。
青い空に浮かぶ太陽。
照り付ける光に瞳を細め、玲児は感慨深げに独りごちた。
「……勝った。
俺は勝ったんだ」
「おいいいいいいい!
俺の存在を無視するんじゃない!」
階段の下で倒れていた少年が、ガバリと起き上がり抗議の声を上げた。
その少年の反応に、玲児は「あん?」と怪訝に眉をひそめて、少年に尋ねる。
「もしかして、お前は人間なのか?
例のクマのぬいぐるみや壺や何かと違って?」
「よく分からんが、どう見てもぬいぐるみでも壺でもないだろ!
馬鹿なのか貴様!」
「んじゃあ、テメエは誰だよ?」
特に訊きたいわけでもないが、会話の流れから、少年について尋ねてしまう。
玲児の疑問に、少年が眉尻を吊り上げて、ふんと不機嫌そうに鼻息を吐く。
「無礼者の貴様なんぞに、誰が教えてやるものか。
貴様には俺の名前を知る資格もない」
「名前はプラトンだろ?」
「まさかエスパーか貴様!
本物ならば早急にサインを要求するぞ!」
「自分で言ってたじゃねえか。
名前」
なぜか興奮気味の少年――プラトンに、ひどく冷めた心地で指摘する玲児。
彼の言葉に残念そうに肩を落とすプラトンだが、ふと何か気付いたように、ポンと手を打った。
「む?
そうか。
貴様が主の話していた、新入りというわけだな。
よくよく考えてみれば、この屋敷には主と俺を除き、その新入りしかいないはず。
つまりこれは自明だ」
「……新入りってなんだよ?」
安易な推測を、回りくどく話すプラトンに、玲児はこめかみを掻きつつ――単純に痒かった――そう尋ねた。
玲児の疑問に、プラトンが腰に手を当て、居丈高に口を開く。
「もちろん主――ユリア・シンプソン=ロクスバーグ殿の守護隷としてだ。
なるほど。
守護隷となれる栄誉に喜びのあまり、屋敷を発狂がてら駆けずり回ったというところか」
「全然違う……て、あ?
てことは、テメエもあのユリアの守護隷ってことか?」
「そういうことだ。
つまりこのプラトン様は貴様の先輩にあたるということだ。
ということで、先程の非礼を詫びて、首をぐるりと一回転させてみると良いぞ」
プラトンの世迷言は無視して、玲児は先程から気になっていることを、さらに尋ねる。
「それじゃあ、あの噴水の上あたりを飛んでいる変な奴も、守護隷ってやつか?」
「……む?」
プラトンが怪訝な表情を見せる。
庭園の中心に設けられた噴水場に指先を向ける玲児。
その彼の指先を視線で追いかけ、プラトンがくるりと背後を振り返った。
玲児とプラトンの視線の先。
立派な噴水場のその頭上。
そこに――
漆黒の翼を生やした人間がいた。
否。
よく見ればそれは、人間の姿ではなかった。
黒い服に見えていたものは、全身を覆う黒い体毛であり、頭部からは捻じれた二本の角が突き出している。
腕や脚は奇妙なほど細長く、その指先には刃物のような鋭い爪が生えていた。
噴水の上を飛んでいるそれは、地下にいたヤギの頭部をした怪物に、近い雰囲気を湛えていた。
ユリア曰く、その怪物は降霊術により召喚した、下級悪魔だということだが。
「……いや、あれは俺も知らん。
誰だ?」
噴水の上で翼を羽ばたかせる怪物。
それを見上げて、訝しげに首を傾げるプラトン。
少年のその疑問に応えるように、怪物が頬まで裂けた口をゆっくりと開いた。
「……確かに感じた……死霊魔術師ユリア・シンプソン=ロクスバーグの気配……」
潰れた声でそう話した怪物が――
「ここに『悪魔狩りの魔女』がいるな」
裂けた口に笑みを浮かべた。