6.嘘・1
6.嘘
新谷という刑事が再び美夕の前に現われたのは翌日になってからだった。
授業が終わり、学校を出ると道路わきに黒いセダンが止まっているのが見えた。そのセダンに寄りかかるようにしてダークグレイのスーツを着た新谷が立っている。
いずれ警察がやってくるかもしれないということは美夕にも予想がついていた。そして、やってくるのがこの新谷であることも予感していた。きっと、警察は雛子の事件と仲崎の事件を結びつけて考えているに違いない。そして、名波の死も。
「おかえりなさい」
新谷は美夕に気づくと、爽やかな笑顔を見せひょいと手をあげた。
「何してるんですか?」
「あなたを待ってたんですよ。家まで送りましょう」
そう言うと後部座席のドアを開けた。
その瞳が今日はブラウンに輝いている。
美夕は素直に従った。駅前の本屋に寄ってみようかとも考えていたが、別に今日である必要はない。何よりも美夕自身、仲崎が殺されたことについて新谷から話を聞いてみたかった。
美夕が車に乗り込むと、新谷はその後に続いて後部座席に座った。ドアを閉めると車はゆっくりと動き出す。
美夕の横で新谷が窮屈そうにしながら足を組んだ。
「最近の高校生ってのは華やかなもんですねえ。時代が違うんでしょうかね。私たちが学生の頃とはまるで違って見えますよ」
新谷は駅に向かって流れていく高校生の列を眺めた。
「新谷さん、そんなにオジサンではないでしょ? それに新谷さんだってオシャレじゃないですか」
「私ですか? まさか。全然」
「今日は茶色なんですね」
美夕が言うと、新谷は不思議そうな顔をした。
「何が?」
「コンタクト。この前は青だったでしょ?」
「ああ……これですか?」
と言って新谷は自らの瞳を指差した。
「これは失敗です。妹に頼んだらカラーコンタクトなんて買われちゃったんですよ。捨てるのももったいないから使ってるんだけど、やっぱりおかしいですよね」
新谷は少し照れたように肩を竦めた。それを聞いてハンドルを握る若い刑事までも小さく笑っている。
「ひょっとしてそのネクタイも妹さんが?」
「ええ。わかりますか? なんか高いらしいんですけどね。私なんてその辺で売ってる1本1000円のネクタイで十分なのにね。似合わないでしょ?」
それを聞いて新谷のファッションのアンバランスな理由がわかったような気がした。
「それで? 今日はどうしたんです?」
いつまでも雑談を続けそうな新谷を見て、美夕のほうから問い掛ける。もちろん訊くまでもなく新谷がなぜ再びやってきた理由は想像がついている。
新谷の口元から笑みが消えた。
「仲崎幸一という学生、知ってますよね?」
「知っています」
はっきりと答える。
「彼が殺されたのは知ってますか? 昨日の夕方、六本木の駅のトイレで刺されているのが発見されました」
「ニュースで見ました」
「あなたとはどういう関係ですか?」
「以前、同じオンラインゲームをやったことがあって、それがきっかけで知り合いました」
美夕はありのままを喋った。隠す必要などありはしない。それに新谷がその名前を出すということは、すでに仲崎と知り合いであることを知っているに違いない。
「確か……」
と、手帳を覗き込む。「ファンタジーロードXってやつですね?」
「そうです。もう誰かに聞いてきたんですか?」
「まあね」
新谷は小さく肩を窄めてみせた。「彼が持っていた携帯電話にあなたや西岡拓也さんの名前がありましてね。午前中に西岡さんに大体の話は聞かせてもらってきました。なんでも皆さん、ゲームで事故に遭ったとか?」
「そうです。なぜそんなことになったのか調べようってことになって西岡さんがインターネットで同じ事故に遭った人たちを捜したんです」
「それで仲崎幸一に? 彼とは親しくしていたのですか?」
「親しいってほどじゃありません。実際に会って話をしたのはたった3回だけです」
きっと新谷はそのことについてもすでに拓也から話を聞いているはずだ。
「最後に会ったのはいつですか?」
新谷は表情を変えることなく、手帳にメモをしながらさらに訊いた。
「一昨日です。仲崎君が殺されたことと雛子が殺された事件と何か関係があるんでしょうか?」
「それはまだわかりません。二つの事件が同一犯のやったことと断定するだけの証拠は見つかっていません。二つの事件が関係しているかどうかもまだわかりません。ただ、杉村さんと仲崎幸一が顔見知りであったことを考えると、無関係とは言いきることは出来ません。二人ともゲームを通じて知り合ったわけですよね」
「でも雛子、本当はゲームには参加していませんでした」
「ああ、そのことなんですが……」
