いつまで
雨の日が嫌いで、でも晴れの日だって好ましくなく、曇りをいい天気だと呟くみたいな、そんな澤村愛が好きだ。惚れた腫れた的なものじゃない。けど、このまま過ごしていけばそこまでに発展するんじゃないかと思う。
愛を愛するってなかなかの洒落じゃないかと考えた国語の授業。メロスが川の氾濫に激おこだ。正義感が強すぎれば上手く生きられない。辟易としながらも授業は続くし、澤村愛は居眠りをしている。
あとごふん。彼女の唇が紡いだそれは寝言なのか、ギリギリ寝言ではないのか。判別出来ずに彼女の顔ばかり見ている。授業はあとごふんだ。願わくばこのまま、誰も気付きませんようにと。授業がもう少し続くならと思った。生まれて初めて。
鐘が鳴ったと同時に彼女は目を開いて、本当に寝ていたのかと疑問に思う。女性は眠りが浅いというが、澤村愛はむしろ、睡眠を貪るようなタイプに見える。これは悪口じゃない。推測である。
がやがやと騒がしいこの教室内で、自席に留まっているのはどうやら、俺と澤村愛だけだった。澤村愛はまっすぐに俺を見つめて、口を開けた。
「恥の多い人生を送ってきました」
鼓膜を揺する、無用の緊張を強いるような彼女の声は、冷たい手で心臓を握られていると錯覚するほど、冷ややかで苦しかった。
「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
まるで海の底の底みたいな、この銀河系の果てのような目をしている。そのまなこは何を想い、感じているのか。知ったところで教えてもらったところで、理解出来ないことは想定内だ。彼女の頭の中を覗いてみたいけど、到底叶うはずもない。ボブギャラリーが違うから、俺も辞書を読んだ方がいいのか、真面目に考えたこともある。
「誰の本だと思う?」
瞳の奥の冷えが消えて、いつもよりかにこやかな無表情が訪れる。無表情だ。無表情に変わりはない。
「……太宰だろ」
「そう、太宰治の、」
人間失格。昔、カッコつけて読もうとしたけど、言い回しというか内容というか、中2が読むような本ではなかった。精神を病みそうな、鬱々しい主人公の心情。が、伺えるところまでは読んでいない。冒頭で我慢ができなくなって、その日のうちに図書室へ返してしまった。何故か中途半端な吐き気が止まらなくて、脳に直接なにかを言われているような、簡単に言えば気持ちが悪い、なにか。盛り上がりというか、なんの起伏もなく淡々とした語り口が、ぞわりと肌を撫でていく。
「あと、葉っていう本。読んだことは?」
珍しく澤村愛は微笑んでいて、その微笑みはどこか神聖だった。無表情をやめれば、彼女はきっと注目の的だろうに。友達だって、恋人にだって、困りはしないと思うのに。なのに俺は、恐怖を煽るまでに穏やかなそれをできるだけ見たくない。
「……知らない」
いたたまれなくて目を逸らす。彼女は──澤村愛は、笑ったのだろうか?
「──死のうと思っていた」
まるで唄うように、彼女は。
「今年の正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう」
目を閉じ、すらすらと滑らかに唇が動く。上唇と下唇の隙間から、言葉を形成し、脳味噌へと浸透させる。ただひたすらに静かだ。教室は騒がしいことこの上ない癖に、俺と澤村愛との周りだけは、静寂に包まれている。
「夏まで生きていようと思った──」
その葉という本の、どこかの文なのだろう。薄く笑いながら最後の一文を声に出す澤村愛は、なにかを伝えたそうに瞳を開く。ねじきれるような、痛々しく哀しそうなその瞳の奥に、隠された想いが知りたい。その想いが的確に表せるような言葉が欲しい。
愛が与えられない赤ん坊は死んでしまう。これも彼女が言っていた。この世でいちばん居心地がいいのは、母親の胎内の中だと言っていたのも。苦しみも悲しみだって知らず、ただひたすらに愛されて、存在を渇望されている存在は赤ん坊くらいだ。そう吐き捨てるように語った澤村愛に、疎外感を感じた。彼女のそういう感情を、俺は、朝日由宇でさえも、理解してあげられないのだと気付いてしまった。
「……死にてぇの?」
ゆるく首を振る彼女は。