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プロローグ


 彼が目を覚ました時、辺りは薄暗い闇に包まれていた。

 彼は一度開いた瞼を閉じ、数秒後に再び開く。

 だがやはり、視界を塗りつぶす薄闇が晴れることはない。


 検討すべきことは山ほどある。

 彼はそれを順番に脳裏に浮かべ、消化していく。


 まず初めに状況把握だ。

 自身の態勢。

 背中に触れる硬質で冷たい感触。

 腹部から背中に掛けて抜ける重力。

 どうやら自分は今、硬い床――恐らくコンクリート――の上に、仰向けに寝かされているようだ。

 それを彼は冷静に認識した。


 次に彼は、薄闇の中で視線を動かし、周囲を観察した。

 つなぎ目のない灰色の壁に覆われた、面白味のない直方体の部屋。

 天井は高く、おおよそ四メートル。

 左右前後の壁までは、おおよそ十メートル。

 つまり自分は今、一辺が二十メートルの部屋の中心に寝ていることになる。

 彼はそこまで考えた後、腹筋に力を入れて静かに上体を起こした。


 ぐにゃりと視界が歪む。

 彼は頭を振り眩暈を払うと、内心で確認する。


 名前は――下陰(しもかげ)玲児(れいじ)


 年齢は――十七歳。


 職業は――県立宮良美(みやらび)高等学校二年生。


 自己認識を終えて、ようやく思考が回転を始める。

 彼――玲児は大きく溜息を吐くと、ボサボサの黒髪を荒々しく掻いた。

 再び視線を周囲に巡らせ、誰ともなく呟く。


「……どこだよ、ここは?」


 眠気が覚めて明瞭となった意識。

 だがどうして、自分がこのような場所で眠っているのか、思い出すことができない。

 まるで虫食いにでもあったかのように、意識を失う直前の記憶が、すっぽりと抜け落ちていたのだ。


 玲児は軽く舌打ちをすると、記憶を探ることを諦めて、ゆっくりと立ち上がった。

 冷ややかな薄闇が沈殿した部屋。

 その中心に佇み、彼は自身の恰好を見下ろす。


 薄手のシャツとズボン。

 薄闇の中で判別しづらいが、色は煤けた灰色をしている。

 自身が着ている、何とも味気ない簡素な服装に、眉根を寄せる玲児。

 ファッションになど興味のない彼であるが、これほど特徴のない服を好んで着ることはない。


「まるで囚人じゃねえか」


 あるいは――奴隷か?


