5.友情・1
5.友情
自分でも不思議だった。
だが、事件を考えるとき、なぜか北条のことが頭に浮かんでしかたなかった。
必ずしも北条俊介という男を信用しているというわけではない。雛子の死に対するあの態度。決して良い印象を持ってはいない。
それでも、誰かに相談したいと考えた時、真っ先に頭に浮かんできたのはなぜかあの男の顔だった。
翌日の土曜日、美夕は朝9時に家を出ると、一人で名刺に書かれている住所に向かった。
上野駅で営団銀座線に乗り換え、田原町駅で降りる。
名刺の裏には駅から家までの簡単な地図が描かれていた。その地図を見ながら、美夕は北条の家を捜しながら裏通りを歩いていった。
やがて、高いコンクリート塀で囲まれた大きな屋敷が美夕の目に飛び込んできた。
地図がこの辺を指していることは間違いない。だが、その屋敷の門のところには表札も何もかかっていない。
(ここかしら……)
美夕は立ちすくみ、その屋敷をぼんやりと眺めた。
やはり一本電話をいれてから来ればよかったと、後悔の念が浮かぶ。だが、今更引き返す気にもなれない。今からでも電話してみよう、と美夕はトートバッグの中から携帯電話を取り出そうとした。
その時――
「どうかされましたか?」
背後から女性の声が聞こえ、美夕は振り返った。スーパーの買い物袋を持った黒いワンピース姿の若い女性がじっと美夕を見て立っている。肩まで真直ぐに伸びた黒髪。すっきりとした目元。美人だがどこか乾いた感じに見える。歳は自分よりも少し上だろうか。
「あの……ここは北条さんのお宅でしょうか?」
「北条? いいえ、違いますよ」
女性は表情をまったく変えることなくあっさりと答えた。
「それじゃ――」
美夕は名刺に書かれた住所を読み上げた。「この住所のお宅がどこかわかりますか?」
「それはここの住所ですね。その名刺はどうされたんです?」
「北条さんという方からいただいたんです」
「見せていただいてよろしいですか?」
「はい」
美夕は女性に名刺を差し出した。女性は美夕から手渡された名刺をじっと見つめ、それから視線を再び美夕に向けた。
表情はまったく変わらない。
「確かにこれはここの住所ですね」
「それじゃ北条さんは――」
「いいえ。ここにそんな名前の方はいらっしゃいません」
女性は冷たく言うと、名刺を美夕に返した。
「え……それじゃ」
あの男は嘘をついたのだろうか。だが、女性はさらに付け加えた。
「たぶんそれは若先生のものでしょう」
「若先生?」
「お入りになりますか?」
女性はそう言いながら門の脇の小さな扉を開ける。
「あの……あなたはこのお家の方なんですか?」
「ここで働いています。水島香織と申します。どうぞ」
「……はい」
戸惑いながらも女性に促されるままに扉をくぐる。真っ黒な屋敷と真っ白な屋敷。左右対称の大きな屋敷が2軒、ピタリと寄り添うように建っている。門からそれぞれの屋敷に向かい赤と黄色の煉瓦道が続いている。
「こちらです」
女性の案内に従い、向かって左側に見える黒い屋敷の玄関に向かって歩いていく。庭にはポプラやツツジ、柊などの木々が植えられている。しっかりと手入れが行き届いているようだ。
「あの……若先生というのは?」
「たぶんあなたが捜している人だと思いますよ」
水島は真直ぐに正面を向いたまま答えた。
「でも、北条さんという人はここにはいないのでしょう? どういうことですか?」
「私には答えられません。それは若先生に直接訊いて下さい。どうぞ」
水島は玄関の黒いドアを開けた。
「お邪魔します」
「桑島さぁん」
女性が奥に向かって声をかける。すると奥のほうから一人の老人が姿を現した。真っ白な髪。黒いスーツを着て分厚い眼鏡をかけている。
「どうしました?」
老人はゆっくり歩いてくると美夕の前に立つと柔らかな笑顔を見せながら、丁寧な口調で言った。「おや。お客様ですか?」
「どうやら若先生にお会いに来られたようです。桑島さんお願いします」
「私、この屋敷の執事をしております桑島と申します。若先生に何か御用でしょうか?」
桑島という老人は真直ぐに美夕を見ながら訊いた。
「――先日、この名刺をいただきまして――」
美夕は急いで名刺を老人に向けて見せた。
