6.嘘・2
美夕は翌日、学校を早退すると再び北条の屋敷を訪ねた。
門のところでインターホンを鳴らす。水島香織がすぐに門の扉を開けてくれた。玄関まで行くと、黒いワンピースにエプロン姿の水島香織が顔を出した。
「またいらしたんですね」
その表情からはまったく感情が読み取れない。
「すいません」
「なぜ謝るのですか?」
返す言葉に困っていると、水島はスッと身体を移動し美夕を招き入れた。
「どうぞ。若先生は書斎にいらっしゃいます」
不思議な女性だった。まるで感情など持ち合わせていないかのように、眉一つ動かそうとはしない。
香織は先日と同じようにリビングに通してくれた。
「若先生をお呼びして参ります。こちらでお待ちください」
そう言ってリビングを出て行こうとする香織の足がふと止まった。香織はくるりと振り返ると――
「さしでがましいようですが――」と美夕に声をかけた。「若先生とは本気で向き合わないよう注意されたほうがいいと思います」
「は?」
「若先生は人を壊す力を持っていらっしゃいます。普通の人があの方と正面から向かい合えば心を壊されます」
香織はそう言うとリビングを出て行った。
(どういう意味?)
美夕には香織の言葉の意味がわからなかった。
やがて、リビングのドアが開き、再び水島が姿を現した。
「書斎でお会いするそうです。こちらにどうぞ」
ドアを大きく開き、美夕を促す。
「あの……さっきの話ですが――」
「どうぞこちらへ」
まるで美夕の言葉を拒絶するように、水島は先頭に立って階段を登り始めた。美夕は黙って水島に従い、後をついていった。
階段を登りきった正面にあるドアを香織がノックする。
「長瀬様をお連れしました」
香織はドアを開くと、その脇に立ち、美夕のほうに視線を向けた。「どうぞ」
美夕は香織に促されるままに部屋のなかへと一歩踏み込んだ。そして、その部屋の光景に美夕は言葉を失った。
部屋の壁一面に本が並んでいる。
その数は高校の図書室にも匹敵するほどの量だ。
「やあ、いらっしゃい」
部屋の真中に置かれたソファに足を組んで北条が座っている。背後でパタンとドアが閉まる音が聞こえた。
「すごい量の本ですね」
部屋を見回しながら、ゆっくりと北条のほうに歩み寄る。
「今でこそある程度自由に出歩くことが出来るようになったものの、以前は私にとって世界はこの屋敷の中だけだったからね」
「全部、読んだんですか?」
「まさか、興味のあるところだけ掻い摘んで眺めただけさ。ほとんどのものは退屈極まりないものだね。睡眠効果はバッチリだ」
そう言いながら北条は持っていた分厚い本をテーブルの上に置くと、手で美夕にソファに座るように促した。「どうだい? 答えは見つかったかね? 雛子君は、君が思っていたような人だったかい?」
「……いいえ」
美夕はソファに座りながら答えた。「私には……よくわかりません」
「それでいい」
北条は満足そうに微笑んだ。
「どうして?」
「人間はそれぞれ違う感性を持っているものだ。相手の一面だけ見て、全てをわかったような気になることが間違いなのだよ。それがわかっただけでも大きな進歩だ」
「北条さんは知っていたんですか? 以前、雛子がどんなことを悩んでいたのか」
「ああ。知っていたよ。彼女はいつもここに来て、子供の頃の話や学校での出来事を喋っていったからね」
「それならどうしてこの前教えてくれなかったんですか?」
「君の心のなかには、君が勝手に思い描いた雛子君の存在があったはずだ。それを覆すには、君自身がそれを認識しなければいけない」
「……」
「それで? 事件を調べるのも諦めたかね?」
「いいえ」
美夕はすぐに首を振った。
「なぜ?」
「……わかりません。でもこのまま終わりにしたくないんです」
正直な気持ちだった。理由は自分でもよくわからない。雛子のため、というよりも自分のためかもしれない。このまま終わらせてしまっては自分自身の存在がそれだけの価値だけしかないように思えてしまう。
