2度目の出会い
『青木正義』、彼が私にとっての正義の味方ではないという事は、それから僅か2週間後に判明した。
東京にも梅雨明け宣言が出て、クールビズというエコ活動の名目のもと、今日からはノーネクタイで出勤となった初日の朝の出来事だ、
小田急線の東林間駅が自宅の最寄り駅である私は、いつもと同じ7時40分発の小田急線各駅停車の新宿行きに乗車した。
前日が支店の飲み会で、帰宅が遅くなり、睡眠不足気味だった私は、前日の疲労感を残したまま吊革にいつもの倍の体重をかけて立っていた。
次の相模大野駅に停車した時の事だ。幸運にも、私の真ん前の御婦人が、乗り換えなのか、席から立ち上がり下車したのだ。
あと1駅ではあるが、少しでも休みたかった私は、迷う事無くその空いたスペースに腰を下ろした。
その時だった。
「ちょっと、貴方。」
少し前に、聞いた覚えがある台詞、同じ声が私に向かって発せられた。顔を上げ、声の主を見ると、あの『青木正義』が立っていた。
なぜ、自分に声が掛けられたのか分からず、ぼっーとした表情をしていただろう私に、彼は続けた。
「目の前のご婦人が目に入らないのですか?」
彼の指摘を受け、目線を移すと、私の右斜め前には30代前半とおぼしき女性が‥いや、彼女の着ているのはマタニティドレスで、お腹のあたりは服の上からでも容易にそれと分かる、十分な丸味を帯びており‥。
そう、妊婦が立っていたのだった。
「失礼しました。どうぞ、お座り下さい。」
私は、慌てて立ち上がり、ご婦人に席を勧めたが、
「いえいえ、大丈夫ですから‥。」と遠慮されてしまった。
再度「どうぞ、遠慮なさらずに‥。」と促しても、座ってはくれないご婦人に対して、私はとっておきの台詞を使わざるを得なかった。出来れば、使いたくなかったのだが‥。
「私は、もう次の駅で降りますので‥。」
この台詞は、やはり効果があったようだ
ご婦人は、ようやく座ってくれた。
その後、町田駅で下車するまで、私はうつむいたまま顔を上げる事が出来なかった‥。
改札を出て、少し歩いたところで、後ろからコッ、コッ、コッと駆け寄ってくる足音がした。
「山崎課長~。」
声を掛けてきたのは、小林友子であった。
彼女の自宅の最寄り駅は、東林間駅の2つ先の南林間駅だ。彼女は、普段は私より1つ後の電車で出勤してくる事が多いのだが、昼食を朝のうちにコンビニで買う時は1つ前の電車に乗ると、以前聞いた覚えがある。
(今日は、弁当作りサボったんだな‥。)
「おはよう、同じ電車だったんだな。」
彼女が追いつくのを待って、私は声を掛けた。
「ええ、それより、‥やられちゃいましたね。」
彼女の言葉に、押し込んだばかりの恥ずかしさが再びこみ上げてきた。(参ったな‥。、見られちまったか‥。)
「見てたのか。まったく‥、穴があったら入りたかったよ‥。」
頭を掻きながら、ぼやく私に
「何も、大衆の面前で、あんなにハッキリとした口調で注意しなくてもっ‥て思いますよね。」
「昨日の飲み会で、課長もお疲れだったんですよね~。」
彼女なりのフォローだったのだろうが、その言葉で私が救われる事はなかった。
彼(青木正義)の言った事は正しいのた。まさしく正義の人である。そして、当然だが、いつも私の味方になってくれる訳ではないのだ。
「じゃあ、私コンビニ寄ってから行きますんで。」
店まであと50m程のセブンイレブンの前まで来たところで、小林友子は軽くお辞儀をして去っていった‥。
開店時間が間近となり、接客5大用語の最後の言葉「ありがとうございました。」の復唱が終わった。
ロビーの案内係を担当しているパート行員は、時計の針が開店1分前の8時59分を指したのを確認し、入口のシャッターの上昇ボタンを押した。
少しずつ広がって行くフロアーとの空間越しに、男性のそれと思われる革靴とスラックスの足元が見えた‥。
(開店待ちのお客なんて、珍しいな。)
そう思ったのは、私だけではないだろう。自然とみんながそこから登場する人物に注目した。
そうして現れたのは、私がついさっき会ったばかりの『正義の人』だった。
律儀にも、シャッターが完全に天井まで上がりきるのを待ってから、彼は入店した。
「いらっしゃいませ。」
本日1人目のお客様に対して、1階の行員全員による挨拶が行われたが、それに対する何らかのリアクションらしきものは、彼には見られなかった。
入口のすぐ左手には、用件毎に押すボタンが異なる発券機が設置してあるのだが、彼はその前を素通りしてロビーの一番奥まで歩を進めた。
突き当たりの壁に掲示してある、液晶型為替レート表示パネルをじっくり凝視した後(時間が早く、提示されているのは、まだ昨日のレートなのだが‥。)、彼はくるりと反転し、発券機に向かい、発券ボタンを押した。
彼が押したのは、資産運用相談ボタンだった。
自分の手元のカウンターが待ち人数1を表示しているのを確認し、資産運用アドバイザーの小林友子が、コールボタンを押した。
「番組札101番をお持ちのお客様、こちらへどうぞ。」
彼女に促され、青木正義は彼女の前の椅子に向かい、着席した。
資産運用相談コーナーは、ロビーの一番奥にある。相談者が落ち着いて考えられるように、周囲を半透明ガラスで覆ったブース状になっており、他のお客からは中が見えない造りとなっている。はた目には、来店客は誰もいないように見えるだろう。まあ、いつものよくある光景ではあるのだが‥。
2時間近く経過しただろうか。
「それでは、また何か分からない事がございましたら、言って下さいね。」
「どうも、ありがとうございました。」
窓口の待ち人数も4人となり、開店時のような静けさは無かったが、小林友子の高音のよく通る声は、聞き取れた。
(ずいぶん、長かったな‥。)
席を立ち、出口へ向かって歩を進める彼を見送りながら、私は思った。彼の手には、粗品と書類が入っているであろう手提げ袋が確認出来た。何かしらのご契約は頂けたようだ。
彼の姿が支店内から確認出来なくなると、小林友子が私の元へやって来た。
「もーっ、喋り疲れちゃいました。」
「長かったもんな‥それで、どうだった.」
私が尋ねると、彼女は一通りの報告をしてくれた。
「それが、資産運用の経験が全くないらしいんです。」
「それで、まず始めに‥‥」
彼女の話によると、彼は初めての資産運用相談に来店し、資産運用の意義、資産運用の種類、それぞれの特徴・最近の運用状況等について、事細かに尋ね、最終的に日本債権で運用する投資信託ファンドを10万円購入したとの事だった。
「最初に、いきなり為替ボードなんか見てるから‥てっきり運用経験者だと思ったんだけどなあ‥。」
ぼやく彼女を、私は
「まあ、まあ、それでも、貴重な新規先1件の獲得が出来てよかったじゃないか。」
と言って労った‥。
(全くその通りだ。まぁ、最終的に一番固いファンドを購入したのは、彼らしいといえば、そうなのだが‥。)
「お疲れさま、もう11時過ぎだ。小林は今日は、お昼トップバッターだろ。」
「そうだった。じゃあ、お昼行って来まーす。」
朝買ったコンビニ弁当が、一応は楽しみだったのか、彼女はやっと笑顔を見せ、営業室を出ていった。
(お昼か‥。今日は奮発してとんかつ定食でも食べようかな。)私自身も、メニュー選びに頭の中を切り替え、考えを巡らせていた‥。