1.ゲーム・1
心地よい温もりのなか、誰かの声が聞こえた気がして長瀬美夕はふと目を覚ました。
ゆっくりと寝返りをうつと、ベッド脇の目覚まし時計へと視線を向ける。
午前8時20分。
頭のなかで今日が日曜である事を確認して、再び目を閉じる。
部屋の外では言い争うような声が聞こえてくる。言い争っているのはどうやら母の咲子と弟の康平らしい。美夕より2歳年下の康平は中学3年で、受験を控えストレスが溜まっているのか、最近ではよく咲子と喧嘩することが多かった。
(まったく日曜の朝から何やってるんだろ)
美夕はその声から自分を守るように、ベッドのなかに潜り込んで丸まった。これなら廊下から聞こえてくる声を気にせずに、再び眠りにつくことが出来る。休みの前日は夜遅くまで本を読むのが習慣になっている。昨夜も午前3時頃まで起きていたため、まだまだ身体は眠りを欲している。
1分も経たないうちに、ベッドのなかの温もりが再び美夕に睡魔を運んできた。
だが――
「美夕」
その大きな声にたちまち現実に引き戻される。はっとしてベッドから顔を出すと、咲子がドアを開けてズカズカと部屋のなかに入ってくるのが見えた。
「……何よぉ」
美夕は思わず険しい目で咲子を睨んだ。「どうして勝手に入ってくるのよ」
だが、咲子はそんなことはお構いなしで美夕の前に立つと口を開いた。
「いつまで寝てるのよ? そろそろ起きなさい」
美夕が小学生の頃にはもっと痩せて綺麗だった記憶があるが、今の咲子は年齢に従い丸く太り、それに伴うようにすっかりオバサン化している。
「いいじゃないの。日曜くらいゆっくり寝かせてよ」
いくら母親とはいえ、少しくらいの遠慮はして欲しい。
「もう8時過ぎてるじゃないの。夜遅くまで起きてるからいつまでも眠いのよ。こんな良い天気なのにいつまでも寝ていたらもったいないでしょ」
咲子は窓に近づくとカーテンを開いて日差しを部屋に導きいれた。春の柔らく暖かい光。開けられた窓から真っ青に晴れ渡った空が見える。
その眩しさに美夕は目を覆った。
「まだ8時じゃないの……何なのよ、もう……」
美夕は咲子に背を向けた。だが、咲子は遠慮なく美夕の身体をゆすった。
「いいから。ねえ、ちょっと起きなさいよ」
「何よぉ」
ムッとして振り返る美夕の目の前に咲子は一つの箱を差し出した。
「これなんだけど――」
「何、それ?」
美夕はさっと箱に視線を走らせた。箱には地球の絵、そしてその手前には東京の街が描かれている。
「康平が持ってたのよ。ゲーム機なんだって」
困ったような顔で咲子は言った。
「何? また買ったの?」
ゲームは康平の趣味だ。新しいゲーム機が発売されるたびに買い込んでくる。
「今年は受験だって言うのに、いつまでもゲームで遊んでて困っちゃうわよ」
「そんなことを言うために私を起こしたの? いいじゃないの、ゲームくらい。勝手にやらせておけば?」
「受験に落ちたらどうするのよ?」
「それは康平の人生なんだからいいじゃないの」
「何言ってるのよ」
咲子は目を吊り上げた。「美夕だって、お姉さんなんだからちゃんと康平のことを考えて頂戴」
何て無神経なことを……と美夕は思う。美夕自身、去年、受験に失敗して第一志望である桐蔭学院には入ることが出来なかった。担任からは入学間違いなしと太鼓判を押され、美夕自身も落ちることなどまるで想像していなかったというのに。
あれから1年。今でもあのことは心の傷になっている。
きっと母がこれほどまでに康平の受験に気を使うのも、美夕が受験に失敗しているからかもしれない。それでも少しは気遣って欲しいと思う。
「私にどうしろっていうのよ。康平がゲームしないように見張ってろとでも言うの?」
うんざりしながら美夕は仕方なく起き上がった。すでに二度寝するタイミングは逃してしまった。
「康平が言うには、これは特別なゲームらしいのよ。なんでも来週の日曜日に時間を決めて、日本中の人たちが一斉にゲームをやるように決められているんですって」
「ふぅん……面倒なのね。それってオンラインゲームなの?」
肩まである栗色に染めた髪を手ですきながら美夕は訊いた。康平が最近パソコンのオンラインゲームにハマッているということは美夕も知っている。だが、美夕にはゲームにも康平の受験にも興味はない。
「オンライン……? そんなのお母さんにはわからないわよ。いずれにしてもそのゲームに参加するって康平が申し込んでしまったらしいの」
「んじゃ日曜くらいしょうがないんじゃない? やらせてあげれば?」
「ダメよ!」
咲子は声を張り上げた。「来週の日曜は学校で模擬試験があるんだから」
「んじゃどーするのよ?」
「だからね――」
と、急に咲子は声を和らげた。「あんた、康平の代わりに参加してくれない?」
「何? 冗談?」
美夕は大きな目をますます大きくして咲子の顔を見た。だが、咲子はあくまでも真剣な表情を崩さない。
「ほんの2時間くらいなんだって。いいでしょ?」
「だったらお母さんがやればいいじゃないの」
「私にそんなことが出来るわけないでしょ。ねえ」
咲子はそう言って箱を美夕の手のなかに押し付けた。
「まったく」
小さくため息をついて箱を覗き込む。箱の隅には『新しい自分に出会う!』とキャッチコピーが書かれている。
それが全ての始まりだった。