夢幻泡沫の悪魔1
神奈川県小田原市。
そこは、約二十万人の人口を抱える、神奈川県西部の中心的な都市であり、多くの先人によって築かれた長い歴史と文化をほこる地域だ。
小田原市は観光地としても有名であり、戦国時代で最大の城郭をほこる小田原城や、富士山が望める曽我梅の里には、県内外から集まる多くの人で毎年賑わいを見せている。
また小田原市は海と隣接しているため、海水浴などのレジャーや豊富な海の幸を堪能することができ、地元民にとっても魅力あふれる地域であった。
東京や同じ神奈川県の横浜と比べれば、そこはただの田舎町だと評価されるかも知れない。
だが日常生活を送るうえで不便を強いられることはなく、交通手段も潤沢にあるため、都心へのアクセスも容易だ。
都会の喧騒を離れて、穏やかな日々を過ごしたい願う者の移住先としては、最適とまでは言えずとも、候補としては悪くない。
そんな事前に調べた情報を、頭の中でつらつらと並べながら――
ユリア・シンプソン=ロクスバーグはその地に降り立った。
小田原市の中心地から少し離れた河津駅。
その改札を抜けて、ユリアは駅周辺をぐるりと見回した。
クルクルと首を回す彼女のその姿に、周囲の人々が目を丸くする。
不自然なまでに顔立ちの整った、金髪碧眼の美しい少女。
複雑な文様が編み込まれた派手な外套に、映画の魔法使いが着ているようなローブ。
首元や手首に無造作に巻かれている、何十カラットもの宝石が散りばめられた装飾品。
等々。
閑静なこの地域において、少女の存在はその姿からして騒々しく、場違いであった。
だが少女は、周囲からの奇異の視線をむしろ面白がるように、ニヤリと口元を曲げた。
「なるほど……一昔を彷彿とさせる景色じゃのう。
悪くないのではないか?」
そう独りごちて、ユリアは誰に向けてでもなく一人頷いた。
八十一年もの生涯を終えて、人ならざる身として迎えた死後生活。
その穏やかなる新生活を送るための地域を、彼女は世界中を旅して探していた。
世界地図に向けてダーツを投げつけて、針が刺さった地域の拡大地図に、またダーツを投げて行先を決定する。
このように彼女は、移住先の候補を適当に決めていた。
彼女は自身が幸運の持ち主だと自負している。
ゆえに、下手に情報を収集して移住先を決めるのではなく、思いがけない候補地との出会いが期待できる、この手法を選択したのだ。
神奈川県小田原市。
第一印象は上々。
だがすでに何十、何百もの候補地を回っていたユリアは、すっかりと目が肥えており、この程度の評価で心躍らせることなどない。
ユリアは満足げに頷いた後、すぐに首を傾げて、形の良い眉をしかめた。
「だがやはり、少しばかり田舎が過ぎるか?
息のつまる都心部からは離れたいと思うておるが、何だかんだとわしはシティーガールの毛があるゆえ、少々物足りんかも知れん」
高評価をつけた後、すぐにその地域の粗が見えてくる。
候補地を巡る旅では、いつもその繰り返しだ。
気紛れな旅行先としては面白いと思える地域も、長い死後生活を送ることを考えると、どうしたところで不足しているように思えてしまう。
この調子では、いつまでも移住先が決まらない。
それはユリアにも分かっていた。
だが妥協することもできない。
ユリアは悩ましく溜息を吐くと、ポリポリと頬を掻く
「とにもかくにも、周辺をぶらり散策してみるかのう。
どのような判断をするにせよ、その地域を直接この目で確認せぬことには、正しき評価を下すことなどできん」
そう言うと、ユリアは懐に手を入れて、一枚のカードを取り出した。
円形を縁にして複雑な文様が描かれた図形。
魂の設計図なる構成陣だ。
「まずはいつものように、頭上より周囲の様子を探ってみるかのう」
カードに描かれた構成陣から稲光が奔る。
そしてその直後、ユリアの脳裏に、河津駅を中心にした俯瞰図が展開された。
周辺状況を手間かけず把握するために、予め構築しておいた、魔術による効果だ。
ユリアは、構成陣が描かれたカードを懐にしまい、ふむと眉間に皺を寄せる。
「西側が少しばかり賑わっておるか。
まずはそこに向かってみるのが良いな。
しかし、魔術も便利ではあるが、毎度降霊術を用いるのは少々面倒じゃのう。
だからといって、スマートフォンなる機械は苦手ゆえ、多用は避けたい……まったく難儀なことじゃ」