 そんなことを考えていると――


 突如として前方の闇がうごめいた。


 玲児は下ろしていた視線を上げ、前方を見据えた。

 薄闇に浮かび上がる一際濃い闇。

 その闇の存在には先程から気付いていた。

 だが彼はそれを、部屋の天井を支える柱か何かだと考えていた。

 少なくとも()()()ではない。

 なぜならその影は――


 四メートルもの天井に、その背丈を届かせているのだから。


 これほど巨大な動物を、日常生活で見ることは少ない。

 だからこそ彼は、その濃い影を動物ではない、何かしらの無機物(オブジェ)だと捉えていた。

 だがその玲児の推測を否定するように、再び彼の目の前で、その濃い影が身動ぎをした。


 玲児は息を呑み、濃い影を注視した。

 濃い影が三度その輪郭を揺らす。

 不思議と物音は聞こえない。

 だがその影は間違いなく、こちらへと接近してくるようであった。


 濃い影がまた一歩、近づいてくる。

 部屋に湛えられた薄闇。

 闇に隠されていたその影の姿が、徐々に顕わとなっていく。

 目を大きく剥く玲児。

 その濃い影の正体は――


 巨大な()()であった。


「……んだよ、これは?」


 呆然と呟く。


 四メートルもの高い天井。

 人間のように二本の足で立っている怪物の頭部が、その天井のスレスレにまで、高度を届かせていた。

 縦に伸びた頭に、捻じれた対の太い角。

 頭部の側面にある赤く丸い瞳が、薄闇の中で怪しく明滅している。


 その怪物の頭部は、一見してヤギに酷似していた。

 だが怪物の口元から覗く歯は、草食動物のヤギとは異なる、肉食動物のような獰猛な牙であった。


 生命を捕食することを旨とする、蹂躙者に与えられる武器。


 怪物の首から下の姿形は、人間と近しいものであった。

 まるで鎧のように、全身が分厚い闇色の毛に覆われている。

 そして窮屈そうに丸めた、その怪物の背中には――


 蝙蝠に似た漆黒の翼が生えていた。


「ブゥオオオオ!」


 牙が覗いた怪物の口から、部屋全体を震わせるような重低音がこぼれる。

 肌が粟立つのを意識しつつ、玲児は止めていた息を慎重に吐き出した。

 この怪物が何者であるかなど、分かりようもない。

 だが彼は、その怪物の存在を()()()()()()()()()()


 それはネットで得た知識だった。

 それは漫画や小説で得た知識だった。

 空想の中でのみ存在する虚像。

 昔の人間が妄想で描き上げたフィクション。


 怪物の姿はあまりにも――


「……悪魔?」


 そう思わず口を突いてしまうものであった。


 怪物の赤い瞳が玲児に向けられる。

 瞬間、全身に冷水を流し込まれたように、彼の体が震えた。

 怪物から感じられる絶対的な存在感に、否応なく恐怖を掻き立てられる。


 あり得ることではない。

 だが認めざるを得なかった。

 この怪物は、幻覚の類などでは決してない。

 目の前に確かに実在する――


 紛れもない脅威だ。


 怪物が手を振り上げる。

 何をするつもりなのか。

 それは怪物の赤い瞳を見れば、一目瞭然であった。

 怪物はその巨大な手のひらを、こちらに叩きつけるつもりなのだろう。


 だが玲児は、それを理解してなお動くことができなかった。

 悲鳴さえ喉に詰まり上げられない。

 あり得ない現実を前にして、彼の体と思考は完全に、硬直していた。


 怪物が腕を振り下す。

 頭上より迫りくる怪物の手のひら。

 その岩のような怪物の手に、彼は反射的に頭部を両腕で防御した。

 だが玲児は、それが何の意味もなさないことを、理解していた。

 人間の体など容易に圧し潰す。

 それほどの威圧感を、振り下された怪物の手からは、確かに感じられたからだ。


 防御した腕に、怪物の手のひらが打ちつけられる。

 直後、衝撃が玲児の体を突き抜け、足元の床を粉々に打ち砕いた。

 宙を舞う破砕した床の欠片。

 当然、コンクリートよりも柔な人間の体が、その衝撃を受けて無事で済むはずもない。

 そのはずだが――


「……あん?」


 玲児はきょとんと目を丸くする。

 床を粉々に打ち砕くほどの強烈な一撃。

 人間では耐え得るはずのないその衝撃を、玲児はまともに受けたはずだ。

 だがそれにも拘わらず、彼は奇跡的にも絶命を免れていた。

 というより――


 怪物の攻撃を受け止めた腕が、少々痺れた程度で、痛みさえあまり感じない。


「……どうなって――うげっ!?」


 困惑している玲児に、再び怪物の手のひらが打ち下ろされる。

 今度こそ、ぺしゃんこに潰される。

 玲児はそんな、したくもない覚悟をした。

 玲児の防御した腕に、怪物の手のひらが叩きつけられる。

 身体を抜けた衝撃が、足元の床をさらに微細に砕いた。


 だがやはり、玲児はその衝撃に圧し潰されることもなく、怪物の手のひらを受け止め立っている。

 その事実に呆然とする玲児。

 怪物が手加減しているのか。

 そう一度は考えるも、血管を浮き上がらせた怪物の形相を見る限り、そうとも思えない。


 幾度も腕を振り上げ、手のひらを叩きつけてくる怪物。

 こちらを必死に圧し潰そうとする怪物だが、玲児はまるで赤子が駄々をこねている程度の、力しか感じなかった。

 徐々に玲児の中で、怪物に対する恐怖が薄れていく。

 そしてそれに代わり――


 怒りがふつふつと込み上げてきた。


「……んだあ?

