Piece 7. 僕がしたい「なにか」
――僕のことが好きだと、彼女は言った。
本当は、初めて会った時から気になっていたと。
……一目惚れだったのだそうだ。
そんなことは、生まれてからこれまで、一度も言われたことが無かった。女の子と何の接点も無かった高校時代から背は伸びてないし、顔も整形していない。だから、彼女が僕の外見を気に入ってくれたと言うのなら、それは間違いなく『髪形』が大きな要因だったのだろうと思う。
初めて会った時、と言われて、僕はバイト先のカラオケでのことを思ったのだけど、実際はそうではなく。
彼女は、あの雨の日に、五条通で一緒に雨宿りしたあの瞬間、恋に落ちたのだそうだ。
それでも付き合えない、と彼女は言った。
僕が彼女と出会う少し前。
あの雨の日の数日前に、彼女はバンドメンバーの一人から告白された。
バンドの雰囲気を壊してしまう怖れを考えた彼女は、その告白に『はい』と答えたのだそうだ。
さらに面白いのは、その相手方の男だ。
年は三十歳間近。未だに定職に就かずフラフラしていて、借金もあるらしい。そして何より……好きな女に手を上げることを、なによりも悦びとしているらしい。
『でも、今はまだ痣くらいで済むんですよ』――そんな風に彼女は笑って、お腹の辺りを押さえた。
吐き気がした。
眩暈もした。
殺意も芽生えたし、自殺衝動も甦った。
そんな男とは別れて、僕と付き合ってください……とか、そんなことを口走ったと思う。
それに対しても、彼女が返した答えは『ごめんなさい』だった。
一度付き合って。彼女になり、彼氏になってもらった人を裏切ることはできない、とか。意味不明なことを言っていた。
……ああ。忘れていた。
僕の周りには、変人しか集まらないんだっけ。
だから、僕が好きになった彼女が、誰よりも一番、壊れていた。
ピンポーン。
「……………………」
不快なチャイム音で目が覚める。
インターフォンのランプは赤色。それは即ち、マンション入り口のオートロックではなく、僕の部屋のすぐ外からチャイムを押していることを示す。
宅配便や宗教の勧誘なら、まずは緑色のランプが点灯する。赤いランプが点灯している事実が示す意味は、すでにこのマンションに入っている人物……即ち、マンションの住人が僕の部屋を訪ねているということだ。
「……………………」
あれから、バイトのシフトは可能な限りキャンセルした。
さすがグーグル先生でブラックと呼ばれているバイト先だけのことはあり、代役のバイトスタッフを見つけない限り、絶対に欠勤できないという話だった。
コミュ障な僕に代役を見つけるなんて、できるわけないじゃないか――そう思ったのに、なぜか勝手に体は動いて。そうして話しかけたほぼ全てのスタッフが、進んで僕のシフト交代に力を貸してくれた。やたらと「しっかり休め」と言われたけど……僕は、そんなに酷い顔をしていたんだろうか。
本当は、貯金残高ももうほとんどない。これ以上働かないでいると生活できなくなってしまう。その事実を冷静に直視して、冷静に働かないことを選択した。
あれから……何日が経ったのだろうか。
カーテンを閉め切った部屋の中、明かりも点けずずっと布団の上に倒れている。
眠っているのか起きているのかわからない。……そもそも、生きているのか死んでいるのかすら怪しいラインをさ迷っていた。
インターフォンはたった一度鳴らされただけで、それ以降は沈黙を保っている。
その姿勢が笑えるほど爽やかで好感を持ってしまう。きっと扉の先に佇んでいる人は、僕とは違ってとても漢らしく、真っ直ぐな人なんだと思う。
「……………………」
寝返りを打ち、また目を閉じた。
最後に食事を摂ったのはいつだっただろう。体が重い。食事を摂っていないから動けないのか、動けないから食事を摂らないのかは判らない。何も解らない。わからない。
ガチャリ、と鍵が回る音がした。
僕は驚かない。
ドアが開く音がして、閉まる音がした。
僕は動かない。
廊下を歩く音がして、仕切り扉を開く音がする。
僕は目を閉じたまま。
僕の頭が柔らかくて温かい腕に包まれ、甘い香りがした。
「……ばか。死んじまうぞ?」
僕は喋らない。
「……軽く脱水症状起こしてやがるな。ほれ、ポカリでも飲め」
口元にペットボトルの飲み口が当てられた。
……それでも僕は、脱力したままだ。
「……ったく、」
