エピローグ
エピローグ
「それで? まさか2階から飛び降りたくらいじゃあ死なないだろう」
北条は紫煙を吐き出しながら訊いた。北条のサングラスはいつも通りだが、それでも今日は珍しくカーテンは開け放たれ、書斎の窓からは明るい日差しが部屋に注がれている。
「ええ。幸いにも下は花壇で、足を捻挫しただけで済みました」
2階の窓から飛び降りた拓也は下で待機していた警官に取り押さえられた。
「新谷さんを呼んだのは北条さんですね?」
「私が乗り込むわけにはいかないのでね」
北条は自らのカップに紅茶を注ぎ足すと美味そうに一口飲んだ。「さすがに君一人では危険だと思ってね。迷惑だったかな?」
「いえ……でも、なぜ私があそこにいるとわかったんですか?」
「なぜ? 君は犯人に心当たりがあると言っていたじゃないか」
「でも、名前は言いませんでした」
拓也の家を訪ねる直前、美夕は北条に電話をいれていた。
――犯人?
電話に出た北条は不思議そうに言った。
――犯人がわかったのか?
「まだ、はっきりとは言えません。でも……確認してみたいんです。はっきりしたら北条さんにお話します」
――好きにするといい。もともと私は犯人が誰かなど興味はない。私が調べていたのは、なぜ雛子君や仲崎幸一がなぜ殺されたのかということだ。
「それは犯人を見つけるためじゃないんですか?」
――違う。そもそも犯人など初めから想像がついているよ。
「どうして?」
――君だって少し考えればわかるはずだよ。いや本当は君も無意識のうちに気づいているのではないのか? 雛子君が君に電話をかけた時、彼女は何と言った? 彼女は犯人のことについて何か言ったか?
「いえ……何も」
――なぜだろう? 犯人の顔を見ていなかったからか? いや違う。雛子君は胸と腹を刺されている。犯人の顔を見ていないはずがない。それなのに雛子君は君に犯人の名前を告げようとはしなかった。なぜだと思う? 雛子君がどんな人間であったか考えればわかることだ。雛子君は犯人を守ろうとしたからだ。だからこそ彼女は犯人の名前を君に告げなかった。むしろ守ろうとしていたんだと思わないかね? 問題は雛子君が誰を守ろうとしていたかということだよ。
北条の言葉はそのまま拓也のことを示していた。
「私が電話するまでもなく、新谷という刑事はすでにあらかた事件を解いていたようだったがね」
北条が言うように新谷は事件の中心に拓也がいることに気づいていた。自分が拓也を問い詰めるまでもなく、新谷は数日のうちに拓也を逮捕したことだろう。
「やっぱりゲームの記憶のせいなんでしょうか?」
拓也のこと、そして小笠原礼子や三代竜平のことを考える。三代竜平は吉祥寺の駅のホームでぼんやりと座っているところを保護されたと新谷が話してくれた。
「君は『サブリミナル効果』という言葉を聞いたことはないかね? 一瞬の映像のため意識することはないが、脳にはその映像が焼きつき、広告として絶大な効果を示す。仲崎幸一が使ったのはその手法だったわけだ。おそらくこれまでも一般のオンラインゲームにハッキングしては、自らが契約した商品を一瞬の映像としてプレイヤーに送り込んできたのだろう。サブリミナル手法は実際に過去に映画やテレビでも使われたことがあるが、その手法が問題視されていて今では一般的には禁止されている。しかし、その影響力が大きいことはよく知られていることだ。今度のゲームは直接に脳に情報を与えるものだ。しかも事故によってその時の映像は君たちの脳により強いイメージとして残ったのだろう」
「それじゃ私や康平も?」
「効果は人によって変わってくる。西岡拓也は自分自身の願いをあのゲームのなかに託していたのかもしれない。だからこそゲームの影響をまともに受けることになった」
「西岡さんの願いって……」
「さあね。彼の心のなかは彼でなければわからない。ただ、想像することは出来る。ゲームのなかに出てくるマーテルの塔。『マーテル』とはラテン語で『母親』を表す言葉だ。ちなみにゲームに出てくる国『テンプルム』は『聖域』、『レクス』は『王』という意味を持っている。彼の母親は病気で亡くなっていたね。ひょっとしたら彼はゲームのなかに自らの理想郷を作りあげ、そこで復活させた母親に会いたいと思っていたのかもしれない。他のプレイヤーも同じだろうな。みんな心の傷をあのゲームの世界で癒そうとして、ゲームに心を支配された」
雛子が北条に残したメッセージ。
――コンピュータに意志があると思う?
