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Piece 8.  十九番目の夏



 僕は夏が好きだ。

 地元は標高が高いせいもあって、かなり涼しい地域だった。だから、京都に出てきた僕は、盆地特有の暑さに参っているわけだけど……それでも、僕は夏が大好きなのだ。

 小学生の頃、夏休みはキラキラした宝物みたいな期間だったことを覚えている。あんまり両親の仲が良くなかったから、家族で夏休みらしいイベントがあったわけではない。だけど……それでも、七月二十日から八月三十一日までの期間は、僕にとって一年で一番大切な時間だった。

 暑い陽射し、ラジオ体操、プール、ひまわり、花火、祭り、夜店、入道雲、青い海。

 世界が最も輝く夏の季節は、僕にとって宝物だった。

 だから……毎年、八月三十一日はすごく淋しい。九月一日から急に涼しくなるわけでもないし、夏が終わるわけでもない。……それでも、僕にとっては八月三十一日が夏の終わりなのだ。一年で一番楽しい時間の、最後の日なのだ。

 そして、僕にとって十九番目の夏も、今日で終わろうとしていた。

『もしもし? 新見くん? どうしたの?』

「ああ、すいません、チーフ。お仕事中なのに」

『それは別にいいけど……何か用?』

「ちょっと久遠寺さんに緊急の用事があるんですけど……彼女、今日は木屋町でライブでしたよね? 時間と場所、ご存知ありませんか?」

『え? わかるけど……。ちょっと待ってね。確かメモが……』

 自分で自分にびっくりする。よくもまぁ、こんな大胆な行動ができるものだ。あれからバイトはサボりっぱなしだし、そもそも大して仲の良くないチーフへ、仕事中に私用で電話するなんて。

 人間、変われば変わるものである。……いや、ひょっとするとこれが本来、人間として普通なのかもしれない。自分の『やりたいこと』がわかったら、あとはそれの実現に向けて自動的に体が動く。少々無茶な行動でも、容易にこなす。なぜならそれが、自分にとって大切な『やりたいこと』に繋がっているのだから。

 電話の先でガサゴソやっていたチーフは、しばらくしてメモを見つけたらしく、本日、愛歌が路上ソロライブをする時間と場所を教えてくれた。

「ありがとうございます。助かりました」

『いえいえ。どういたしまして。新見くん、バイト中よく走ってくれるしね』

 ……走りたくないんだけど、チーフが指示するから仕方ないじゃないですか。そんな言葉を飲み込んだ。

しかし、それで今回、愛歌の情報を教えてもらえたのだから、それはそれでいい。恩は売れるときに売っておくべきなんだなぁ……とか、そんな黒いことを思った。

『あ。それと、この前はありがとね。私の誕生日プレゼント。あれ、すっごく気に入ったよ! いいセンスしてるじゃん、新見くん!』

 そう言えば結局、あの時のお茶の代金の半分を返してもらってない。ひょっとするとあれは愛歌と僕からのプレゼント……いや、下手したら僕一人からのプレゼントとして処理されているのかもしれない。バイトをサボってるから仕方ないんだけど。それでも、僕個人から女性のチーフにプレゼントしたという事実は、なんか、ちょっと恥ずかしかった。

『また何かお礼させてね。あ、そうだ。新見くんの誕生日にでも――』

「それなら、もう一つ、お願いしてもいいですか?」

 恩は売れるときに売るべし。そして、恩をもらえる時はガッツリもらうべし。そんな言葉が頭に浮かんだ。気弱な僕はどこに行ってしまったのだろう。こういうのは僕じゃなくて、あの師匠の領分なのに。