口元にあったプラスチックの感触が消える。
次いで、生温かくて滑らかな、とても柔らかいものが僕の唇に触れた。
「――――――――!?」
「……ん、っふ……」
まさかと思って目を見開くと、師匠の綺麗な顔が信じられないくらい近くにあった。滑らかな黒髪が僕の頬を撫でる。
閉じていた僕の唇が師匠の舌でノックされ、無理矢理にこじ開けられる。そこから強制的にポカリを流し込まれた。
「…………ぷはぁっ!」
「――っ、げほげほっ! な、なな、何してんですか!?」
「んー? 純情少年のファーストキスを蹂躙?」
ペロっと舌を出してイタズラっぽく笑うニート。
あれがつい先程僕の口に……と考えると、あまりにも艶めかしくて心臓がバクバクと脈打つ。
「ほれ、もう飲めるだろ? それとも、また口移ししてほしいか?」
ポカリのペットボトルを差し出しながらニヤニヤと笑う。
今はどんな反論をしたところでからかわれるだけだと思い、黙ってペットボトルをひったくった。
「ごはんにしよう。いつも私の世話ばかりしてもらっているからな。たまには私が作ってみたんだ。味見してくれ。口に合うといいんだがな」
「……貴女が料理を? 毒さえ入っていなければ百点満点ですよ」
「そーか。そいつはハードルが低くて助かる」
懐かしさすら感じる不敵な笑みを浮かべた後、師匠が廊下に消えていく。次いで、トレーに載せた食事を運んで来た。
「……ん。そういえば、お前の部屋って初めてだな。へー。へー。なあなあ! どこにエロ本隠してんの?」
「そんなものないですよ。わ! 危ないんで、遊ぶなら料理置いてからにしてください!」
トレーを持ったままキョロキョロされてはたまらないので、とりあえずコタツ机に置いてもらう。トレーの上にはスーパーで買ったのであろうパックごはんとカップに入った味噌汁。あと、皿に盛られた豚肉とポテトとほうれん草の炒め物があった。
「……作ったとか偉そうに言っていた割に、このごはんと味噌汁ですか……」
「別にいいだろ? 一人分のごはん炊いたり味噌汁作るのは手間じゃないか。投資家は時間を上手に配分するんだよ」
「さいですか……」
別に期待していたわけじゃなかったけど、なんとなく味噌汁だけは手作りのものが飲みたかったな、とか、そんなことを思った。
「いただきます」
日頃はそんなことしないけど、久しぶりに手を合わせる。誰かにごはんを作ってもらうのは、本当に久しぶりだ。
まずは味噌汁に手を付ける。スーパーで一個百円くらいで売っているしじみの味噌汁だ。インスタントなんて……と思っていたけど、意外といい味をしている。そして、大して期待もせずに炒め物を口に運んだ。
「…………美味しい」
「……だろ?」
シンプルに塩コショウで味付けしてあるだけなのに、びっくりするほど美味しかった。別に、高級食材を使っているようには思えない。ただ、調理が絶妙なのだ。中でもポテトとほうれん草の柔らかさ加減と言ったら、僕が作る料理とは比較にならない。
「ポテトとほうれん草を最初に下茹でしておくのがコツなんだよなー。そのままフライパンにぶち込むと、どうしても硬くなっちまうから」
「……すいません。僕は、今まで貴女のことをバカにしていました。……料理、上手かったんですね」
「んー。まあな。やればできるタイプ?」
「これじゃあ日頃、偉そうに目玉焼きを出していた自分が恥ずかしいです」
「そんなことはないぞ? 目玉焼きだけは、お前に勝てん」
本気でそう思っているのか、師匠が悔しそうに腕を組んだ。僕自身おいしい目玉焼きが好きだし、節約生活で何度も作ったからなぁ……。
「ごちそうさまでした」
最後もきちんと手を合わせる。
久しぶりに、ごはんを食べた気がした。単純な期間の話ではなくて……こんなに心のこもった料理は、ここしばらく食べていなかったから。
「……ん。今日は私が作ったんだし、洗い物も私がやっておくから、気にするな」
そう言って師匠はトレーを持って立ち上がり、キッチンに消えて行った。
あの師匠が洗い物……?と若干びくびくしながらキッチンを覗くと、意外なことにテキパキとこなしていた。……なるほど。普段ぐーたらしているけど、『やればできる子』というのは本当だ。
「すまんが、食器はしばらく置かせておいてくれ。乾かすから」
「はい、別に大丈夫ですよ」
「さんきゅ。……それじゃあな」
それだけ言って足音が遠ざかる。……帰るつもりなのか?
