7.願い・6
じっとその時を待つ。
確かめなければいけない。
その思いが美夕を動かしていた。
目の前のドアがゆっくりと開く。
「どうしたんだい?」
拓也は驚いた顔で美夕を見た。
「事件について話したいことがあって」
「事件? 何かわかったの? まあとりあえず上がって」
拓也はそう言って美夕を迎え入れた。
玄関の正面に2階にあがる階段が見える。おそらく2階が拓也の部屋になっているのだろう。
拓也はその脇を通って、リビングに美夕を案内した。
大きな家具調テーブルに黒いソファが中央に置かれている。父親との二人暮らしにしてはわりと綺麗に片付けられている。
「突然でびっくりしたよ。前もって言ってくれたらもう少し掃除しておいたんだけどなぁ」
そう言いながら拓也はテーブルの上に置かれていた新聞や雑誌を片付けた。美夕はリビングを見回した。
部屋の隅には25インチの大型テレビ。脇にはシンプルなラックが置かれている。壁に黒い壁掛け時計がかけられているが、それは美夕が捜しているものとは違っていた。
「お父さんは?」
「会社に行ってるよ。家にいるより仕事をしているほうが好きらしい。母さんが死んでからは家にいることのほうが少ないんだ。さ、座ってくれ」
美夕は促されるままにソファに腰掛けた。その正面に拓也も座る。
「病気だったんですって?」
「病気? ふん……あれは医療ミスだよ」
とたんに拓也は表情を厳しくした。
「医療ミス?」
「ああ。医者は簡単な手術だと言ったんだ。手術をすれば10日で退院出来るって。けど、結局母さんは退院することは出来なかった」
「それじゃどうしたんですか?」
「どうにもならないさ。裁判に訴えようにもこっちには医療ミスを証明する証拠なんて何もないんだ。それでも俺は何とか訴えようとしたんだ。でも……親父は簡単に和解に応じてしまった」
悔しそうに唇を噛む。
「西岡さん……」
「ああ……それで? 話したいことって?」
拓也は顔をあげると、わざと明るい表情を作ってみせた。
「え、ええ……その前に何か飲み物ありませんか? なんか喉が渇いちゃって」
「ああ、コーヒーでいいかな?」
すぐに拓也は立ち上がった。「ちょっと待ってて」
リビングから拓也が出て行くと、美夕はすぐにソファから立ち上がった。そして、慎重にドアからキッチンのほうをうかがいながら、そっとリビングを後にする。
足音を忍ばせながら、玄関のほうへと戻りその脇にある階段を昇る。
ドキドキと鼓動が高鳴る。
自分がいかに拓也に対して失礼なことをしているのか、それは十分わかっている。だが、こうでもしなければ全てを明らかにすることなど出来はしない。
(もし私が間違っていたら――)
いや、間違っていて欲しい、と美夕は思った。
階段を昇り、突き当たりのドアにゆっくりと手を伸ばす。
(雛子……)
心のなかで祈りながらドアを開ける。
薄暗い部屋。
ほんのわずかに空気の湿気た匂いが漂ってくる。
10畳ほどの部屋のなかにベッドや本棚などが所狭しと並んでいる。
美夕はゆっくりと足を踏み入れた。
壁際にはタワー型のパソコンが2台、そしてノート型のパソコンが1台置かれている。
美夕はグルリと部屋を見回した。そして、ある一点で視線を止める。
(やっぱり……)
その時――
「何をしているんだ?」
振り返ると拓也が険しい顔をして立っているのが見えた。「まさか君がこんな泥棒みたいなことをするなんてね」
拓也の目が怒りを帯びている。初めて見る表情だ。
美夕は鼻で大きく息を吸い込むと口を開いた。
「時計……なぜ止めてあるんですか?」
美夕は壁にかかった時計を指差す。時計そのものは真新しく見えるが、針はピクリとも動いていない。
拓也はちらりとその指の先を見ると――
「壊れてしまってるんだ」
と、なぜそんなことを訊くのだというように眉をひそめながら部屋に足を踏み入れた。そして、後ろ手に静かにドアを閉める。逃げ道を閉ざされ、美夕はわずかに足が震えるのを感じた。
それでも、美夕はさらに訊いた。
「本当ですか?」
「本当だよ」
「わざと止めてあるんじゃありませんか?」
「なんで俺がそんな嘘をつかなきゃいけないんだ」
「それは今年の冬に雛子が誕生日のプレゼントに西岡さんにあげたものですよね」
「……」
拓也の目にわずかに動揺が走る。
「動かしてください。もし本当に壊れているというなら治してもらいましょうか? 私、それを造った人知ってますよ」
「何のために?」
「それはからくり時計です。時間がくると中に入っているオルゴールが鳴る仕組みになっています。それは西岡さんも知っていますよね。雛子が殺された時、電話の向こう側から聞こえてきたのはその音楽なんです」
「こんなのどこにでもある時計じゃないか」
「ええ。時計はこれ一つじゃありません。でも、中に入ってるオルゴールの曲だけは違うんです」