「――――久遠寺さんの彼氏について、教えてください」



 愛歌の路上ライブは、夕方から木屋町の鴨川沿いで行われるらしい。

 年齢的にもその辺りが補導されないギリギリの時刻だ。あの辺りはガラの悪い人も多いし、そういう意味でも日没までにライブが終了するのは喜ばしいことであった。

 僕は予定時刻まで四条のモスバーガーで時間を潰し、ライブ開始時刻の十分前に予定場所に着いた。

 そこに、愛歌がいた。

 もう気持ちの整理はついたのだから、別にどうってことはない……なんて思っていたのは、やっぱり強がりだったみたいだ。黒を基調としたTシャツとミニスカートに身を包み、ギターを抱えて真剣な顔をしている彼女を見て、僕は言いようのない感情に包まれる。右脳の力を取り戻したのは失敗だったかな、なんて、一人で渾身のギャグを思った。

 そうこうしている内に、愛歌がマイクを通して軽い挨拶を始めた。知り合いなのか、はたまた常連なのか……すでに軽く人垣ができている。色んなタイプの歌手がいるけれど、こういう場合は挨拶があった方が印象良いだろうなと、そんなことを思いながら……僕は、周囲の人間に視線を配った。

 いるはずだ、絶対。

 なぜか、そんな確信めいたものがある。

 ここに来る保証は無いし、もし来ていたとしても、僕が見つけられるという保証も無い。それでも、なぜか僕には、今日ここで必ず『そいつ』と会い、その後そいつとどうなるかまで鮮明にイメージできた。こういうのを第六感と言うのかもしれない。

 愛歌が一曲目の演奏と歌唱を始める。ギャラリーはざっと十五人弱。その中で身長が異様に高い人間は――三人。その中で肩にかかりそうなほどの長髪は二人。そしてその一人は――髪に赤いメッシュを入れていた。

「あの……すいません。ひょっとして、久遠寺さんの彼氏さんですか?」

 その男に近寄って、にこやかに話しかける。THE・営業スマイル。

「はあ? そうだけど……お前、誰?」

「僕は新見と言いまして、久遠寺さんと一緒のバイト先に勤めている者です。……で、ちょっとバイト先で変な噂を聞きまして」

 男を見上げる。背が高いと聞いていたけど、これはすごい。下手したら一九〇センチくらいあるんじゃないのか。

「なんか、彼氏さんが久遠寺さんに暴力を振るっているとか、なんとか。で、その辺どうなのかなーって思いまして。嘘だったら、そういう噂、よくないじゃないですか」

 あくまで笑顔を保ったまま、善人面して尋ねる。

 ロンゲの男は僕の質問を聞いて、少し気分を害したようだ。苛立ったように視線を愛歌に投げ、すぐにまた僕に向き直る。

「そんなもんは根も葉もねー噂だ。否定しといてくれ」

 視線を逸らす。僅かに身体が強張っている。息も少し乱れた。おそらく、脈拍も少し早くなっているはず。……なんでそんなことが分かるのか、自分でも謎だった。ただ、なぜか確信を持ってそう思った。これも第六感だろうか? それらを総合して、この男が嘘をついているというのも確信した。

 愛歌の曲がラストのサビに差し掛かる。アップテンポな曲調にギャラリーのテンションも高まっていく。

「……もう、いいか?」

「いやいや、待ってくださいよ」

 バツが悪そうに立ち去ろうとする男の肩を笑顔で掴む。これだけ身長差があるから、手が届くか不安だったけど……どうやらリーチの問題は無いようだ。よかった。本当によかった。これで、心置きなく――


 殴れる!!!


 男との距離は一歩くらいしか離れていなかった。だからすぐに近付けたし、むしろ助走距離としては適切と言ってもいいほどの間合いだった。その距離をフルに使って勢いを乗せ、僕の右拳を男の顔面に叩き込んだ。

 人を殴るのは人生で初めてだったけど、結構サマになっていたと思う。日頃から格闘マンガを読んでいるお陰かもしれない。

 あまりに不意打ちだったせいで素人の拳をモロに喰らった男がよろめく。口の端には血が滲んでいた。犬歯で切ったか。いい気味だ。だけど、ひ弱な僕のパンチ一発程度でダウンするような男じゃない。すぐにお返しが飛んできた。

