出会い
今年は久しぶりに梅雨らしい梅雨だ。
幾重にも重なり合った雲が、太陽の陽射しを遮る事で造成されたモノトーンの世界が、人々のテンションを下げる。
まとわりつくベタ付いた空気を嫌がって、多くの人が何日も引きこもりになっている。
そんな、梅雨の間の久しぶりの快晴のせいか、いつもは閑散としている店頭が来店客で混雑している。
掲示板を見ると、待ち人数は10人で待ち時間も15分を表示していた。
(やれやれ‥気が短いお客が怒り出さなきゃいいが‥。)
私が思った正にその時だった‥。
「ふざけるな。」
男の怒声が、さして広くない1階フロアー全体に響きわたった。
「俺が本人だって言ってるだろ。家に帰ってる時間なんて、ねえんだよ。」
「ですが、お客様‥。」
対応している私の部下の女性行員の震える声のトーンから、彼女では手に負えない事は明らかだ。
「俺の出番か‥。」
私は椅子から腰を上げた。
関東中央銀行町田支店1階、店頭カウンターから3列目中央が私の席だ。営業事務課長という肩書のいわゆる中間管理職であり、こういったお客とのトラブルに対応し、円満に事を収めるのは私の職務なのである。
実は、トラブル発生に至るまでのやりとりは大体聞こえていた。このお客は預金通帳だけを持参し(届出印鑑も本人確認書類も家に置き忘れたらしい。)、現金の払い出しを要求していたのだった。無理な要求だが穏便に事を済ませなければならない。
こういった場合の対応は決まっている。お客様の言い分(気持ち)はよく理解できると言って同調した上で、何とか出来るものならして差し上げたいが、どうしても出来ないのだという説明を何度も繰り返すのだ。私自身、こういったクレームへの対応は何度もしてきたし、慣れてもいる。但し、お客が平静を取り戻すまでは怒声を浴び続ける事も多く、嫌な仕事である。
立ち上がった私が、一歩踏み出した時だった‥
「ちょっと貴方、いい加減にしてくれませんか。」
怒っている客の後ろから、別のお客が声を発した。
ノンフレーム眼鏡をかけた小柄なその男性は、恐らく時間潰しに操作していたであろうスマートフォンを手に持ち、椅子に座ったまま顔だけをクレーマーに向けて続けた。
「待っている人が大勢いるのに、無理な主張を繰り返して時間を取らないでもらえませんか。」
突然の後方からの予想外の攻撃に、周囲のお客のみならず、批判の対象となった当のクレーマーも一瞬驚きの表情を見せ言葉を失った。
気を取り直したクレーマーが攻撃対象を切り替えるよりも早く、その男性は更に続けた。
「人様の資産を預かる銀行の善管注意義務、近年の本人確認書類検証の厳格化、印影至上主義を取る日本文化を考慮すれば、御自身の主張が通る訳がないというのは、お解りですよね。」
クレーマーが「お前は関係ないだろ。」と怒鳴ったが、間髪を入れずに
「あなたのお陰で、不必要に待たされ、時間を浪費し迷惑しています。」
と口撃され、続く言葉を失った‥。
10秒程の沈黙の後、「また、出直すわ。」と最後の台詞を残して、クレーマーは店から出て行った。
立ち尽くしたまま、傍観者になってしまっていた私は、我に帰り、急ぎ足でロビーに向かった。
「どうも、お騒がせ致しました。」
軽くお辞儀し、平穏回復へ向けての無難な言葉を発した後、私は小柄な勇者の元へ向かった。
「本来、私共で対応すべきところを、ご配慮頂きまして、どうもありがとうございました。」
私がお礼を述べると、男性は私を一別し「いえっ‥。」とだけ答え、すぐに目線を自分の手元のスマートフォン画面に戻した。
(これ以上は構わないで欲しいという事だろう‥。)
私は軽くお辞儀をしてから自分の席に戻った。