適当に愚痴をこぼしながら、賑わいのある西側へと向けて歩こうと、ユリアは一歩足を踏み出した。
そしてすぐに、その出した脚をピタリと止める。
碧い瞳を鋭くさせ、ユリアは頭上を振り仰いだ。
方角は南東。
距離はおおよそ三キロ。
そこに、死霊魔術師たるユリアにとっては馴染みのある気配を感じた。
つまり悪魔だ。
ユリアは大きく肩を落とすと、深々と溜息を吐いて唇を不満に尖らせた。
「……早くも気配を悟られたか。
この程度の降霊術に反応するとは、目ざとい奴じゃ」
死霊魔術師が降霊術を用いれば、その術者特有の気配が周囲に広まる。
ユリアは生前、強大な降霊術を用いて、世界中の悪魔を狩っていた。
ゆえに、彼女特有の気配は悪魔に知られるところとなり、彼女がささやかな降霊術を用いるだけでも、その気配に釣られた悪魔が姿を現すようになってしまった。
なぜ悪魔がユリアの気配に釣られるのか。
その理由は様々である。
ユリアを殺して格を上げようとする悪魔から、ただの好奇心で勝負を挑んでくる悪魔もいる。
どちらにせよユリアは、その全ての悪魔を返り討ちにしてきた。
しかし恐怖なる感情が希薄な悪魔は、幾ら同胞が返り討ちに会おうとも、ユリアを恐れることがない。
「やれやれ……面倒じゃが致し方ない。
軽く始末してやるかのう」
だがこのような人目につくところで、悪魔を退治するわけにもいかない。
近づいてくる悪魔は、その気配から中級レベルの力を有していることが分かる。
このレベルの悪魔であれば、死霊魔術師や退魔師のように高い魔力を持たずとも、その姿が見えることもある。
下手に騒ぎを起こせば、移住先の候補地巡りの旅に支障をきたしかねない。
ユリアはそう判断すると、小走りに駅前から離れて路地へと入り込んだ。
食堂が近くにあるのか、油と生ごみの腐臭に眉をしかめつつ、人影のない路地の奥へと身を潜める。
悪魔の気配を感じてより五分。
ユリアは視線を頭上に向けた。
狭い路地の通路。
そこに無理やり押し込められたような巨大な影が、宙に浮かんでいた。
それは――
全長が二メートルほどにもなる、羽の生えた蜘蛛形の悪魔だった。
「シャシュウウウウウウ」
空気の掠れた音を鳴らす悪魔。
程度の高い悪魔は人語を介すことも多いが、どうやらこの悪魔は、力こそそれなりにあるも、知能はさほど高くないらしい。
「おびき寄せたのは正解じゃのう。
このような悪魔、人前に出ればえらいことじゃ」
少々面白味に欠けるが、手早く片を付けるべきだろう。
ユリアは構成陣の描かれた数枚のカードを懐から取り出し、悪魔に向けてそれを掲げた。
それとほぼ同時に――
悪魔がユリアに向けて迫りくる。
(てんで遅いのう)
内心で悪魔を嘲笑うと、ユリアは構成陣から魔術を放とうと、意識を集中した。
その時――彼女の体がふわりと宙に浮く。
「――ほへ?」
虚を突かれたユリアは、思わずヘンテコな声を漏らしてしまう。
背後から彼女を抱きかかえた何者かが地面を転げて、振り下された悪魔の足先を躱した。
何者かに抱えられたユリアも、その者と一緒に地面を転がされる。
その何者かがユリアを強く抱え込んでいたため、頭を地面にぶつけるなどの怪我こそなかったものの、突然起こった想定外の出来事に、ユリアは珍しく頭を少々混乱させた。
地面を転がる体が停止する。
まるでユリアを外敵から守るように、彼女の小柄な体に覆い被さっていた何者かが、その鋭い黒い瞳を悪魔に向けて、小さく舌を鳴らした。
何者かがユリアから体を離し、悪魔と対峙するようにして、ユリアの前に立つ。
「……んだよこの化物は?
俺は夢でも見てんのか……クソったれが」
まだ十代後半と思しき少年。
ボサボサの黒い髪に、凶暴に吊り上げられた黒い瞳。
服装は青のブレザーで、会社員でないのなら、恐らく学校指定の制服だと思われる。
目付きの悪い少年が、後ろ目にユリアを睨みつけ、口早に言葉を投げる。
「テメエ、ガキんちょ!
いつまでも寝てねえで、さっさと逃げやがれ!」
ユリアは優れた頭脳の持ち主だ。
大抵のことならば、常人よりも数手から数十手ほど、思考を先行させることができる。
だがこの時ばかりは、ユリアは少年が何を話しているのか、まるで理解できなかった。
鈍重な思考を懸命に動かして、ユリアはこちらを睨みつけている少年の意図を探る。
(まさか……この者……)
自分を助けようとでもしているのか。
(このわしを――?)