「ぐっ!?」

 痛い。なんて痛さだ。

 僕のパンチを受けて男は軽くよろめいただけだったけど、僕は派手に吹っ飛び、コンクリートの路上を転がった。

「…………っ! …………!!」

 男が大声で何かを叫んでいる。

 ギャラリーも何事かと振り返っている人間がちらほらいた。

 ……知ったことか。

「死ねっっっ!!!」

 再び男に殴りかかる。ロンゲからもらった一撃だけで僕の脚は震えていたけど、そんなことは関係ない。ただ、気に入らないこいつを殴るということだけ考えて、僕は前に出た。

 僕の拳は男の顎に軽く当たった程度で、とてもじゃないがクリーンヒットとは呼べないような一撃だった。そして間髪いれずに反撃が飛んでくる。左から顔面を殴打され、情けなくよろめく。そこに体格差を利用した蹴りまで飛んできて、僕は再び地面を転がった。

 そして、また立ち上がる。


 何がしたいかなんて、わかんないよ。

 何ができるかなんて、わかんないよ。

 ずっと必死に生きてきて。

 ずっと目の前のことに追われて生きてきて。

 それで今、自分が本当に何がしたいかなんて、わかるわけがない。

 一時の感情に流されて。

 腹が立つ男に殴りかかって。

 返り討ちにあって、地面を転がる。

 それで何かが変わるとは到底思えない。

 愛歌が振り向いてくれるわけじゃないし、この男が暴力をやめるわけでもない。

 僕がやっていることは完全に無意味で、ただの徒労だ。


 それでも僕は、立ち上がった。


 誰かに認められたいわけじゃなく。

 誰かに褒められたいわけでもなく。

 誰かのためでもなく。

ただ、自分のためだけに――――


 気づけば、愛歌を取り囲んでいたギャラリーを含め、周囲の人間が皆、僕たちに注目していた。中にはふざけて僕たちのケンカを写真に撮っている奴もいる。

 僕が晒し者になるのは全然構わなかった。心配なのは、愛歌のライブだ。この騒動で愛歌のライブを壊してしまうことだけが、僕にとって唯一の懸念事項だった。

 だけど……僕は、見た。

 何度目か分からず地面を転がった時、ギャラリーの隙間から。

 自分の彼氏とバイト先の同僚が喧嘩をしているという事象にも惑わされず、一心不乱にギターを弾き、魂を叫ぶ愛歌の姿を。

 そして、その光景に少しだけ笑って立ち上がった僕の耳に、音が届いた。

「最後の曲です! 聞いてください! 『MY SKY』!!」

 それは、いつか聞いた愛歌の歌。

 自分だけが望む世界を、自分だけの価値観で生きていく、自由の歌。

 それだけで、僕は戦える気がした。

 戦いに不慣れで、不恰好で、ただ立ち上がることしかできない……何の問題も解決できないヒーローは、小さな子どものように、ただただ暴れまわった。



 次に意識が戻った時、僕の視界にはオレンジ色の夕陽がいっぱいに映っていた。

 夏が終わっていく。僕の、十九番目の夏が。

 僕は思わず、右手を伸ばして夕陽を掴もうとした。

何か、このまま終わってはいけない気がしたのだ。

 とても大切は何かを、僕はまだ、やり残している気がする―――

「……気づきましたか?」

 すぐ近くから声がかかる。

 まだ痛みが残っている体を無理矢理捻って上を見上げると……そこに、愛歌の顔があった。あまりの距離感にびっくりするものの、自分の真正面に空があることから、どうやら自分が愛歌に膝枕されているらしいと悟った。

「……まったく。無茶するんですから」

 何かを言いかけて口を閉じる……という動作をした後、結局はそんな発言をする愛歌。

何か言いたくても、どんな言葉をかければいいのか分からなかったのかもしれない。僕も同じだ。まさか人生初の喧嘩をした直後に愛歌と話す機会があるとは思わなかった。

「本当なら、あいつにカッコよく勝って立ち去るつもりだったから……今、愛歌になんて言えばいいかわかんない」

「……どんだけポジティブなんですか。あの人、昔ボクシングやってたんですよ? 体格差を考えても、センパイが勝てるはずないじゃないですか」

 そうだったのか。どうりでパンチが堂に入っていたはずだ。僕はてっきり、自分が素人過ぎて差があるのだと思っていたけど、どうやら本当にプロとアマだったようだ。

 日が暮れていないということは、愛歌のライブが終わってからそんなに時間は経っていないということだろう。愛歌の太ももは名残惜しいが、コンクリートの路上にいつまでも愛歌を正座させているのもあれかと思い、僕は体を起こした。