僕は慌てて立ち上がり、仕切り扉を開いた。
「あ、あの!」
「……んー?」
玄関で靴を履きながら生返事が返ってくる。すぐ隣に来るだけなのに、外行きの靴を履いてきたらしい。……というか、そもそも師匠は一足しか靴を持っていなかった事実を思い出した。それも、履くのがすごく大変そうなゴスロリ風の靴。
いやいや、そうじゃなくて。
「その……聞かないんですか? 何があったのか……」
そう問いかけると、師匠はあからさまにため息をついた。
そして、ブリッジするように上体だけひっくり返ってこちらを見る。
「何年の付き合いだと思ってんだよ。お前のことなんざ、目を見ればわかるさ」
「すげぇキザな発言中にアレですけど……たった数ヶ月の付き合いですよ」
「わっはっは! そうだったかな」
そんなテキトーなことを言いつつ、また靴に向き直るニート。
「まっ、聞いてほしくなったら話せばいいさ。話したくないなら、黙ったままでもいい。お前だってガキじゃねーんだ。その辺の判断はお前に任せるよ」
「…………っ」
泣きそうになってしまった。
あの日から、僕は一度も涙を流していない。それなのに、師匠のその言葉を聞いただけで、視界が曇る。
……ずっと、一人だった。
恋人どころか友達すら満足にいなくて。
親ともそんなに上手く行ってる方じゃなくて。
辛いことや悲しいこと、苦しいことがあっても……僕はいつだって、一人で解決してきた。
頼る人もいなかったし、頼らせてくれる人もいなかった。
ひょっとしたら、それが『普通』なのかもしれない。みんな、自分の力じゃどうにもならないことを、心で泣きながら、一人でなんとかしているのかもしれない。
だけど――――
「…………助けてください」
僕は人生で初めて、人前で泣いた。
師匠にこれまでのことを全て話す。
愛歌と一緒に買い物に行ったこと。勇気を出して食事に誘ったこと。それよりももっと勇気を振り絞って告白したこと。……そして、その、返事を。
僕にとっては身を切り裂かれるような記憶だ。できるなら、もう二度と思い返したくない。忘れたい。だけど……それができるなら、苦労しない。
一生このままなのか?
これから先ずっと、こんな悪夢を見続けるのか?
……そんな恐怖が、僕の口を動かした。もっともそれは、師匠に甘えているだけなのかもしれないけれど。
「ふーん……そっか。そいつはまあ……私にはよく分からん価値観だなぁ……」
全てを聞き終わった師匠は、思いの外冷静だった。
別に冷たい感じもしない。喜怒哀楽の感情のバランスが取れているような感じ。例えるなら、木から林檎が落ちたと聞かされて「ふーん」と言っているような感じだ。
「私にはよく分からんが、そのロリ高生にとっては、そんな価値観が正常で普通で正解なんだろう。だから、そのことに関してうだうだ言っても仕方ない。大切なのは、お前がどうしたいのか、だ」
「僕……ですか?」
「そりゃそうだろう。お前がコントロールできるのはお前だけだ。他人はコントロールできない。だが、お前の感情、お前の思考、お前の行動は全てお前のものだ。それらはお前が制御でき、お前だけが制御できる」
何を言っているのだろう。いや、言っている内容は理解しているつもりだ。だから、僕が理解できないのは師匠が何を言いたいのか、ということだ。
「んー? そんなに難しいか? だから、繰り返すけど、これからお前はどーしたいんだってことだよ。そんな風にロリ高生にフラれて、それでもまだ気持ちが変わってなくて、アプローチ続けんのか。それとも、身を引くのか。はたまた、何か全く別の行動をとるのか。……一番楽なのは、それでお前の気持ちが冷めちまって、もうロリ高生なんかどーでもいい、ってのがベストなんだが。でも、きっとそれはないよな」
にゃっはっは、といつもと変わらず快活に笑う。
なんて理論的なんだろう、と思う。これまでロジックだけを頼りに生きて来た僕には痺れるほどの論理だ。その理屈には感服する。何も間違っていないし、全てが正しい。だから、僕がすることは、ただそのロジックに従って行動するだけでよかった。
それなのに…………。
「……………………」
僕は、動かない。
いや、動けない。