新谷は思い出したように言った。「仲崎幸一は本当にゲームに参加していたんでしょうか?」
「違うんですか?」
「その辺が良くわからないんですよ。あなたや西岡さんは事故に遭って、そのまま入院されたそうですね?」
「入院っていっても1泊しただけです。それが何か?」
「これは彼のご両親から伺ってきたことなんですが、事故が起きたあの日、仲崎幸一が自宅に帰ってきたのは夕方なんです。しかもゲーム機器は彼の部屋からは見つけることは出来ませんでした。ゲームをしていたとするといったいどこでしていたのでしょう? もしやっていたとして、事故に遭ったのなら、そんなピンピンした状態で帰ってくるなんておかしいんじゃありませんか?」
「それじゃ仲崎君は嘘を言っていたってことですか?」
「そういうことになるのかもしれませんね」
「どうして……」
「さあ。どうしてでしょうねぇ?」
とぼけているのか、本当にわからないのか、新谷は大げさに首を捻って見せた。
「じゃ、彼が殺されたのと雛子が殺されたのは無関係ってことですか?」
「いえいえ。杉村雛子さんと仲崎幸一君の二人が知り合いであったということは我々も注目しています。そして、二人を繋いでいるのは『ファンタジーロードX』というゲームだけ。彼はいったいなぜそんな嘘をついてまで、あなたたちに接触したのでしょうね?」
「私には……」
美夕は訳がわからずに小さく首を振った。
「事故の原因については何かわかったんですか? そのためにあなたたちは集まっていたのでしょう?」
「まださっぱり」
「原因は見つかりそうですか?」
「いいえ……何の方法も見つからなくて。仲崎君なんて、原因がはっきりするはずないからもう会う必要ないって言ってました」
「では仲崎幸一はみなさんのグループからは抜けたわけですね」
「西岡さんはあとで説得すると言ってました。島崎さんが見つかれば何かわかるかもしれませんけど」
「島崎? ああ、行方不明になっているゲーム会社の社員ですね」
「島崎さんならば顧客リストを持っているはずです。仲崎君が本当にゲームに参加していたのかどうかもわかると思います」
「まあ……確かに」
新谷は浮かない顔をして小さく頷いた。「もし生きていれば話を聞くことも出来るでしょうけどね」
新谷の言葉に、美夕は顔色を変えた。
「それって……島崎さんも殺されているってことですか?」
「いや、そういうわけじゃありません。ただ、どうもおかしいのですよ」
「おかしい?」
「自分で行方をくらました人間であれば、時間はかかっても跡を辿ることが出来るものです。それなのに島崎に関してはまるでそれが見つからない。つまり、自分の意志で姿を消したとは思えないんですよ」
「誰かに誘拐されたってことですか?」
「誘拐? そう……その可能性もありますね。それとももっと手っ取り早く、どこかで殺されているか――」
「そんな……」
美夕は思わず口を押さえた。
「我々もそんなことになっていないことを望んでいますけどね」
「あの……やはり雛子はゲームのせいで殺されたんでしょうか? そういえばこの前、名波さんのことを言ってましたね。何か関係が?」
「さあ。もちろんまだ全ての事件が同一犯の仕業であると決まったわけではありません。ただ、杉村さんの遺体の傍に落ちていた凶器のナイフですが、そのナイフから別の人間の血が採取されました。我々は、それがおそらく名波勝行のものと見ています。ゲームが原因かどうかはまだわかりませんが、ゲームに関係した3人が殺されている事実を考えればまったく無関係とは言えないでしょう。長瀬さんも気をつけてください」
キィーという小さなスキール音を発し、車が家の前で止まった。
「私?」
「ええ。あなただってゲームに参加をしていたわけですからね。犯人が何を狙っているかはわからない今、注意するに越したことはありません」
美夕は新谷に頭を下げるとドアを開けて車を降りた。ドアを閉めた後、後部座席の窓が降りて新谷が顔を出した。
「一つ聞くのを忘れてました」
新谷はポケットのなかからビニール袋を取り出した。「これ、なんだかわかります?」
ビニール袋のなかにはキーホルダーにつけられた鍵が入っている。
「それって仲崎君のじゃないですか?」
「そうです。殺された時、彼が持っていたものです。一つは家の鍵。もう一つが自転車の鍵なんですが、三つ目の鍵が何なのかわかりません。何か彼から聞いていませんか?」
「いえ。何も」
美夕が答えると、新谷は仕方ないと言った様子で小さく頷くと、美夕に向かって軽く手をあげた。
ゆっくりと車が動き出す。美夕はセダンが遠ざかっていくのを見送ってから美夕は玄関のドアを開けた。
(私が狙われている?)