「曲?」
何のことかわからないように拓也は眉間に皺をよせた。
「知らなかったんですか? それは雛子が自分で作曲したものなんですよ」
拓也は口を噤み、ごくりと唾を飲み込んだ。
「何を言っているんだ?」
「雛子を殺したのは西岡さんですね」
「何をバカな事を。どうして俺が雛ちゃんを殺さなきゃいけないんだ?」
「あなたが『レクス』だからです」
「……」
「もっと早く気づくべきでした。中尾さんたちと会った日の帰り、西岡さんは言いましたよね。『すべての原因が事故に遭った8人なのか、それとももっと違うことが原因か、いずれはっきりするよ』って。あの時、私は西岡さんがあの会合に集まった人を言っているのだと思いました。でも、よく考えてみたらあなたがそんなこと言うのはおかしいんです。なぜなら雛子がプレイヤーではないことは私も西岡さんもはっきり知っていたんだから。あなたはもっと違う数え方をしていた。きっと西岡さんの頭のなかでは雛子や仲崎君。礼子さんの息子さんなど除外していた。そして、その代わりに三代さんや、康平、真奈美を数えていたんでしょう。つまり、あの時から西岡さんはゲームで事故に遭った人が誰なのか、正確に知っていたんです。なぜならあなたがゲームを開発したレクスその人だからです。違いますか?」
「……それは……」
「雛子はあなたが何者であるか知っていたんですね? だからこそあなたは雛子を殺した。隠しても無駄ですよ。もし本当にここで雛子を殺したのなら血痕が残ってるはずです。警察を呼べばすぐにわかります」
拓也は大きく目を見開き、ふっと視線を落とす。それから――
「……仕方なかったんだ」
うめくように呟いた。
「どうして? 雛子はずっとあなたのことを慕っていた。それなのになぜ?」
「……あいつは……知ってしまった」
「でも、あなたが『レクス』だからって――」
そう言いかけてピンときた。拓也がゲームを開発した『レクス』であったとしても、それは殺人を犯さなければいけないような事実ではない。
雛子を殺してでも隠さなければいけなかったこと。それは――
「まさか名波さんのこと? それじゃ名波さんも西岡さんが?」
「そうするしかなかったんだ!」
拓也は吐き捨てるように言った。「あいつ……全ての責任を俺のせいにしようとしたんだ」
「責任? 事故の責任ですね。雛子は初めからあなたが『レクス』だということを知っていたんですか?」
「違う……運が……運が悪かったんだ」
「運?」
「あの前の日、あいつは俺がいない時にやってきて、俺のパソコンを勝手に覗いたんだ。きっとその時に俺が『レクス』だということに気づいたんだろう」
拓也はそう言って唇を噛んだ。
――美夕ちゃんになら言ってもいいかなぁ。
雛子の笑顔を思い出す。あれはそういうことだったのだ。ずっと憧れていた『レクス』が拓也であることに気づき、雛子は嬉しくてたまらなかったのだろう。
それなのに――
「それでもゲームを開発したのがあなたであることは知らなかった。三代さんがあの日、ゲームを開発したのが『レクス』だということを話したことで初めて気づいたんですね」
「あいつ……君たちと別れた後、ここまでついてきて執拗に訊いてきたんだ。俺は怖かった。あいつが全てバラしてしまいそうで……無我夢中だった。殺す気なんてなかった……気が付いたら俺はナイフを持ち、あいつは……あいつは……」
拓也は混乱したように額に手をあて、頭を振る。
ゲームを開発したのが『レクス』であることを知った時の雛子の表情を、そして、あの時の電話の声を思い出す。
――……助けて……あげ……
あれは自らの命の危険に助けを求めたわけじゃない。
(助けてあげて)
そう言いたかったんじゃないだろうか。最後まで拓也のことを心配していたに違いない。だからこそあの時、自分を殺そうとしている拓也を庇うために、隙を見て自分に電話をかけ、拓也が事件とはまったく関係ないように装ってみせたのではないだろうか。
「だからって――」
「俺が悪いんじゃない! あいつらが……あいつらが俺の邪魔をするから悪いんじゃないか! 俺のシステムには問題なんかなかった! 俺のシステムは完璧だったんだ! 悪いのはあいつじゃないか! 俺のシステムに入り込みやがって!」
「仲崎君のこと?」
「そうだ。あいつは自分の商売のために勝手にファイルをロードしやがったんだ。しかも、あいつがやったのは今回だけじゃない。これまでにも何度も俺が作ったオンラインゲームに侵入してはロードされるファイルに広告映像を送り込んでいたんだ」
「それじゃ、それを調べるためにゲームで事故に遭った人たちを捜していたの? 西岡さん、ゲームの記憶がなかったなんて嘘なんですね? あなたは他の人たちにあわせて記憶がないふりをしていただけなんでしょう?」
ブルブルと身体を震わす。