どうしてなのかは分からない。師匠の語る理論は完璧ななものだ。その通り、『僕がしたいように』行動すればいい。だけど、できない。できないのだ。
僕は、僕が『なにをしたいのか』、わからなかった。
「……ん。まぁ、色恋沙汰なんざ、人生で起こるトラブルの中でも一番感情に振り回される問題だからな。これまで左脳ばっか使って理詰めで生きて来た人間にとっちゃ最大の難所・不思議体験だろーよ。私もどっちかっつーと『そっち側』だから、お前の気持ちはよくわかるわ」
そう言いながら、師匠は部屋の隅に転がっていた大きめのクッションを引き寄せた。それに身体を預けて、一昔前に流行ったバランスボールのように、クッションの上でうつ伏せになって前後する。
珍しく、師匠の瞳に覇気が無い。視線を床に固定したまま、まるでどこか遠くを見ているような虚ろな目をする。
「……愛歌に告白した時も、こんな感じだったんです。頭では……理論的にはそこで告白してしまっても何のデメリットもないし、むしろメリットの方があると分かっているのに、なかなか行動できませんでした」
「おう、それだ。人間ってのは、右と左に脳みそがあるんだよ。そして、左が『論理』を、右が『感情』を司っている。普通の人間はそれらをバランス良く使ったり、どちらかというと右寄り……つまり『感情側』に傾いていることが多いんだが、時折、お前みたいな奴もいる」
師匠がクッションの上で寝返りを打つ。視線が床からベランダ、窓の外へと移行した。
「……大抵、そういう奴は、長い時間『感情』を殺してきたことが原因になっている。行きたくないのに学校に行ったり、将来何の役に立つのかも分からないまま、嫌いな勉強を必死に頑張って良い成績をとったり、な。そんなことをしていると……どうしても左脳側が強くなり、右脳側の力を殺すことになるのさ」
なぜだろう。師匠がとても哀しんでいるように見えた。後ろからだから表情は見えないし、声色にも変化はない。それでもなぜか、僕にはそんな風に思えた。
「本当はまず、ロジックの前にハートがあるべきなのさ。『オレはこれがしたい!』、『そのためにはどうしよう?』……これが、人間として正しい。いや、生物として、と言うべきかな。『~すべきだから』、『~する方が有利だから』、『~するのが正しいとされているから』……そんなセリフはみんな、左側の人間だよ。途中でそれが出るのは正しいが、最初がそうなっていれば全てが狂うことになる」
「…………貴女も、そうなんですか?」
二十歳で月に七十万を稼ぐネオニート。
僕が知らないことをたくさん知っていて、普通の人間が知らないことをたくさん知っている。それはつまり、彼女自身が『普通じゃない』という証明になるんじゃないのか。
「……ん、私らしくなかったな! つまり、ここから先はまず、お前がどーしたいのかがないと進めないってことだ!」
元気よく振り返ったニートは、いつも通りイタズラっ子みたいに歯を見せて笑っていた。
その笑顔に、少しだけほっとする。
「だけど……僕は、自分がどうしたいのか全然わからないんですよ……」
「そいつは重症だな。左脳ばっか使ってきたツケが回って来てんだぜぃ? ただ、心配しなくてもいい。感情っつーのは、自然と湧き上がるもんだ。それが分からないのは、お前が日常の『しなくちゃいけないこと』に縛られ過ぎてて、お前の心がうるせーからなんだ。その処方箋は『静かにしていること』、だな。ほれ」
そう言ってニートがドレスのポケットから封筒を投げて寄こした。
慌てて受け取ると、結構な重量と厚みがある。なんだろうと思って封を開けると……中には人生で始めて見るほど大量のユキチさんが整列していた。
「百万ある」
「ちょっ……ええっ!?」
「安心しろ。無利子無担保だ」
「いやいや! 受け取れませんって! こんな大金!!」
「ん? 大丈夫だ。私の月給一ヵ月半分だから。調子良ければ一か月分だな」
「確かに貴女にとってはそうかもしれませんがっ!! 僕にとっては年収と大差ないんですよっ!!」
「そうか。それじゃあ、お前の器を広げるためにも、その大金を抱いてヒリヒリするんだな! くっくっく……」
何を考えているんだこの人!? 僕に恩を売っても、何も出ないぞ!?