新谷の言葉を思い出し、美夕は身体を震わせた。ふと後ろ手に閉めたドアの鍵をカチリと閉めてから靴を脱いだ。
リビングのほうからテレビの音が聞こえる。きっと咲子だろう。
「ただいまぁ」
ドアを開けて声をかける。咲子はすぐに美夕に顔を向けて口を開いた。
「ねえ。康平なんだけど――」
「何? 康平がどうかしたの?」
「さっき吐いたのよ」
「吐いた?」
「帰ってきて2階で勉強しているみたいだからコーヒーを持っていってあげたのよ。そしたら途端に気持ち悪いって言いだして」
「古いコーヒーでも使ったんじゃないの?」
きっとインスタントコーヒーに決まっている。以前、お歳暮でコーヒーメーカーをもらったことはあったが、一度として使っているところを見たことがない。
「そんなわけないわよ。お母さんだって飲んでみたんだから。全然問題なかったわよ。それにあの子、口にする前から気持ち悪いって言い出したのよ。あんたも飲んでみる?」
「えー、いらないわよ」
「いいから飲んでみてよ」
咲子はスタスタとキッチンに向かうと冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。真っ赤な色合いの小さな缶コーヒー。その缶コーヒーを見た瞬間、背筋にゾクリと寒いものが走った。
以前、駅前のパン屋の前を通った時に感じた嫌な感覚。そういえば、あの時、パン屋の目の前に飾ってあった広告もこの缶コーヒーのものだったような気がする。
「それどうしたの?」
顔をしかめながら美夕は訊いた。
「今日、発売された新商品らしいのよ。駅前のスーパーで安売りしてたわ。何? どうしたの? 顔が青いけど」
そう言いながら缶コーヒーをプシュリと開ける。途端にコーヒーの苦い匂いがプンと鼻をつく。
美夕は思わず顔を背けた。
「ちょっと……やめて」
「何? 嫌なの?」
「……なんか気持ち悪い」
ゾクゾクと寒気がして全身が震えだす。胃袋の奥底からこみ上げてくる嘔吐感に耐えられずに美夕はトイレに駆け込んだ。
(寒い)
ぐらぐらと世界が回って感じられる。
「うぅぅ……」
口のなかに胃液の酸っぱい匂いが広がる。喉がひりひりと痛い。
「美夕! 大丈夫かい?」
すぐ後ろで咲子の声が聞こえる。頭の芯がぼんやりとして、その声はまるで遥か遠くから聞こえてくるように感じる。
鼓動が早い。
心音が全身に響く。
(私……どうしちゃったんだろう……)
自分自身を失わないように美夕はギュッと拳を握り締め、膝に押し付けた。ゆっくりと深呼吸して息を整えようとする。
次第に身体の震えが止まってくる。グラグラと揺れてた世界がやっと治まってきた。
美夕は顔をあげて大きく息を吸い込んだ。
「救急車呼ぶかい?」
美夕はゆっくりと振り返った。
「ううん……もう大丈夫」
「いったいどうしちゃったの?」
いったいなぜこんなことになったのか、それは美夕にもはっきりとはわからなかった。だが――
考えられるのは一つしかない。先日、パン屋の前で寒気がしたのもあの缶コーヒーの広告を見た直後だ。
「ねえ……あのコーヒーだけど……康平も飲んだのよね?」
「そうよ」
「……そう」
美夕は壁に手をつきながらゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫なの?」
「……うん……ちょっと部屋で休むわ」
美夕は小さく頷くと咲子の横を通って階段を登り始めた。まだ足元がわずかにふらつくが、それでもさっきよりはずっと身体が楽になってきている。
階段を登りながらゆっくりと考える。
もともとそれほどコーヒーは好きではなかった。どちらといえばコーヒーよりも紅茶を好んで飲むようにしている。だが、だからといってまるっきりコーヒーが飲めないというわけではない。
では事故の後はどうだろう。
事故の後、美夕自身はコーヒーを口にしていない。だが、拓也たちと集まる時には決まって皆コーヒーを頼む。その香りを嗅いでも具合悪くなったことなど1度もない。
つまり――
(コーヒーそのものが原因ってわけじゃない)
なら、何が原因なのだろう。
さっき缶コーヒーを見せられたあの瞬間、すでに吐気に襲われていた。やはり康平も自分と同じだったのではないだろうか。
(どうして?)