 テメエ、図体ばかりでかいだけの見掛け倒しかよ?」


「ブゥウウ!」


「ふっざけんじゃねえぞコラ!

 ビビッて損しちまったじゃねえか、ああ!?」


「ブゥウオオオオオオオ!」


 玲児の激昂に応えるように、またも怪物が腕を大きく振り上げ、こちらに叩きつけてくる。

 玲児は頭部を守っていた腕を下すと、頭上から振り下される怪物の手のひら目掛けて、拳を鋭く振るった。

 怪物の手のひらに玲児の拳が突き刺さり――


 あっけなく怪物の腕が千切れ飛ぶ。


「ブィオオオオオオ!」


 痛みを感じたのか、怪物が悲鳴のような甲高い声で鳴く。

 玲児は舌を鳴らすと、ぐっと膝を曲げて、跳び上がった。

 四メートルもの高さにある怪物の頭部にまで、玲児の体が浮かび上がる。

 通常ではあり得ない跳躍力。

 しかし不思議と玲児は――


 今の自分にはそれができると確信していた。


「くたばれやあああああ!」


 ヤギに酷似した怪物の頭部に、拳を全力で振り下す。

 怪物の顔が大きく歪み、蛇腹が折りたたまれていくように、怪物の体がグシャリと気色悪い音を立てて潰された。


 怪物の体を抜けた衝撃が、床を叩いて弾ける。

 粉々に砕け散るコンクリート。

 その威力たるは、怪物の攻撃によるものより、はるかに強大であった。


 玲児は跳躍から着地すると、ふんと鼻から息を吐き、怪物を見下ろした。

 全身を縦に潰されて沈黙する怪物。

 しばらく様子を見るも、怪物が動き出す気配は見られなかった。


 怪物の赤い瞳から目を逸らし、玲児は自身の手のひらを見下ろした。

 当然のように怪物を殴り倒したわけだが、自身の身体能力を鑑みるに、それが可能だとは思えない。


 というより、()()()()()だとは思えない。


「なんだコレは?

 まさかベタベタに夢オチってわけじゃねえだろうな?」


 そう独り呟いていると――


「まあ……及第点と言ったところじゃのう」


 軽い調子で呟かれる声が聞こえてきた。


 声の出所に視線を向ける。

 部屋に湛えられた薄闇。

 その闇に浸されるように――


 一人の少女が立っていた。


 見た目の年齢は十代半ば。

 薄闇の中でも分かるほどに白くて滑らかな肌に、縦巻きにされた長い金髪。

 目尻の吊り上がった碧い瞳に、白い肌に映える桜色の唇。

 不自然なほど顔立ちが整っており、まるで精巧に造られた人形を眺めているような、奇妙な気分であった。


 服装は珍妙なもので、一言で表すのなら映画などに出てくる、()()使()()然としたものであった。

 細やかな刺繍が施された、フード付きの紺色の外套に、これまた奇妙な文様が編み込まれた薄緑のローブ。

 首元や手首には、煌びやかな装飾品が飾られており、少女の身動ぎに合わせて、ジャラジャラと耳障りな音を立てていた。


「……何だ、お前は?」


 突然に現れた奇妙なその少女に、訝しげに眉をひそめる玲児。

 珍獣でも眺めるような心地でいると、彼の態度を不満に思ってか、少女が小さく頭を振った。


「口の利き方を知らん小僧じゃ。

 まあその辺りも、おいおい矯正してやればよいかのう」


「あ?」


 自身より年下と思しき少女に、小僧呼ばわりされ、玲児は苛立たしく瞳を尖らせた。

 だが彼の睨みに一切怯む様子なく、少女が淀みない所作で、自身の胸に手を当てる。


「わしの名前はユリア・シンプソン=ロクスバーグ。

 よく覚えておくがいい」


 自身の胸に当てていた手を離し、少女がその指先を玲児に向ける。

 そして――


「お主は今日から、()()()()()たるわしの、()()()となるのじゃからな」


 少女が可愛らしくウィンクした。


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