ていうか、現時点で普通に僕の方が迷惑かけまくっているし……。
「お前は敷金にもまだ手を付けていない。アレは家賃の滞納が起こった際、一か月分の家賃として充てることができるんだ。だから、それだけあれば一ヶ月は生き延びれるだろ?」
「いやいやいやいや! だからっ! 百万もあったら一年行けますって!!」
「そうか。そいつはよかったな!」
そんな風に笑って、師匠は立ち上がる。そのまま出口に向かいだしたので、慌てて追いかけた。
「ちょ、師匠!」
「だから『静かにしておくこと』っつっただろ? しばらく安静にしておけ。……心をな」
ほとんど初めてと言ってもいいほど優しい声だったので、師匠が本気なんだとわかってしまった。向こうを向いているから、顔を見ることはできないけど……きっと、いつかみたいに優しく微笑んでいるような気がした。
「……ありがとうございます。早めに治します。この百万に手を付けなくてもいいように」
「そいつは上等だ。お大事にな」
紐も結ばず、靴を引っ掛けたまま外に出て行く。
先程、靴を履くのに手間取っていたのは作戦だったんだな、と苦笑した。
自分が何をしたいのか。
……僕には、全く分からない。そもそも、僕の願望は全て『普通』の二文字に集約されていた。それが破壊されたのが数ヶ月前。その時から僕は……人生の指針を失ってしまったのだ。
そうだ。あの不思議なネオニートと絡むようになって棚上げしていたけれど、これは僕の人生において最大級の問題なのだった。師匠と遊ぶのがあんまりにも……楽しくて。それで、しばらくはこのままでいいかと、そんなことを思って……その問題から逃げていた。
ネットをフラフラしていた時、『人生のトラブルからは逃げない方がいい。もし逃げれば、後で山ほど利子がついて取り立てられる』なんて書き込みを見かけたことがあるけど、実際それは多かれ少なかれ当たっているのかもしれない。何かから逃げ出したら、いずれまた、その何かに出くわす。それを回避する方法はただ一つ。……ちゃんとその問題と向き合って、考え、悩み、苦労して、恥をかき……そして、強くなることだ。
たぶん、僕の人生はやっと、次のステージに進む時が来たのだと思う。
「…………とは言ったものの」
周囲に流されて無気力に生きて来た僕には最大難度のトラブルだ。まさか今後の人生指針を自分で決めることになるなんて。進路が悪ければ豪華客船だって沈む。たとえ問題を無理に解決しても、その進路が間違っていたらどうすればいいのか。嵐の中、豪華客船でラブロマンスを演じることは、どう考えても僕のしたいことではない。
あれから一週間。僕は延々と京都の町を歩き続けている。
最初は家で安静にしていたんだけど……24時間家に篭りっぱなしっていうのは存外精神にダメージを与える。自他共に認める引き篭もりである僕には信じられないことだったのだけど、しかし、人間というのは外での活動も必要らしい。事実、こうやって外を徘徊するようになってから体調・精神共にかなり好調になった。…………心は、まだ傷だらけだけど。
気づけば、京都駅を越えて十条の辺りまで来ていた。現在時刻は午前六時四十五分。一体僕は何をやっているのだろうか。早朝に七条から十条まで散歩なんて。ちなみに、東西にも歩いているため、実際の移動距離は単純な南北距離よりもずっと多いはずだ。
「僕が何をしたいのか……」
何をしたいのかって、決まっている。僕は、僕が『何をしたいのか』を知りたいのだ。
そんな無限ループみたいな意味不明な思考をここ一週間ほど永遠に繰り広げている。でもたぶん、これがダメなのだ。僕は『考えて』しまっている。それは即ち左脳の領分。ちっとも右脳を使っていない。僕の右脳、あまりにも無視し続けたせいでボイコットしているのかもしれない。
「まず、『何をしたいのか』が先にある。次に、『どうすればいいのか』を考える……」
あの日、師匠が言ってくれた言葉を繰り返す。
それは全ての物事に応用できる普遍のロジックだ。だから、現在の無限ループみたいな状況にもこのロジックは応用できるはず。この場合、第一ステップが『何をしたいのかが知りたい』というのにあたり、第二ステップでそのための方法を考える。つまり、僕が『何をしたいのか』知るためにはどうすればいいか、だ。……禅問答みたい。