 あちこちが痛み、擦り傷も多いけど、骨折はしていないみたいだ。これなら病院に行かなくても平気かもしれない。今は治療費を払う自信ないし……。

「えっと……看病してくれて、ありがとう。ライブ、良かったよ。それじゃあ」

「……ま、待ってください!」

 早くこの場を立ち去りたかったのに、身を翻したところで呼び止められてしまう。

 ひょっとしたら、あのロンゲ野郎のことで何か言われるのかな……と思ったけど、愛歌が口にしたのは全く予想外の言葉だった。

「……あ、あの……っ。…………あの時の告白、まだ有効ですか……?」

 僕は振り返らない。愛歌の顔を見ることはできないけど、きっとその顔は真っ赤になっているんだろうなぁと、少しだけ笑った。

 まさかこんな展開になるとは思わなかった。すごい逆転劇だ。それこそ、映画やマンガみたいな展開だ。ボロボロになりながら暴力彼氏と戦って。そして、ラストシーンでそのヒロインから想いを告げられる。夕陽をバックにして僕がイエスと答えれば、さぞかし絵になるんだろうなと、そんなことを思った。

「…………ごめん」

 僕は振り返った。ここは逃げちゃいけない場面だと思ったから。

「……僕、さ。愛歌のこと、好きだ。だけど……それはたぶん、愛歌の『ファン』として、だったんだと思う」

 初めてカラオケで愛歌の歌を聞いた時、僕は感動で震えた。

 愛歌と会うたびに、愛歌のことを想うたびに、あの曲のことを思い出していた。桐さんに愛歌のことを聞かれた時も、僕は間髪入れずに愛歌の歌のことを話した。……たぶん、それが答え。左脳しか動かしていなかった当時の僕は、恋に落ちることなんてできなかったんだと思う。

「……そう、ですか……。……なんとなく、わかっていました。たぶんセンパイには、他に好きな人がいるんですよね?」

「…………うん」

 なんて勝手なんだろう、と思う。

 勝手に好きだと告白して。その子の彼氏と喧嘩して。迷惑ばかりかけて。それで逆に告白されれば、それを拒否する。こんな論理的じゃない人間、僕は嫌いだ。

 だけど……仕方ない。

 そんな非論理的で計算できない感情を抱えたのが……本来の、僕なのだから。

「……色々と、ありがとうございました。またバイトで、よろしくお願いします」

「…………ありがとう」

 それだけ言って、愛歌の優しさに甘えて、僕は走り出した。

 まだ夕陽は沈んでいない。

 まだ僕の夏は終わっていない。

 この夏が終わる前に、僕にはやらないといけないことがある――――



「師匠っ!!」

 四条河原町からタクシーを拾い、全速力でマンションに帰った。そして、インターフォンも押さずに隣人のドアを開く。

鍵がかかっていないのが気になった。ズボラな師匠なら、それくらいは日常茶飯事なのに、僕には予感がある。

あの人は狙い済ます人だ。ここぞという完璧なタイミングで行動を起こす。だから、今日、今、この瞬間……一番大切なこの時に、何か起こしても不思議じゃない。

 悪いとは思ったが、そのまま中に上がらせてもらう。靴が無かったのだから外出している可能性の方が高かったのに、それでも確かめずにはいられない。いつも通り、最新式の洗濯機が置いてあるキッチンを通り抜け、仕切り扉を開いてダイニングに入る。そこには上質そうなソファが一つと、ローテーブル。テーブルの上にはノートパソコンとコーヒーを飲んだのであろうマグカップが一つ。