美夕は階段を登ると突き当たりにある康平の部屋のドアをノックした。
「康平、入るわよ」
返事を待たずにドアを開ける。康平はベッドで横になりながらも、携帯ゲーム機で遊んでいるところだった。
「おかえり」
視線を携帯ゲーム機に向けたまま康平は言った。
「吐いたんだって? 大丈夫なの?」
「ん? うん……もう平気だよ」
「なんで?」
「そんなのわかんないよ。急に気持ち悪くなったんだ」
康平はちらりと視線をあげて美夕の顔を見た。そして、不思議そうな表情をした。「なんか青い顔してるな。具合でも悪いのか?」
「私もちょっと具合悪くなったのよ」
「へぇ」
康平は手を止めると、上半身を起こした。「大丈夫かよ?」
「うん」
美夕はベッド脇に座った。「たぶん康平と同じよ。あの缶コーヒーのせいだと思う」
「ああ……母さんが買って来たってやつ? でも、俺、一口飲んだだけだぞ」
「私は一口も飲んでないわ。見ただけで気持ち悪くなった」
話しながら再びあの缶コーヒーを頭のなかに思い浮かべる。それだけでわずかながらも吐気がこみあげてくる気がする。
「だったら違うんじゃねえの? あれ、普通の缶コーヒーだろ? 俺も初めて飲んだけどさ。別に味は悪くなかったと思うし」
「でも、あれのせいだと思う。私、前にも同じようなことになったことあるもの」
「コーヒー、飲めなかったんだっけ?」
「そうじゃないわ。たぶん事故の影響だと思うの」
「事故の?」
康平の顔色が変わった。
「理由はわからないけど、事故の影響であの缶コーヒーを見るだけでたまらなく気分が悪くなるの」
「そ……そう……」
途端に落ち着きがなくなり、視線を左右に動かす。
「康平もそうなんじゃないの?」
「え……な、なんで?」
驚いたように美夕の顔を見返す。
「康平も本当はゲームに参加していたんじゃないの?」
「何言ってんだよ――」
「だからあのコーヒーを飲んで気持ち悪くなったんじゃないの?」
康平は表情を固くして顔を俯かせた。
「そのこと、母さんに言ったのか?」
「言ってない。別に言うつもりもないわ。だから本当のことを言って欲しいの。あのゲームに康平も参加したんでしょ?」
美夕の問いかけに康平はふぅっと小さく息をつき、覚悟を決めたように頷いた。
「うん」
「どうして? 康平がやれないって話で私が参加したんでしょ? 康平、あの日具合悪くて寝てたじゃないの」
「あの後、ダメモトで友達の名前を借りて申し込んだんだ。そしたら運良くクジに当たったんだ」
「じゃあ模擬試験を休んだのは――」
「仮病だよ。そうでもしなきゃ出来ないと思ってさ」
「それじゃやっぱり康平も事故に遭ったの? 私と同じように?」
「うん……俺も気を失って、気づいたのは夜になってからだった。俺は寝てることになってたし、母さんや父さんは姉さんに気を取られていたから気づかれなかったけどね」
「なんで黙ってたの?」
「言えるわけないだろ。模試をサボってゲームしてたなんてさ。それに黙ってれればバレないと思ったんだよ。だいたいあの缶コーヒーと事故がどうして関係あるんだよ? 事故の後だってコーヒーならいくらでも飲んだけど、全然平気だったぜ」
「私も平気だった。でも、あの缶コーヒーだけは違ってた」
「あれだけ特別だっていうのか?」
「たぶん」
「どうして?」
「それは私にもわかんないわよ」
「なんだよ。いい加減だな」
突然、頭のなかに一つの考えが浮かぶ。
「ねえ、康平はゲームのこと憶えてる? ゲームのなかで私と会った?」
「わかんないよ。ゲームのことはまるで憶えてないんだから」
康平は首を振った。
「そう……やっぱり……」
「何でだよ?」
「ううん……別に」
頭に浮かんだことを口に出すのが憚られた。
ひょっとしたらゲームの中、康平も自分と同じ場所にいた可能性が高い。
これまで起きた殺人事件があのゲームに関わっているとすれば、康平もまたその輪のなかの一人なのかもしれない。
「何心配してるんだよ……ひょっとしてこの前の殺人事件のことか?」
言い当てられて美夕はうろたえた。
「え……ええ」
「そ、そんなの俺に関係ないだろ」
「でも、あのゲームに参加してた人のなかで二人が殺されたわ。それにゲーム会社の人も……私たちだって……」
その続きを言うのが怖くて、美夕は言葉を濁した。
「そんな……俺にどうしろって言うんだよ」
うろたえたような目で康平は言った。
「わかんないわよ! 私だっていったい何がどうなってるのかわからないんだから!」
美夕は頭を整理しようとするように額に手を当てた。ふと、頭のなかに北条の顔が浮かび上がってくる。「あの人に話してみるわ」
「あの人?」
「北条って人。あの人ならどうすればいいか教えてくれるかもしれない」
「信用出来る人なのか?」
「たぶんね」
はっきりと信用出来るとは言えなかった。それでも、今は康平を安心させてやりたかった。