正義に優るもの
私の身柄は、最寄りの警察署に移されていた。
先程から行われている、警察による取り調べで、私は三種類の言葉をひたすら繰り返していた。
「私は、絶対に、やっていません。」
「(なぜ、痴漢犯にされてしまったのか)解りません。」
「弁護士を呼んで下さい。」
警察官は、(犯罪の実行を認めさせるべく)入口を変えて、同様の質問を何度もしてきた。時には、勤務先・家庭環境等の私の個人情報から、私へ感情面での揺さぶりも掛けてきた。
‥が、彼らにとっての進展はなかった。
程なくして、私は勾留部屋に移された。
一人になった事で、私は改めて、自分に降りかかったこの絶望的な危機に対して、多少、冷静になって考える時間が持てた。
まず、小林友子は何故、私を痴漢に仕立て上げたのか?
これについては、何となく推測できる。
恐らくは、例のご婦人の定期預金証書紛失の件に、小林が何らかの意図を持って関与しているのだろう。
それについて、既に私が把握していると思い込んだ彼女が、咄嗟に自己防衛の手段として、一か八かの行動で私を排除しようとした。‥‥そんな所だろう。
だが、解らないのは、何故、青木正義が私が痴漢を行ったと、嘘の証言をしたのかだ。
彼がいた、あの位置からだったら、私の動きは十分確認できた筈だ。(見間違いなど、起きる距離・角度などてはないのだ。)
(『あの位置』?‥)
私は、不意に違和感を感じ、そして、その違和感の原因に気付き、ギクリッとした。
(そもそも、青木正義は、何故あの位置に、いや、それ以前に、何故あの電車にいたのだ?)
あの電車は、上りの新宿行きだ。私や小林友子が勤務地の町田へ行く為に乗車しているのは、当然である。しかし、青木正義の住まい(玉川学園)が彼の勤務地である町田より、新宿寄りにある事を考えると、彼が乗るのは、下り電車でなければおかしいのだ。‥‥私は、はっとした。
そう言えば、私が座席をご婦人に譲らなかった事で、彼に辱めを受けたあの時も、彼は、今日と同じ上りの電車に乗っていた。
‥そして、その電車にも小林友子が乗っていた。
私は、自分が知りうる、彼の全ての行動を振り返り、そして熟考した。‥‥やがて、一つの結論にたどり着いた。
(なんて事だ‥。彼は正義の人なんかじゃない。)
(青木正義は、小林友子に一方的な思いを寄せる、ストーカーだったんだ。)
以下が私の仮説である。
最初、口座を開設する為に来店した時、窓口にいた小林友子に彼は一目惚れした。その彼女がクレーマーの口撃対象となった。彼女を助けるべく、彼はクレーマー撃退へ行動を起こした。あの帰り際の会釈も、恐らくは彼女に向けたものだった訳だ。
その後、青木正義は、何らかの方法で、彼女が南林間に住んでいる事を突き止めた。(もしかしたら、彼女の帰り道を尾行したのかもしれない。)
2度目に来店したあの日も、恐らく小林友子を尾行していたのだろう。その途中の電車の中で、妊婦を擁護し、私を注意する事で、自分の正義感をアピールし、株を上げようとしたのかもしれない。(勿論、純粋な親切かもしれないのだが‥。)
そして、小林友子と会話をする為に来店した彼は、為替ボードを見るふりをして、彼女がいる場所を確認した。
彼女が資産運用相談窓口を担当している事を知った青木正義は、その番号札を取り、そして運用相談という名目の元に、彼女との会話時間をたっぷりと満喫したという訳だ。
3度目の出会いとなった、あのテニスのオフ会ですら、場所が小林友子の自宅がある南林間であった事を考えると、単なる偶然とは思えない。自宅にいた彼女を尾けるまでの、時間調整だったのかもしれない。
そして、今日の電車での行動だ。
青木正義には、私が痴漢などしていない事が解っていた筈だ。(もし、そんな所を彼が目撃したら、彼自身が、すぐに私の手を掴み告発していたに決まっている。)
しかし、彼女の表情からその窮地を悟った彼は、嘘と解っている彼女の告発の証人役を買って出たのである。
この仮説で、一応の筋は通る。
もっとも、自分が窮地に立った原因が解ったからといって、事態が好転する訳ではない。
とりあえずは、体を休めて弁護士からの連絡が入るのを待つ事にした。
(きっと、店では、大騒ぎだろうなぁ‥。)
(恵も心配してるだろうなぁ‥。)
弁護士が来る事は無かった‥。
私が釈放されたからである。
小林友子が、痴漢の訴えを取り下げたのだ。
警察から聞いた、ことの詳細は以外の通りだ。
小林友子の兄が、投資詐欺に引っかかり、顧客から預かっている資金に大きな損失を発生させてしまった。顧客の信用を失わない為には、発覚前に自己資金で補填する必要があったが、その額は少なくとも数千万円であり、自己資金で賄える金額では無かった。妹に金の工面を頼んだという事は無かったようだが、兄の置かれた状況を察した小林友子は、何とか出来ないか思案した。
自分の預金だけでは到底足りず、顧客の預金を一時的に借用しようと考えた。但し、彼女自身、いざ預金証書を手にしたが、その着服には踏ん切りがつかないでいた。そして今日、自らの所業が発覚したと思い込み、突発的に自分の上司を痴漢犯に陥れてしまった後、自責の念に駆られ、先程出頭してきたという訳である。
結果的に、彼女の正義感によって、私は救われた。
警察署の外に出ると、外はもう夕暮れ時になっていた。
家路に着いた私は、考えを巡らせた。
小林友子も、青木正義も、各々が自分の正義を有していた。事実、テニスでフットフォルトの判定を貫いたのは、彼の正義なのかもしれないし、痴漢の証言を取り下げたのは、彼女の正義に他ならないだろう。
しかし、2人共その正義を踏み越えてまで、今回の行動を起こした。それは、自分にとっての守るべき大切な人の為である。
きっと、世の中の人は、それぞれが自分なりに正義を理解し、それに則って行動すべきだと考えている。だが、大切な人の危機を救う意思の前には、決して高い壁とは成り得ないのかもしれない。
(今回の件で、昇進も遅れちゃうな‥。)
(恵も怒ってるだろうなぁ‥。)
気持ちに余裕が、少し出来たせいか、現実的で小さい心配事が頭に浮かんできた。
家の前まで来ると、恵が待っていた。
私が目の前までたどり着くと、私が謝るより先に、彼女が抱きついてきた。
「だから、気をつけなきゃ駄目だって言ったでしょ‥。」
目には涙を浮かべていた。
「ごめん‥。」
いつもより愛おしい彼女の頭を撫でながら、私は思った‥。
(こいつが危機になったら、やっぱり俺も壁を超えてしまうんだろうな‥。)
おわり
初めて書いた小説、どうにか書き切りました。つたない文章力ではありますが、是非、感想を聞かせて下さい。
また、実際に銀行にお勤めの方が読んだら、様々な相違点の御指摘があると思いますが、筆者の知識不足とご容赦下さい。
読んでくれる方がいるなら、また別の作品も書いてみたいと思っています。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。