 客観的に見れば、ただ外出しているだけという状況だろう。だけど、僕はすぐに踵を返し、隣の自分の部屋に向かった。

ドアの鍵は――開いている。

僕が鍵を閉め忘れるなんてあり得ない。いつも鍵をかけた後に、施錠できているかノブを回して確認するのだから。

「師匠っ!!」

 叫んで自室に入る。仕切り扉を開けっ放しにしている僕の部屋は、ドアを開いた時点で奥まで見渡せる。

 そこに、師匠の姿は無かった。ただ、コタツ机の上に紙が置いてある。

 僕は靴を放り投げるようにして脱ぐと、狭い廊下を転びそうになりながら駆け抜け、机の上の紙を掴んだ。それはA4の用紙一枚で、その中央にたった一言、四文字の言葉が踊っている。


『卒業証書』


 ポケットの中でケータイが震えた。誰かなんて考える必要も無い。

『よう。我が弟子よ。卒業、おめでとう!』

「ありがとうございます。いやー、ここまで長かったです」

 手が震える。それを押し隠すように、努めて明るい声を出した。

「それにしても、大家の特権とは言え、これは不法侵入に当たりますよ? 勝手に鍵開けて人の部屋に入るなんて」

『すまん、すまん。でも、お前も私の部屋に入ったんだから、それでおあいこにしよう』

「……どうしてそれがわかったんですか」

 僕は窓を開けてベランダに出る。ひょっとしたらマンションのすぐそばに黒髪ロングのドレス姿があるかもしれないと思ったけど、そんな情報は目に入ってこなかった。

『まぁ、私だしなー。いやー、それにしても腹減ったなー』

「早く帰って来てくださいよ。今日は腕によりをかけた目玉焼きを作る予定なんです。ベーコンとハムもたっぷり買ってありますよ」

『そうかぁ。そいつは楽しみだなぁ。……でも、無理なんだ』


『私、しばらく旅に出ることにしたから』


 ――――――――。

「……まったく、突然ですね。少しは伏線張ってくださいよ。でも、いいです。貴女はそういう人ですからね。で? いつ帰ってくるんですか?」

『…………あのな、』

「あー、わかります! 気ままにフラフラしたいって言うんですよね? でも、僕としても貴女に用事があるというか。ここまで僕の人生を引っ掻き回したんですから、責任とってくださいよ~。あ、責任って言ってもえっちぃ意味じゃないですよ? 念のため――」

 本当は、わかってる。

 だけど、師匠からその言葉を聞きたくなくて、僕は必死に空回りするトークをし続けた。いつになく口数の多い僕を、しかし、師匠は一言も発せず待ち続ける。そうして、僕の無意味な発言が底をついたところで……核心を、告げた。


『これからは、私がお前のそばにいちゃダメだと思うんだ』


 わかっていた。この人は、こういう人だって。

 いつも狙ったかのようにベストなタイミングで適切な行動を起こす。横暴に振舞っているようで、誰よりも周囲に気を遣う。お節介で、はた迷惑で、誰よりも優しい……僕の、師匠。

