7.願い・5
駅前まで北条に送ってもらった後、美夕は一人、モスバーガーで簡単に食事を取ってから家に戻った。
午後1時。
リビングからテレビの音がわずかに漏れてくる。
いつものように咲子がワイドショーでも見ているのだろう。
美夕はリビングのドアを開けた。
ソファに座っている咲子の姿が見える。だが、その様子はいつもと違っていた。テレビから視線を外し、背中を丸めて俯いている。
「ただいま」
美夕はそっと声をかけた。
「……ああ、おかえり」
はっとしたように咲子が顔をあげる。その声に力がない。美夕はそっと咲子に歩み寄った。
「どうしたの? なんか元気ないみたいだけど」
「……もう嫌になっちゃったよ」
すると咲子はいかにも疲れたように大きくため息をついた。
「どうしたのよ?」
「康平……桐蔭学院を受験しないって言うのよ」
「どうして?」
「藤沢工業に行くんですって。エンジニアになるって言うのよ。なんで今ごろ……」
咲子は右手で目を覆った。
「康平は何て言ってるの?」
「知らないわよ。さっき急に言い出したのよ」
「何か考えてることがあるんじゃないの?」
「さあねえ……私にはわからないよ」
「ちゃんと話してみれば?」
美夕の言葉に咲子は項垂れたまま首を振った。
「あの子、私とまともに話そうともしないんだよ。親なんてつまらないものだねえ」
泣いているのかずっと目頭を押さえたままだ。これほどまでに落ちこんでいる咲子を見るのは初めてのことだ。いや……以前にも同じような姿を見たことがある。受験に失敗した後、一度大きな喧嘩をしたことがあった。
――お母さんに私の気持ちなんてわかるわけないじゃないの!
受験の失敗で募っていた苛立ちを全てぶつけたあの言葉。あの後、キッチンの椅子に座って泣いていた咲子の姿を思い出す。あの時は自分のことしか見えていなかった。今になって、やっとあの時の咲子の気持ちに気づき美夕は心を痛めた。
「私、康平に聞いてみるわ」
美夕はそう言うとリビングを出て2階に向かった。
今の咲子を作ったのはあの時の自分の言葉だ。
1年前の自分の受験失敗以来、咲子の期待がずっと康平に向けられていたことは美夕も知っている。だが、それは咲子自身のためではなく、康平に自分のような思いをさせたくないからこその思いやりだったのかもしれない。
それだけに今の咲子の苦しみが自分の責任のようにも思える。
「康平、いる?」
小さく2回ノックしてからドアを開く。
ベッドに横たわり雑誌をペラペラと捲っている康平の姿があった。
「何?」
康平は手を止め、ちらりと視線を美夕へと向ける。
「母さんから聞いたんだけど……桐蔭学院、止めるって本当?」
迷うように康平の視線が宙を泳ぐ。
「そうだよ」
「どうして急に?」
「急じゃないよ。前から決めてたことだ」
「なんで?」
「俺は姉さんじゃないからね」
「私?」
「姉さんだってわかっているだろ。母さんは俺に姉さんの代わりをさせたいだけなんだ」
康平は雑誌を閉じると身体を起こした。
「そんな言い方って――」
「それが本心だと思う。桐蔭学院は姉さんと母さんの目標だった。でも、俺は姉さんとは違うし、俺には俺のやりたいことがある」
「やりたいことって何?」
「そんなの言う必要ないだろ」
「言えないような理由なの?」
「そうじゃないけど――」
「だったら言いなさいよ」
美夕の強い口調に康平は一瞬途惑った様子を見せたものの、それでも仕方ないといった様子で口を開いた。
「俺、エンジニアになりたいんだ」
「それって桐蔭学院じゃあダメなの?」
「そういうわけじゃないけどさ。でも、藤沢工業のほうがいい」
「どうして?」
「ロボコンって知ってる?」
「ロボットコンテストのこと?」
「そう。あれに参加したいって前から思ってたんだ。桐蔭じゃそんなこと出来ないだろ。大学進学が目的なら桐蔭だっていいんだろうけどさ。でも、俺はもう将来やりたいことがあるわけだし、今からその道を目指したっていいと思うんだ」
康平がそこまで自分の夢を持ち、将来を考えていたことに美夕は驚いた。
「そのことお母さんに言ったの?」
「……いや」
「どうして言わないの? それだけはっきりとした夢があるならちゃんと話せばいいじゃないの」
「どうせ言ったってわかってくれないだろ」
「言わなきゃもっとわからないわ。それに……お母さんはちゃんとわかってくれるわ。お母さんは自分のためにあなたを桐蔭学園に入れようとしているわけじゃないもの」
「姉さん……」
「お母さんはあなたが悔いを残さないように一緒にがんばってくれてるだけよ。あなたが本当に自分の夢を持っているなら、きっと応援してくれるはずよ。私も……私もちゃんとがんばるから!」
康平は驚いたように美夕を見つめ、やがてほっとため息をついた。
「わかったよ。夜にでも母さんに話してみる」
「うん……」
康平の素直な言葉に美夕もほっとした。
「ああ、そうだ。さっき、姉さんに荷物届いてたんだけど、もう見た?」
思い出したように康平が言った。
「荷物?」
「うん。部屋に置いておいた。あれって……この前殺された人からじゃないの?」
* * *
テーブルの上に小包が置かれている。
差出人の名前は『杉村雛子』。
(そんな……)
どうしようか迷ってから、美夕はその小包を手に取って紐を解き始めた。
ドキドキと鼓動が高鳴っている。
やがて中から茶色い箱が現れた。ゆっくりとその箱をあける。中には光沢のある木製の壁掛け時計が入っていた。そして、それと一緒に白い封筒が見える。
美夕は封筒を開けた。
『誕生日おめでとう。これからも友達でいてね 雛子』
それは紛れもない雛子の字だった。
いったいいつ発送したのかわからないが、自分の誕生日に届くように発送したのだろう。
思わず目頭が熱くなる。
きっとこれを送ろうと決めた時はまだ、自分が殺されるなどと考えてもみなかったことだろう。
美夕はそっと手にとると、時計の裏側にある小さな蓋を開け、そこに乾電池をセットした。
秒針が動き始める。
美夕はガラス扉を開くと、時計の針をゆっくりと動かして時間を合わせた。
4時55分。
その時計の針を見つめながら、雛子の笑顔を思い出していた。天使のような無邪気な笑顔。彼女は美夕以上に『友情』を求めていたのかもしれない。
カチリと長針が時刻を刻み、5時を示す。
突然、時計の奥から音楽が聞こえ始める。透明感のある高い金属音。緩やかで美しいオルゴールの音が室内に響く。
そのメロディーに美夕ははっとした。
(これは……)
間違いない。
――美夕……
あの時の雛子からの電話。あの背後で聞こえていたあのメロディーが、今、手の中にある時計の中から響いてくる。
鳥肌が立つような感覚が背筋を走り抜ける。
(どうして?)
これまで聞いたことのない音楽。
やがて、曲はピタリと止まった。
美夕は時計をテーブルの上に置くと、時計が入れられていた箱をひっくり返した。
『今村時計店』
住所は銀座。電話番号も書かれている。
美夕はすぐに携帯電話を手にした。