「これって若先生のものですよね」
水島が脇から口を挟む。
「なるほど確かにこれは若先生のものらしいですね。どうぞお上がりください」
「……はい」
躊躇いながらも美夕は素直に靴を脱いだ。
老人はその美夕の姿を眺めながら、ちらりと脇に立つ女性へと視線を向け――
「水島さん、後でお茶をお持ちしてください」と丁寧に言った。
「わかりました」
水島はそう答えると奥へと去っていく。
「では、こちらへどうぞ」
丁寧な仕草で老人はリビングのドアを開けると中へと案内してくれた。広いリビング。黒い革張りに大理石のテーブル。だが、その部屋からはどこかチグハグした印象を受けた。部屋の隅には西洋の鎧、部屋の正面には茶道の道具が飾られている。
これも北条の趣味なのだろうか。
「北条さんというのは――」
「ただいま若先生のことをお呼びしてまいります。どうぞこちらでお待ちください」
北条のことを訊こうとする美夕の言葉を遮り、老人は軽く一礼するとリビングを出て行った。
美夕はソファに座り部屋を見回す。昼だというのにカーテンが閉められ、室内は蛍光灯の弱い光だけが部屋を照らしている。
(いったいどうなってるの?)
混乱していた。
いったい北条俊介とは何者なのだろう。これほど大きな屋敷に住み、『若先生』と呼ばれていることにも驚かされるが、それにも増して『北条俊介』という名前が偽りであったかもしれないことに美夕はショックを受けていた。
やがて――
リビングのドアが静かに開いた。本能的に美夕は立ち上がった。
「わざわざ訪ねて来てくれるとは思わなかったな」
北条だった。黒いズボンに白いシャツ。屋敷のなかだというのに、先日と同じように大きなサングラスをかけている。
「突然、すいません」
「どうぞ座ってください」
北条はそう言いながら美夕の正面に腰をおろした。美夕もソファに座る。
「あの……どういうことでしょうか?」
「どういうって?」
座るやいなや、北条はタバコを咥えると銀色のライターで火をつけた。
「この名刺、嘘だったんですか?」
美夕は名刺をテーブルの上に置いた。
「嘘? 何か間違いがあったかな? 君はその名刺の地図に沿ってここに来たんじゃないのかい?」
「地図のことじゃありません。名前の事です」
「どんな名刺だっけ?」
北条は名刺を手に取ると、自分の名刺を眺めた。「これに何か問題でも?」
「この名前、嘘なんじゃありませんか? さっきここの女性にあなたの名前を言ったら、そんな人はいないと言われました」
「ああ、そういうことか。水島さんはキツイからねえ」
北条は宙に向かってふっと紫煙を吐くと、ニヤリと笑った。「けど、そんなこと気にすることもないだろう」
「そんなこと?」
「名前というのは個人を特定するためにあるものだ。私はただ君に私を特定するキーワードを与えたに過ぎない。君にとっては私が『北条俊介』であればそれでいいことだろう?」
「そんな――」
「それとも私がもっと違う名前であれば、君の行動は変わっていたのかな?」
「……そうじゃありませんけど……」
どう言い返していいかわからず、美夕は口を尖らせた。
「なら気にすることはない」
「そんな――それじゃあなたは一体何者なんですか?」
「私は私でしかないよ。君が何を知りたいのかはよくわかるが、私にはそれを与えるだけの力はない」
「え?」
「私はこの世に存在していても、存在していないのと同じなのだからね」
いったいこの男は何を言っているのだろう。
「意味がわかりません」
「――だろうね」
北条は小さく笑った。「はっきり言うと私は戸籍を持っていないのだよ」
「え?」
「存在していて存在してない。いわば生きながら幽霊になってしまったようなものだ。それが私なんだ」
小さくドアをノックする音が聞こえ、さきほどの水島香織が姿を現す。手に持ったトレイにはコーヒーカップが二つ並んでいる。
「どうぞ」
と小さく言って、水島は美夕と北条の前にコーヒーを置いた。コーヒーの苦い香りがすぐに部屋に満たされる。
「水島さん」
立ち去ろうとする水島に北条が声をかける。
「何でしょうか?」
水島は足を止め、北条に向かって真っ直ぐに立った。
「私はこの子の前では『北条俊介』と名乗っている。覚えておいてくれ」