「ふぅん。それで? 新たに何か起こったのかな? 雛子君のことを報告するためだけで、ここに来たわけではないようだが?」
まるで見透かしたように北条は言った。
「先日、仲崎という高校生が殺されたの知ってますか?」
「仲崎幸一? 新聞で読んだよ。やっぱり彼も君の仲間?」
「仲間というか……ゲームで事故に遭ったということで、話をしていたことは確かです。けど、警察の人が言うには仲崎君は実際にはゲームには参加していなかったかもしれないんです」
「つまりゲームに参加したと嘘をついた二人が続けて殺されたわけだ。なぜ彼はそんな嘘をついたのかな」
北条は落ち着いた様子で再びタバコを咥えた。火を点けると、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
「わかりません」
「彼は君たちにどんな話を?」
「普通にゲームの話をしていただけです」
さして特別なことを話していた記憶はない。いつもどこか観察するような目で淡々とゲームについて話していたと思う。
「普通に? ゲームに参加していなかったなら知らないこともあったんじゃない?」
「いいえ。ゲームに参加していなかったなんて思えないくらい内容には詳しかったです」
仲崎はよくゲームの内容を記憶していた。建物の場所やストーリー、そして人物関係までも。
「ゲームに参加していなかったのなら、なぜ彼はそんなにも詳しかったのかな。私もあのゲームについては後でいろいろ調べてみたけれど、それほど多くの資料を集めることは出来なかった」
「それはわかりません。でも、すごくコンピュータゲームに詳しかったです」
そう言ってから美夕はふと思い出した。
確か『ファンタジーロードX』というゲームはアークシステムが作ったものではないと中尾が言っていた。開発したのはネットで有名なハッカー。
(レクス)
もし、仲崎があのシステムを開発した人物だとすれば、ゲームにプレイヤーとして参加していなくても内容を熟知していても不思議なことではない。
「どうしたの?」
北条が訊いた。
「あの……もしかしたら仲崎君があのゲームを作ったということはないかと思って――」
美夕は中尾が話していたことを北条に伝えた。
「なるほど。それなら確かにゲームのことに詳しいのも頷ける」
「彼自身、昔からゲームソフトを作っていたと話していました。いずれはそういう会社を起すつもりだったみたいです。でも、違いますね。仲崎君は『レクス』のことを嫌ってたように見えました」
「ふむ」
北条は小さく頷きながらまだほとんど吸い終わっていないタバコをもみ消した。「君は記憶していないの? ゲームプレイヤーなら、他にゲームに参加していた人のことも憶えているものだろう?」
「いえ……私はゲームのことはほとんど憶えていないんです」
「何も?」
「ええ。他の人たちはあの事故前後のことはともかく、他のことなら結構憶えているんですけど」
「雛子君はどうだった?」
「雛子から聞いていないんですか?」
「ゲームの話は聞かされたことはあったが、その中身についてはあまりね。まさかこんなことになるとも思っていなかったからね」
北条は手のなかでライターを弄びながら言った。
「雛子は事故には遭っていません。だからゲームのことについてはよく憶えています」
「ならなぜ君たちとあの事故について調べていたんだね?」
「雛子は私たちに付き合ってくれていただけです。雛子が一緒だからこそ、一緒に集まることにしたんです。私はゲームの記憶がないから」
「記憶か……そんな記憶なくて良かったじゃないか」
「え? どうしてですか?」
美夕は驚いて聞き返した。