あれは自らの開発したゲームシステムに捕らわれていく拓也を見て不安になったのだろう。
弟の死という傷を持った三代竜平。息子と共に暮らす夢を見た小笠原礼子。きっと拓也はあのゲームのなかで大好きだった母を思い出そうとしていたのだろう。
「私もあの事故の後、変な夢を見たり、気持ち悪くなったりしました」
「一時的なものだろう。他のプレイヤーもいずれ少しずつ良くなるさ」
「そうですか」
美夕はほっと胸をなでおろした。確かに北条の言う通り、康平の症状は改善に向かっている。美夕自身も店頭に並んでいるバロックコーヒーを見ても、以前のようには気持ち悪くはならなくなっている。
「ただ、西岡拓也だけは夢から醒めるまでは時間がかかるだろうな」
「どうしてですか?」
「自己暗示だからさ。彼はきっと自分の理想郷をゲームのなかに求め、あえてその世界にその身を投じようとした。自分で望んでかけた暗示だ。自分がその世界から抜け出そうとしない限り、なかなか醒める事はない。君も気を付けることだな」
「どうして私が?」
「君も自分で自分に暗示をかけ、その身を封じ込めるタイプだからね。今回はその意志の強さがシステムの暗示とは違う方向だったからこそ、軽い症状で済んだのだろうがね。それでも一つ間違えば、君は誰よりも暗示に捕らわれていたかもしれない」
「言っていることが逆じゃないですか」
「意志の強さと、迷いがあるかどうかは別だよ。君はもっと自分という存在を見つめ、考えるべきだろうね」
まるで自分の心のなかを覗かれているような気分になる。
「北条さんはどうなんですか?」
「私?」
「北条さんはこのままでいいんですか? 戸籍がないと言ってましたけど、その気になればここから脱出することだって出来るんじゃありませんか?」
「脱出? 何のために?」
不思議そうな顔で北条は美夕を見た。
「何のためって……そうすれば普通の人間としてやっていけるじゃないですか?」
「そうだね。確かに君の言う通りかもしれない。けどね。私はべつに今の生活に不満を持っているわけではないのだよ。前にも話したが、人生は人それぞれ皆違うものさ。それに私はここで待たなければならない」
「何をですか?」
「人にはそれぞれ生まれついての使命というものがある。私はここでその使命を果たさなければならない」
「北条さんの使命って何ですか?」
「君が知る必要はない。君は君の世界で、自分の使命を見出し、それを果たさなければならない」
「意外ですね。北条さんがそんなこと言うなんて思いませんでした」
壁の時計が大きく12時の鐘を鳴らした。
「もう行かなきゃ――」
美夕はゆっくり立ち上がった。
「ところで君、どうしてこんな時間に? 学校に行っている時間じゃないのか?」
北条はソファに座ったまま、美夕を見上げた。
「学校は辞めることにしました」
「辞める?」
「ええ。もともと行きたかったところじゃありませんから」
「それで?」
「大検を受けるつもりです。私にとって、自分の使命が何なのかはわかりませんけど、とりあえず自分の思ったように行動してみるつもりです」
そうすることで真奈美ともちゃんと向き合うことが出来るかもしれない。
「それは良い。きっと雛子君も喜ぶだろう」
北条はニッコリと微笑んだ。
「雛子が?」
「彼女は君に憧れていたからね」
「冗談言わないでください」
「冗談ではない。彼女は君の強さがうらやましいと言っていた」
「私は強くなんてありません」
「少なくとも雛子君にはそう映っていたんだ。実は私も君は他人とは違う強さを持っていると思う」
「からかっているんですか?」
「違うよ。君はまだ自分自身という存在に気づいていないのだろう。いずれ気づくことがある。その時、私や雛子君が見ていた君の姿を、君自身が見えるようになる」
北条はその心の見えぬ笑顔で言った。
* * *
門が背後でパタリと閉まる。
私はずっと立ち止まっていたのかもしれない。
立ち止まり、俯き、しゃがみこみ。
どんなことをしていても時は流れる。そして、どんな時が流れても私は私でしかない。
もっと私自身を大切にしなければいけない。
もっと私の想いを理解しなければいけない。
誰かが私を見ていてくれる。
誰かが私を想ってくれる。
そんなふうに私も私を見つめ、ゆっくりと前に進まなければいけない。
きっとその先に自分の素直な気持ちが存在しているはずだ。
少し涼しげな風が頬をなぞる。
美夕はぼんやりと空を見上げた。
青く澄んだ空が一面に広がっている。
そう。この空のように未来は限りなく広い。
了