 夕陽が沈んでいく。

 街に宵闇が訪れる。

 世界が一番輝く季節が、終わりを迎える。

「は、はは……。あれだけ一緒にいて、離れてくれって言っても引っ付いてたのに、最後は問答無用で離れて行くんですか……。まったく、なんて自分本位で身勝手なんだ」

 言ってから気づいた。それと同じことを、僕も愛歌にしたのだと。

 ……それでも。たとえ世界中の人間に自己中心的な独善者だと罵られようとも、ここで引くわけには行かなかった。

「師匠……僕、まだ貴女がいてくれないとダメなんです」

『大丈夫だ。お前はもう、一人でも生きていける』

「次に脱水症状になったら、誰が助けてくれるんですか」

『一度失敗したんだ。次は死なねーように気をつけろ』

「僕のファーストキス、奪いましたよね? もうお婿に行けません」

『安心しろ。私もファーストキスだ』

「…………っ!」

 ああ……もうダメだ。

 つい先日愛歌に告白したのにと、軽く見られるかもしれない。

 それでも……僕は――――

「師匠……っ! 僕は、貴女のことが――――」


『私はな、お前のことが好きなんだ』


 二ヶ月前の六月。

十九番目の夏の始まり。

 全てが始まったあの日と同じ言葉を、師匠は重ねた。

『誤解するなよ? 好きって言ってもLikeじゃなくてLoveの方だ。私はもう、お前のことが好きで好きで、仕方ないのさ』

 にゃはは、と師匠が笑う。

『最初は純粋に遊ぶつもりだったんだ。隣人の面白いニート仲間と、一緒にバカやって笑いたい、ってな。だけど……お前と一緒に時間を過ごすうちに、たくさん笑って、色んなことやって、怒ったり、落ち込んだり、泣いたり……笑ったりするお前を見て。いつの間にか私は、お前のことが大好きになっちまった』

「……だったら――――」

『だからこそ、私はお前から離れないといけない。なんだかんだで、私は人に甘い。それも、大好きなお前だぞ? 絶対甘やかす自信がある。もう二度と一人じゃ立ち上がれなくなるくらい、だだ甘にする自信がある』

「…………」

『それじゃあ、ダメなんだ。そんなことじゃ、お前は幸せになれない。お前は……強くならないといけない。ちゃんと一人で立って、一人で戦って。しんどいことを経験して、苦しいことを経験して。時には、涙して。世界を閉じたくなるような辛い日も、強く笑って生きなくちゃいけない』

「…………」

『そんなお前のこれからに、私は邪魔だ。だから、私は去る。いつか……お前がたった一人でも生きていけるくらい強くなれる日まで、しばしのお別れだ』

 僕は…………泣いていた。

『本当の幸せ』が何かって?

そんなものは、すぐそばにあった。気づかなかっただけだ。

 僕は、僕のすぐ隣で、迷惑なのにどこか憎めないネオニートが、イタズラっぽく笑っていてくれれば、それだけで幸せだったんだ。

 この人のことが、本当に大好きだったんだ。

 ずっと感情を殺して生きてきて。

『普通』になれればそれでいいなんて、嘘ついて。

 いつも自分の大切なものから目を逸らしていたのは、他でもない僕自身だった。

「まったく……好き勝手言ってくれますね」

 僕は、笑った。

涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、無理矢理に笑みを浮かべる。それが彼女の教えだったから。きっと、鏡で見たら笑えるくらい歪な笑顔だったけど。それでも僕は、笑ってみせた。

「それは貴女の価値観で、貴女の感情でしょう。僕のそれは違う。僕はずっと貴女といたいし、これからもずっと、貴女と生きて行きたい。そう、思っているんですよ」

『……そっか。そいつはまぁ、なんつーか…………ありがとな!』

 電話の向こうで師匠も笑っている。きっと、僕が愛歌に告白すると言った時のような、無理した笑顔なんだろうけど。

 山際に僅かな橙色を残していた夕陽も、完全に沈んでしまった。

僕にとって十九番目の夏も、これで終わりだ。

 だけど……なにかの終わりは、なにかの始まりなのかもしれない。そんな……僕らしくない、ポジティブなことを思う。

『お前の人生は、これから始まるんだ。面白いことがあって、笑って。幸せなことがあって、笑って。笑えるくらいの不幸に見舞われて、やっぱり、笑うんだ。そうやって、面白おかしい人生が、これから始まるんだよ』

 そうだ。絶対にこのまま終わったりはしない。

 きっと僕は、僕の『やりたいこと』を実現してみせる。

『世界を楽しんでくれ。心ゆくまで。……じゃあな、秀樹』

 それだけ言って、電話が切れた。

 なんとも卑怯な別れ方をしてくれたもんだ。こちとら、貴女の名前すら知らないのに。

 日が暮れたのに、まだまだ外の気温は高い。

 僕は汗が滲む腕を振り上げ、夜に染められた京都の街に向かって腹の底から叫んでやる。

「待ってろよ、ネオニート!!」

 今年は夏が終わっても、僕は笑顔だった。




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