「記憶などただでさえ曖昧なものだ。それにね、本来ならば記憶というものは視覚、触覚、味覚、嗅覚、聴覚といった五感で得た情報を海馬と呼ばれる脳の一部に電気信号のような形で送ることによって得られるものだ。今回のゲームは夢のなかで行なわれたものなのだろう? 通常の記憶とはまったく違っている。君は昨夜見た夢のことをはっきりと記憶しているかい?」
「い……いえ」
「夢などというのは錯覚に等しいものだ。ゲームのことを記憶しているからといって、それはただの錯覚でしかない」
「でも、皆の話はちゃんと合っています」
「システムに夢を制御されているんだ。大部分は合っているだろう。だが、人間は機械ではない。人にはそれぞれ個性がある。性格がある。完全にシステムの一部になりきれるはずがない。君はむしろその記憶に左右されていない。よほど正常な考え方が出来ると思うよ」
北条はまるであのゲームシステムそのものを否定するかのような言い方をした。
「そう……でしょうか」
美夕にはどう答えていいかわからなかった。
「だからあの時の記憶がないことなど気にすることなどはない。ただ、今回の事件を解くためには、曖昧ながらもその時のことを憶えている人間が必要かもしれない。君たちの仲間のなかで誰が一番記憶している?」
「やっぱり西岡さんかもしれません」
「事故に遭ったのは何人だったかな?」
「えっと……今わかっているだけで7人です」
躊躇いがちに美夕は答えた。仲崎が本当にゲームに参加していなかったとなると、今わかっているのは美夕と拓也、小笠原礼子、礼子の息子である秀雄、澤村信彦、事故で死んだ中尾雅彦、そして康平を含めた7人のはずだ。
「ふむ……実際のところ何人くらいが事故に遭ったのだろうね」
「さあ、わかりません」
名波や島崎ならばその情報も掴んでいるのかもしれない。だが、その二人に訊く事が出来ない今、それを知る手立てはない。
「もし、一連の事件がゲームと関係しているとすると、仲崎幸一はゲームにどう関係しているのだろうね。やはり彼について調べる必要がありそうだね」
「どうやって?」
「やはり彼の友人に話を聞くのが一番良いんじゃないか」
「友達? 誰か知っている方がいるんですか?」
「まさか。これから調べるのさ」
北条は笑った。「まあ、学校のデータベースにアクセスすればクラスメイトの資料くらいは手に入れることが出来るだろう」
「それってハッキングってことですか?」
「そういうことだ。少し待っていてもらえるかな」
北条は立ち上がった。
「え? 今から?」
「早いほうがいいだろ?」
北条はテーブルの上に置かれた黒電話の受話器を手にした。「桑島さん? 頼みがあるんだ。仲崎幸一という高校生について調べて欲しい。桐蔭学院に通う1年生だ。クラスメイトの住所一覧があると助かるんだが……急いで頼むよ」
「今のは?」
受話器を降ろす北条に訊いた。
「今、桑島さんが調べてくれるはずだ。あのくらいならそう時間もかからないだろう」
「あの人がハッキングを?」
「そうだよ。驚いているようだね。大丈夫。もともと私にコンピュータのことを教えてくれたのは彼なんだよ」
「そう……ですか」
この屋敷の人々には何から何まで驚かされる。
この人たちはいったい何者なのだろう。自分とはまるで違う人生を送っているような気がする。きっと想像することも難しいのだろう。
10分後、書斎のドアが開き、桑島が姿を現した。美夕の姿を見てニッコリと微笑みかける。その手には一枚の紙が握られていた。
北条は桑島からその紙を受け取ると、それを眺めて満足そうに頷いた。
「さあ、出かけようか」
「もうわかったんですか?」
「あそこの学校は想像以上にセキュリティが低いようだね。これじゃ学校内部の情報全てを見てくれと言っているようなものだ。さ、行こうか」
そう言って北条はすっくと立ち上がった。
「行く? どこへですか?」
「言ったろう。仲崎幸一の友人に会って話を聞くんだ」
「でも、北条さんはここを動かないんじゃ――」
「気が変わった。それだけのことだ」
そんな北条を美夕は唖然と見つめるしかなかった。