クレーマーであろうと、お客様である以上、行員の私には彼のような物言いは出来ない。本来なら、今頃私はクレーマーのストレス解消の為に口撃を受け続けていただろう。正直、助かったというのが本音だ。
しかし、奇特な人物だ。トラブルに自ら足を突っ込み、一歩間違えば自分に危害が及ぶというのに‥。
彼の発言内容は間違ってはいないが、そう思っても普通はなかなか口に出せるものではない。
「俺にとっては、正義の味方現るって事になるのかな‥。」
呟きながら、手元の腕時計に視線を送った。14時55分、閉店5分前になっていた。
窓口の女性行員が、ノンフレーム眼鏡をかけた彼の受付番号を呼んだ時、時計は15時15分を指していた。
先程の勇者である事に気づいた彼女は、カウンターに彼を迎えると「先程は、ありがとうございました。」と軽く会釈をしてお礼を述べた。
彼女の名前は小林友子、先程クレーマーの攻撃を受けていたのは他ならぬ彼女であった。入行して3年目の25歳、肩までのショートカットでくりっと吊り上がった大きな目が特徴だ。社交性にも長けており、男性行員からの人気も高い。普段は資産運用アドバイザーという役割を担っているのだが、今日のように店頭が混み合っている時は窓口業務の手伝いをしてもらっている。そんな中、例のクレーマーを受付する事になってしまったという訳である。
軽くお辞儀だけをして応えた彼に対して、彼女は
「今日は、どういった御用件ですか。」
と笑顔で尋ねた。
彼の用件は新規口座の開設だった。中途採用が決まった勤め先から、給与振込みの受け取り用に口座の作成を指示され、その手続きに来店したとの事だった。
本人確認書類の提示、要注意データとの照合、関係書類への記入の後、口座作成処理を経て、申し込み関係書類が作成された預金通帳と共に検印者である私の所に回ってきた。
彼の名前は「青木正義」、年齢は29歳と意外と若い。自宅の住所は町田市玉川学園で勤め先は町田市役所と書かれている。勤め先が当支店近隣であり、在籍確認も済んでいる事から口座作成に支障はない。自宅がある玉川学園駅には小田急線で新宿方面に僅か1駅という好環境で生活していく訳だ。
勤め先が町田市役所(先程のクレーマーが知ったら、早速市役所に乗り込みそうだな‥。)である事にも多少驚いたが、名前に対しての個人的な衝撃はそれ以上だった。
(正義って、まさに正義の味方の名前にうってつけじゃないか。それに青木って苗字だと、子供の頃からアイウエオ順で整列したら大抵先頭になっちゃうんじゃないかな。だから毅然として物怖じしない性格になったのかな)などと考えを巡らせながら検証したせいだろう。
「課長まだですか?」と小林友子から急かされてしまった。
「ごめん、オッケーだ。はい、どうぞ」
そう言って私はカルトンに通帳を載せて彼女に渡した。「青木様、お待たせ致しました。」彼女に呼ばれ、手元のスマートフォンを胸ポケットにしまい込むと、彼はゆっくりと立ち上がった。
「どうぞ、お名前と本日のご入金額をご確認下さい。」
彼女に促され、一応の確認をすると彼は一緒に添えられたポケットティッシュと通帳を手に取り、ズボンの後ろポケットにしまい込んだ。そして、そのまま出口に向かって歩き出した。
彼が最後に残ったお客様となったため、一階にいた行員全員が「ありがとうございました。」と挨拶を行うと、ドアから外へ出る直前に顔を一瞬こちらへ向け、軽くお辞儀をしてから店を出て行った。
最後のお辞儀が誰に向かってのものなのか、ノンフレーム眼鏡のレンズに反射した周囲の画像が目線の確認を妨げ、私には分からなかった。
あるいは誰に向けた訳でもなく、ただなんとなく行っただけかもしれないが…。