「私には関係のないことです。どうぞご自由に」
水島は冷淡に答えると小さく頭を下げ、すぐにリビングから出て行った。
「彼女、おもしろい人だろう? 彼女がここに来てもう何年も経つが、私は彼女が笑ったところを見たことがない」
何か可笑しいのか、北条はクックックと小さく笑いながら灰皿でタバコの火をもみ消した。
だが、美夕にとっては、水島香織のことよりも目の前にいるこの男のほうがずっと問題だった。
「さっきのお話ですが、戸籍がないというのはどういうことです?」
「言葉の通りだよ」
「でも、家族の人くらいいるんでしょう?」
「そうだね。でも会ったことはないよ。いや、子供の頃に1度や2度は会っているのかもしれないな。なんでも私には弟がいるらしい。隣に白い屋敷があったろう? あれは弟がいずれ住むために建てられたものだ」
ふざけているのだろうか。だが、嘘を言っているようにも見えない。
「念のために訊いておきますけど……フリーライターというのは?」
「ああ。悪い悪い。それだけは嘘と言っていいだろうね。一応、何か肩書きがあったほうがそれらしく見えるだろうと思ってね。ただフリーライターなど誰が名乗っても、そんなものは『自称』でしかないだろう。名刺など、誰でもどのようなものでも作る事が出来るからね」
北条は悪びれることなく言った。
「雛子と知りあいというのも嘘だったんですか?」
まさかと思いながらも美夕は訊いた。
「それは本当のことだよ。初めて話をしたのは5年前のことだ」
わずかながらほっとする。
「どうやって知り合ったんですか?」
「ちょっとした事故でね。その後、彼女はよくここに来ては学校でのことは家でのことをいろいろ話していくようになった」
「どうしてあなたに?」
「彼女にとってはべつに私である必要はなかったのだろう。人間というのは弱いものだ。ただ無性に話をしたくなるということがある。それも家族や友人という身近な人には言えないことということがね」
「雛子はあなたに何を話したんですか?」
「それは君が知る必要のないことだ」
そう言って北条はコーヒーを啜った。
「失礼ですけど、北条さんは何をされている方なんですか?」
「何をって?」
「仕事です。さっきフリーライターは嘘と言いましたよね」
すると北条はフンと鼻で笑った。
「幽霊は働かないよ」
「さっき戸籍がないと言いましたよね。どうしてそんなことに?」
「我が家にもいろいろと事情があってね。まあ、今は幸いにも働かなければいけない環境にもないのだがね」
「さきほどの人たちは北条さんに仕えている方たちですか?」
「さあ……仕えているというわけではないだろうな。私が彼らを雇っているわけではないからね。どちらかというと私を見張っているというほうが正しいかもしれない」
「見張っている?」
驚く美夕を見て、北条はさも可笑しそうに笑った。
「冗談だよ。それより今日は? まさか私に興味を持ったわけではないだろう? さしづめ雛子君のことだろう?」
「……ええ」
「何かあったかな?」
「いえ、そういうわけじゃありません」
美夕は躊躇いがちに言った。「ただ、雛子がどうして殺されたのか、私にはどうしてもわからなくて……」
「それはそうだろう。それがわかるくらいなら事件を解決することが出来る」
北条はまるでからかうように言った。
「そういうことじゃなくて……だって雛子って誰かに恨まれるようにはとても思えなくて……」
「必ずしも殺人イコール怨恨というわけじゃあない。人を傷つけたから殺される場合もあれば、人に優しくしたことで殺されることもある。世の中というのは実に奇妙で不公平に出来ている」
「それはそうかもしれないけど……でも、雛子が殺されるなんて……私にはどうしても納得出来ないんです」
「納得?」
北条の声のトーンがわずかに変わった。「なら君は誰が殺されるなら納得出来るんだ?」
「そんなこと言ってません。私はただ――」
「君は雛子君と親しかったのか?」
鋭い口調で北条は訊いた。
「親しいっていえるかどうかはわからないけど……普通に仲良くしていました」
「普通……か。ずいぶん漠然とした表現だね。では、どのくらい彼女のことを知っていた?」