「そうだ。事故があったことは誰でも知っている。きっと事故の原因を作り出した奴も、少しは責任を感じてその結果を知りたがっていると思った。だから事故に遭った人たちを集めれば、奴も現われると思った。事実、あいつは顔を出した。もっと自分のやったことを反省しているかと思った。それなのに……あいつ、平然とした顔をしやがって……」
「だから仲崎君を殺したの?」
北岡綾香に会いに行く途中に拓也に会った時のことを思い出す。あれはおそらく仲崎を殺し、帰ってきたところだったのだろう。きっとあの時持っていたバッグの中に血のついたシャツが入っていたに違いない。
「許せなかった……いや……あいつだけじゃない。俺の邪魔をする奴全員許せなかったんだ」
「西岡さん……」
「美夕……」
拓也は視線を美夕に向けた。「君は……俺を裏切らないよな。君は俺の味方だろう? なぁ! そう言ってくれたよな」
虚ろな目で美夕を見つめる。
「何言ってるんですか?」
「心配することはない。君には俺がいる。君のことは俺が守ってやる」
美夕はハッとした。その言葉をわずかに覚えている。
ゲームのなかの記憶。
「西岡さん……あなた……」
「俺の傍にいてくれると言ってくれた。そうだろ」
「……知らない」
美夕の言葉に拓也は目を見開いた。
「知らない? そうか……君は忘れてしまってるんだったね。大丈夫。俺が思い出させてあげるよ」
その目はいつもの拓也のものとは違っている。
何かに取り付かれたような虚ろな視線。
拓也は傍らに置かれたバッグのなかからラジカセくらいの大きさのものを取り出した。美夕にはすぐにそれがあの『ファンタジーロードX』のゲーム機器と同じものであることに気づいた。
「何を……」
「君の記憶を取り戻すんだ。もう一度一緒にあの世界に行こう。俺たちの世界へ」
デジタル信号の世界。
――誰だ! 許さないぞ! ここは俺の世界だ!
破壊されていく世界のなかで、叫ぶ拓也の姿を思い出す。最後まで聞こえていた叫び声。あれは拓也の声だ。
理想郷を求めて自ら作った『レクス』の心の声だ。
「やめて! あれはただのゲームなのよ」
「違う!」
拓也は拳で壁を叩いた。その音に美夕はビクリと身体を震わせた。「あれはただのゲームなんかじゃない! あれはもう一つの現実世界だ! 君だってそう言ったじゃないか! あの世界こそが俺たちの理想郷だった!」
「西岡さん……あなた、事故のために記憶が混乱しているのよ」
「違う! 君は誤解している! 俺にはわかっている。あれはただのゲームのなかのストーリーじゃない。あれは宿命だった。あれはほんの一つのきっかけにすぎない。俺たちはもっと違う世界で生きていたんソウルメイトなんだ! ずっと俺は君を待っていた! 俺は君と出会う運命だったんだ!」
拓也はそう言いながら美夕に歩み寄った。
「来ないで!」
「美夕。思い出してくれ。俺を愛していると言ってくれたじゃないか」
右手を美夕へ突き出す。
――君を守ってあげる。
ゲームのなかで聞いたあの声を思い出す。そして、あの世界で自分が誰かの恋人として行動していたことを思い出す。
あれは拓也だったのかもしれない。
「嫌! 来ないで!」
美夕は思わずテーブルの上に置かれていた雑誌を投げつけた。雑誌は拓也の頬をかすめて壁にぶつかる。
拓也の表情が変わった。
「美夕!」
ぐいと手を伸ばし拓也が美夕の腕を掴み、強い力で美夕の身体を引き寄せた。その痛みに小さく声をあげる。
その時、ドアが突然開いた。
「西岡!」
新谷だった。「止めるんだ!」
拓也の手からゲーム機がバサリと床に落ちる。
「く……」
拓也は振り返ると、2、3歩退いた。腕を捕まれている美夕もまたその拓也の動きに合わせ窓に近づく。
「杉村雛子、および仲崎幸一殺害の容疑で逮捕する」
新谷が拓也に向かって進み出る。いつもの優しげな新谷の表情とはまるで違っている。その青い目が爛々と光り、拓也を睨みつける。それは美夕に狼の姿を思い出させた。
「来るな!」
新谷に向かって拓也が叫ぶ。
「西岡! いい加減、夢から覚めるんだ!」
新谷は慎重にジリジリと間合いを詰める。ふと横目で拓也のほうを見て、その新谷の行動の意味に初めて気づいた。
いつ取り出したのか拓也の右手には刃渡り15センチほどのナイフが握られている。
「来るなぁ!」
拓也はあらん限りの力で叫んだ。「夢だと! あれは夢なんかじゃない! あれこそが現実世界なんだ! 俺が望んだ世界なんだ! どいつもこいつも……ふざけやがって」
「西岡!」
さらに新谷が近づく。
「ちきしょう! ちきしょう! ちっくしょおぉぉぉ!!」
怒号に似た叫び声とともに拓也が飛びのいた。そして、美夕の腕を離すと窓ガラスに飛び込む。
「西岡さん!」
叫ぶ間もなかった。
飛び散るガラス片。
拓也の身体が宙を飛ぶ。