3.記憶・6
午後6時。
仲崎は一人タクシーで、中尾は小笠原礼子と澤村を車に乗せて帰っていった。
「あぁあ、疲れた」
両腕を空へ突き上げて、ぐっと背筋を伸ばす。
「ご苦労様」
拓也が労うように言う。
「本当にこんなことで原因なんてわかるんでしょうか」
あの後、それぞれが記憶していることを話し合ったが、皆、あの事故前後の記憶はほとんどと言っていいほどなかった。最もゲームのことについて詳しく知っていたのは雛子だったが、今日はほとんど口を挟もうとはしなかった。彼女はもともと事故に遭ったわけでもなく、ゲームプレイヤーだったわけでもない。全てゲーム前後にネットの掲示板で仕入れた情報だ。あまり詳しく話をすることで、事故に遭っていないことがバレることを警戒したのだろう。
「大丈夫。すべての原因が事故に遭った8人なのか、それとももっと違うことが原因か、いずれはっきりするよ」
そう言うと視線を雛子へ向ける。「さ、雛ちゃん、俺たちも帰ろうか」
「あ……うん」
疲れたのか、どこか雛子は口数が少ない。
「それじゃ、また」
拓也は雛子と共に帰っていった。
二人の家はここから線路沿いに歩いて15分程度のところにある。
美夕は一度、駅ビルの本屋へ向かい、そこで雑誌を買ってからバスターミナルへ向かう。5分ほどでバスがやってきた。
胡録台でバスを降り、西の空を見上げる。
空は赤く染まり、薄闇が街を包み始めている。
会合の後、美夕と拓也、そして雛子の3人になった時に拓也が言った言葉を思い出す。
パン屋の前を通ると、大きな看板が立っているのが目に付いた。今朝、登校する時にはなかったものだ。新商品のコーヒーの広告が載っている。
その瞬間――美夕は軽い吐き気を覚え、胸を押さえた。
ゾクリと寒気が背中を走る。
その感覚に先日の事故のことを思い出す。これはまるであの事故の時と同じ感覚だ。
鼓動が速い。
(この看板のせい?)
そんなバカな……
そう思いつつも、美夕はその看板から視線を背けて早足で通り抜けた。次第に鼓動は落ち着き、身体の震えが収まってくる。
(どうしちゃったんだろう)
あの事故が原因で何か身体に異変が起きているのだろうか。
ふと、立ち止まり振り返ろうとした瞬間、バッグの中の携帯電話が震えだした。美夕はすぐにバッグのなかから携帯電話を取り出した。
サブディスプレイに雛子の名前が表示されている。
「――はい」
携帯電話を耳に当てる。だが、そこからはいつもの雛子の明るい声は聞こえてはこない。
「雛子?」
もう一度声をかける。すると――
――……美夕
微かに力のない声が聞こえた。その背後で微かに何か音が聞こえてくる。
(何の音?)
オルゴールの音のような微かなメロディー。
「雛子? 雛子なの?」
美夕は雛子に呼びかけた。だが、それでも反応はない。
「何? いったいどうしたの?」
――……助けて……あげ……
「雛子!」
――……拓ちゃん……に伝えて……
「何? 何なの?」
――……大丈夫だからって……
ブツリと電話が切れた。
背筋をゾクリとした嫌な寒気が通り抜け、全身に広がっていく。美夕は思わず首を竦めた。
(何……何なの?)
喉が渇き、指先が震える。
美夕はすぐに雛子に電話をかけた。だが、聞こえてきたのは留守番電話サービスのアナウンスだった。
(……どうしよう)
雛子に何かが起きたのだということはすぐに想像が出来た。だが、どうすればいいのか頭のなかが混乱している。
じっと携帯電話を見つめる。
(そうだ)
拓也のことを思い出した。確か家が近くだと言っていたはずだ。
美夕は震える指で拓也の携帯に電話した。
1回……2回……やがて――
――……はい。
拓也の声が聞こえてきた。
「西岡さん!」
――長瀬さん? どうしたの?
「雛子……雛子の様子がおかしいんです。何かあったんじゃないでしょうか?」
美夕は不安から逃れようとするように必死に喋りかけた。
――ちょっと落ち着いて話してくれるかな?
拓也の言葉に、美夕は落ち着きを取り戻そうと大きく一つ深呼吸してから改めて口を開いた。
「西岡さん、雛子と一緒に帰りましたよね」
――途中までね。でも、途中で別れたよ。今ごろはもう家に帰ってるんじゃないかな」
「今、雛子から電話があったんです」
――今? 本当に? それで? あいつ君に何を?
「それがなんか変な電話で……何か雛子にあったんじゃないかって……」
美夕の思いが伝わったのだろう。拓也の口調が真剣なものに変わった。
――わかった。今からちょっと行ってみるよ」
「私も行きます」
(お願い! 無事でいて)
美夕は駅に向かって走り出しながら、心のなかで祈りつづけた。
15分後。
陽が落ち始め、辺りはわずかに暗くなってきている。
美夕は駅裏から東に伸びる細い通りを走っていた。雛子の家がどこにあるのかは知らないが、だいたいの場所は以前、雛子から聞いて知っている。
コンビニの角を曲がると、同じような煉瓦調の家が立ち並んでいる。そのうち一軒の家の玄関前に黒いトレーナー姿の拓也が立っているのが見えた。
「西岡さん!」
美夕が走っていくと、拓也が庭先まで出てきた。
「長瀬さん」
「雛子……雛子は?」
肩で息をしながら拓也に訊く。拓也は小さく首を振った。
「帰っていると思ったんだけどね」
「……いないんですか?」
「ああ。携帯に電話をしてみてもつながらないんだ」
それは美夕もわかっている。ここまで来る途中、何度か携帯に電話をいれてみた。それでも返ってくるのは留守番電話サービスのメッセージだけだった。
「どこ行っちゃったんでしょう?」
「わからない」
「警察に連絡は?」
「さっき、雛ちゃんのお母さんに話をしたところだよ。警察に今、連絡してもらってる
「雛子のお母さんは中ですか?」
さっきの電話のことを話しておいたほうがいいだろう、と美夕は門から庭に入ろうとした。だが、拓也がそれを止める。
「長瀬さん、もう一度教えてくれないかな?」
「何をですか?」
「雛ちゃんの電話のことだよ。彼女、君に何を言ったんだい?」
「何って……」
気持ちを鎮め、あの時のことを思い出そうとする。「『助けて』って……あと、西岡さんに『大丈夫』って伝えてくれって」
「彼女が言ったのはそれだけ?」
拓也は少し意外そうな表情をした。
「ええ。何のことかわかりますか?」
「いや……」
拓也は、まったくわからないというように首を傾げた。
「何があったんでしょう」
「わからない。でも、何かトラブルに巻き込まれたのかもしれない」
「早く見つけないと」
「うん。君は一度、雛ちゃんのお母さんにその電話のことを話してあげてくれ。俺はその辺を捜してくるから」
拓也はそう言うと、美夕の肩をポンと叩いて駅のほうへ向かって走り始めた。