「え……」
美夕はどう答えていいか迷った。いったい自分はどれほど雛子のこと何を知っていただろう。
(いや――)
何も知ってはいない。1年の時もそれほど親しくしていたわけでもない。つい最近になってゲームを通じて話をするようになっただけだ。しかも、いつもゲームのことがほとんどで、プライベートに関してあまり話はしなかった。
「君は雛子君が人に恨まれるような子ではないと考えているようだが、雛子君は君が思っているような人ではなかったかもしれない」
「それじゃ雛子は誰かに恨まれて殺されたっていうんですか?」
「その可能性がゼロではないと言っているだけだ。もし、君が探偵の真似事をしたいというならちゃんと憶えておくべきだ。初めから自分勝手な思い込みで全ての可能性を排除してはならない。君はただ感情に流されているだけだ。もっと冷静に自分にどれほどの力があるのか考えてみたほうがいい」
「私は別に……そんなつもりは……」
「そう? それなら私も余計なことは言わないがね」
北条は冷めた態度で美夕を見た。まるで『おまえはその程度なのだ』と言っているような北条の口ぶりに急に怒りがフツフツと湧き上がってくる。
きっとサングラスの奥では自分に対して軽蔑の眼差しを投げかけているに違いない。
「それじゃあなたはどうなんですか?」
美夕は思わず言い返した。
「どうとは?」
「あなたはどのくらい雛子のことを知っているんです? なぜあなたは事件のことを調べようとしないんです? 事件に興味があるんじゃなかったんですか?」
「それは警察の仕事だ。私がやるべきことではない」
「本当にそう思っているんですか? 北条さんが言うのを聞いていると、自分なら事件を解く事が出来ると言っているように聞こえます」
「そうかな?」
北条は顎に手を添えて首を傾げた。「ふむ。確かにそういう気持ちがないと言えば嘘になるかもしれないな」
「それなら雛子のために何かしてあげるべきじゃないんですか。あなただって雛子と親しかったんでしょう? あなたが言うように私には何の力もないかもしれません。でも、あなたみたいにただ冷酷に傍観していることなんて出来ません!」
胸のなかのモヤモヤを一気に吐き出すように美夕は言った。自分でもハッとするほど大きな声だった。
北条は一瞬、驚いたように美夕を見つめ、それからニヤリと口元を歪めた。
「君は自分が何を言っているのかわかっているのか? 計算か……それとも無意識のうちか……」
「私はべつに――」
「君は何を知りたいのだね? 犯人かね? 彼女が殺された理由かね?」
「真実を」
「真実? そうか真実か」
北条はフッと笑みを漏らす。「なるほどね。確かに君の言うのも一理ある。彼女が最後に電話したのは君だったそうだね」
「ええ……」
「彼女は何か言っていたのか?」
「いえ、何も」
北条は何を考えているのだろう。
確かに雛子からの最後の電話を受け取ったことは事実だ。だが、そこに事件を解くような鍵があるとは思えない。
「何も? 君は彼女の声を聞いたわけではないのか?」
「違います。でも、彼女の携帯からのものでした」
「携帯電話は彼女の死んだ場所にあったんだね?」
「そうです」
わずかに考え込むように北条は額に手を当てた。それからおもむろに顔をあげると言った。
「いいだろう」
「いいって……?」
「君の犯人捜しに乗ってあげようじゃないか」
「それじゃ――」
「だが、勘違いするんじゃない。事件を捜査するのは私ではない、君だ」
北条はそう言って美夕の顔に向けて指を刺す。
「私……ですか?」
「そうだ。私は君の手伝いをするだけだ」
「私は何をすれば?」
「君は真実が知りたいのだろう。ならば、まず君は雛子君のことをもっと知らなければいけない。彼女が何を思い、何を考え、どんなことを悩んでいたか。まずはそれを知るべきだ。そうでなければ真実など見つかりはしない」
「私がそれを?」
「そうだよ。出来るね」
有無を言わさぬような瞳でじっと美夕を見る。自信はないが、それでも頷くよりほかない。
「……はい」
「ならば、雛子君がどのような人だったか、それがわかったらまた来なさい」
そう言うと北条はサッと立ち上がりリビングを出て行った。