この死霊魔術師の天才にして、今まで誰の助けも必要としてこなかった――
(ユリア・シンプソン=ロクスバーグを?)
それは彼女にとって――
生涯を通じて初めての経験だった。
ユリアは上体だけを起こすと、地面に尻をつけたまま、ぼんやりと呟く。
「……お主……こんな路地で何をしておるのじゃ?」
助けられることに慣れていないがゆえ、つい間の抜けたことを尋ねるユリア。
そんな彼女の態度が癇に障ったのか、「はあ!?」と少年が苛立たしげに声を荒げる。
「んなこと、どうでもいいだろうが!
難癖付けてきた野郎を、この近くでボコしていただけだ!
そんなことよりも、さっさと失せろってんだ!
化物に殺されるぞ!」
口こそ悪いが、少年が自分を助けようとしていることは、どうやら間違いないらしい。
ユリアはようやくその事実を受け止め、僅かに冷静さを取り戻した。
「あ……阿呆かお主!
逃げるのはお主の方じゃ!
さっさと消え失せい!」
まさかユリアから反論が返るとは思っていなかったのだろう。
少年が黒い瞳をきょとんと丸めた。
だがすぐに、その丸くした瞳を再び尖らせ、少年がユリアに唾を飛ばす。
「何を強がってやがるんだ、ガキが!
腰ぬかして逃げることもできねえくせして、大層な口を叩いてんじゃねえ!
んなことしている暇あるなら、這ってでも逃げろ、馬鹿!」
「馬鹿はお主じゃ!
誰も腰など抜かしとらん!
少し呆けていただけじゃ!
お主こそさっきから声が震えておるぞ!
ビビっておるのか!?
この腑抜けが!」
「誰がビビってるってんだ!
自慢じゃねえが喧嘩で負けたことなんてねえんだよ!」
「ほんに自慢にもならんな!
悪魔と人間の喧嘩を一緒にするでない!」
「悪魔って何だ!
厨二病かテメエは!?」
「その怪物のことじゃ!
たわけ者が!」
助けにきた少年と罵り合うユリア。
こんなこと自体、彼女にとっては珍しいことだ。
普段の彼女ならば、常に相手を手玉に取り、自分優位に言いくるめることができる。
少年に罵詈雑言を浴びせつつ、ユリアはやはりまだ、自分が動揺していることを悟った。
その時――
「シャウアアアアアアア!」
悪魔が一声鳴き、少年の頭上を跳び越えてユリアの背後に回り込んだ。
ただの人間に過ぎない少年が、悪魔の脅威になどなるわけがない。
ゆえに少年よりもまず先に、自身にとって危険なユリアから始末しようと、本能的に考えたのだろう。
(それは――わしとしても都合が良いわ!)
少年が目の前にいては、魔術での攻撃が制限される。
むろんそれでも、この程度の悪魔に敗北するようなことはないが、少年の存在が邪魔であることに変わりない。
ユリアの背後に回り込んだ悪魔が、再び鋭い足先を振りかぶり迫ってくる。
ユリアは、無知な少年に見せつけるように、手にしたカードを頭上に掲げる――はずだった。
だがユリアのその手には、先程まで持っていたはずのカードがなかった。
(――!?)
咄嗟に足元に視線を落とす。
強力な魔術が収められた構成陣。
その文様が描かれたカードが、地面に散らばっていた。
先程、少年に抱えられて地面を転がった際に、不覚にもカードを落としてしまったのだろう。
それを今になって気が付くとは――
(つくづく――らしくない!)
だがまだ絶望的でもない。
一見して少女の姿をしたユリアだが、その体はユリアの魂を封じ込めただけの、人形に過ぎない。
粉微塵になるならばともかく、悪魔の一撃ぐらいならば、耐えられるはずだ。
(仕方ない……一撃ぐらいはくれてやる。
だが後に、地獄の苦痛を味あわせてやるぞ)
鋭い足先を突き出す悪魔。
地面に尻もちを付けたままの彼女では、悪魔の攻撃を躱すことはできない。
彼女は訪れるだろう痛みを堪えるため、奥歯を噛みしめた。
そして次の瞬間――
悪魔の鋭い足先は、ユリアの前に回り込んだ少年の腹部を、無残に貫いていた。
「――がぁ……」
悪魔に腹部を抉られた少年が、その口から大量の血を吐き出す。
少年の背中から突き出した悪魔の足先。
少年の血に濡れたその鋭利な刃物を、ユリアは呆然と見つめる。
「……な……なに……を?」
声が掠れて上手く話せなかった。
生前、ユリアは死霊魔術師として、多くの悪魔を狩ってきた。
その際に、共にいた死霊魔術師や、戦いに巻き込まれた一般人など、多くの怪我人、或いは死人を目にしてきた。
彼女にとって血など見慣れたものであり、今更、動揺することなどないはずだった。
だがしかし、ユリアは悪魔の足先から滴る少年の血に、表情を強張らせていた。
眼球を焼く鮮やかな赤い色。
鼻腔を抜けていく癇に障る臭い。
それらが脳裏に染み込み、激しく感情を揺さぶる。
彼女は息を吸うのも忘れて、少年の背中を呆然と眺めていた。
ユリア・シンプソン=ロクスバーグ。
悪魔や退魔師、果ては死霊魔術師にまで、恐れられている女性。
悪魔にとっての悪魔。
退魔師にとっての仇敵。
死霊魔術師とっての汚点。
狂気の死霊魔術師。
そんな自分が、見ず知らずの人間が流した血に、どうしてこうも動揺するのか。
まるで世間知らずな生娘のように、どうして表情を強張らせ、身動きができないでいるのか。
彼女はその理由を――ようやく理解した。
彼女は多くの流された血を見てきた。
だが彼女はただの一度も――
自分のために流された血を見たことがない。
ユリアの魂を封じ込めた人形の体。
その見た目通りの少女であるかのように、彼女は悪魔を目の前にして、体を竦ませていた。
細かく揺れるユリアの視界。
その中で――
少年が震える拳を持ち上げた。
「――く……そがあああああ!」
少年が拳を振りかぶり――
素手で悪魔を殴りつけた。
「――な!?」
少年の暴挙に、ユリアは声を詰まらせた。
悪魔を素手でただ殴りつけるなど、聞いたこともない。
そもそも、致命傷を負った体で反撃しようなどと、普通は考えないだろう。
少年の拳に殴られた悪魔が、その巨体を強かに後方に転がした。
たかだか人間に殴られただけで、悪魔がこれほど無様に転がされるなど、まるで信じられない。
喧嘩は負けなしだと威張り散らしていたが、どうやらただのほら吹きではなかったらしい。
だが――
「――っ」
少年が膝を崩して前のめりに倒れる。
少年の腹部から背中にまで貫通した傷口。
悪魔を殴りつけたことで、栓の役割をしていた悪魔の足が腹部から抜け、傷口から大量の血液がこぼれ出る。
うつ伏せに倒れている少年の体が、徐々に血溜まりに沈んでいく。
赤い血に濡れた少年の顔。
その少年の、前髪の隙間から覗き見える、黒い瞳には――
もはや光が灯されていなかった。
少年に殴られた悪魔が、何事もなかったように立ち上がる。
幾ら少年が強くとも、魔力を持たない人間では、魂だけの悪魔にダメージを与えることはできない。
だが少年の反撃に気分を害したのか、悪魔が凶暴な眼光を輝かせ、身動きのない少年を睨みつけた。
そして――
「……その者に近寄るでない」
地面や壁から、光により編み込まれた無数の鎖が生え、悪魔の全身を拘束した。
「――!?」
声なく疑問符を浮かべる悪魔。
動揺する悪魔を碧い瞳で睨みつけながら、ユリアは立ち上がった。
彼女の手には、先程地面から拾い上げておいた、一枚のカードがある。
そのカードに描かれている構成陣が、稲光を奔らせながら、赤い輝きを放っていた。
「あまり図に乗るな。
三下の悪魔風情が」
ギリギリと悪魔の体を締め付ける光の鎖。
その拘束を逃れようとしているのか、全身を細かく震わせる悪魔。
だが鎖は千切れるどころか、僅かに緩まる気配すらない。
「――失せろ」
ユリアが碧い瞳を冷酷に細める。
悪魔を締め付けていた鎖がキシリと鳴り――
悪魔の体を締め千切った。
宙に舞った悪魔の欠片が、霧散して消失していく。
ユリアはそれを見届けると、手にしていたカードを懐にしまい、うつ伏せに倒れている少年を見下ろした。
自分の流した大量に血に、体を浸している少年。
彼がすでに絶命していることは間違いない。
ユリアはそれを理解しながらも、聞こえないはずの少年に向けて――
穏やかな声音で話し掛けた。
「常に決め手に欠けていた、移住先を探す旅路であったが……わしは決めたぞ」
当然、少年から返答はない。
だがユリアは、まるで少年から返事を受けたように――
「わしはお主と共に、この街で暮らそう」
優しく微笑んだ。