そこでふと、目の前に古びたゲームセンターがあることに気づいた。
中では小学生から中学生くらいの子がレトロゲームに興じている。あまり駅より南側には来たことがなかったけど、こんなお店があったのか。あ。駄菓子も売ってる。
何を隠そう、僕はレトロなものが大好きなのだ。だから僕は、大学受験失敗後に京都に来て―――
「……………………あ」
そこではた、と思い至る。
僕は大学受験に失敗して、京都に来た。
浪人したりフリーターをするのであれば、京都でなくともできたはずだ。それならば、なぜ、京都に来たのか。レトロなもの、古びた街並みが好きだというのもある。だけど、根本的なところで僕は『京都に来たかったから』京都に来たのではないだろうか。
それは、まったく論理的じゃない。何のロジックも存在しない。それはつまり……それこそが『感情』だからでは、ないだろうか。
「見つけた…………」
見えるんだけど、見えない。近いのに、遠い。確かに存在するのに、なかなか掴めなかったもの。それがようやく、僕の手のひらに落ちてきた。
そして僕は、第二ステップも見つけた。僕自身の感情が指し示す、問題を解決するために必要な手段を心が自動検索する。僕は、ちょっと頭がおかしい人のように拳を天に突き上げ、夏の京都の青空に向かって叫んだ。
「そうだ! 海に行こう!!」
ポケットの中でケータイが震えている。
ディスプレイに表示される名前は桐さんのものだった。……やっべぇ。そう言えば、もう二週間以上、桐さんのお店に顔を出していない。
『……もしもし? 新見くん?』
「えっと、その……お、お久しぶりです……はは……」
渇いた笑いが漏れる。ヤバイ、殺される。なんとなくそんなことを思った。『髪を切る』という一点においてのみ、桐さんは僕の周囲の人間の中でも飛び抜けて変態さんなのである。そんな彼女の特殊な逆鱗に触れたのだから、ハサミを持って襲われても文句は言えないような気がした。
『あの……もうずいぶんウチに来てくれてないけど、何かあったの? ひょっとして、あたしのこと飽きちゃったの? ふえーん。捨てないでー』
……よかった。いつもの桐さんだ。殺人鬼じゃない。
「あの……本当にすいません! 実はちょっと色々ありまして……。そっちに戻ったら、すぐに行かせてもらいますので……」
『戻るって? 今、どこにいるの?』
「琴引浜です」
『……琴引浜?』
「えーっと。京都の北の方にある海水浴場です。鳴き砂が有名で天然記念物にもなってるみたいですね」
もっとも、昨日が雨だったため、鳴き砂は全然楽しめていないんだけど。
『そっかー。いいなー。みんなで海水浴かー』
「あー……いえ。海水浴の期間は終わってしまったようで、今はもう泳げないみたいです。こっそり水着で遊んでいる人もいますけど、僕はルールを遵守していますよ」
『そうなの? そんなところにみんなで行って楽しいのかな……?』
「いえ、僕は一人です」
『……………………』
桐さんが沈黙してしまった。無理もない。僕も一人で海水浴に行くようなイタい奴がいたら、全力で笑ってやる。わっはっはっは。
『新見くん……あたしね、やっぱり新見くんって普通の人じゃないと思うの。だから、新見くんが周囲の人を変人扱いするのって、やっぱりダメなんじゃないかな』
「なんか優しく諭されてる!? え、僕、そんなに可哀想な状況ですか!?」
『残念だけどー。……それで、新見くんは何をしているの?』
人生を探しているんです。
そんなセリフが頭に浮かんだけど、即座に却下。これ、さっきの発言以上に危ない人と誤解されるパターンだわ。僕にメリット一つもない発言だわ。
「えーっと……き、桐さんは、自分が何をしたいのかって、わかりますか?」
なので、質問に質問で返すという、もっとも姑息な手段に打って出た。
『えー? もちろん、わかるよ!』
「人生単位というか、長期的に、ですよ?」
『うん。あたしは、ずっとこのお店で髪を切ってるの。これまでも、これからも。ずっと大好きな髪を切っているの!』
大事なことだから二回言ったんですね、わかります。
でも、そうだった。桐さんはもう、自分の人生を見つけている人なのだ。ならば、そんな人生の先輩にアドバイスを求めてみるのもいいかもしれない。
「……実は僕、人生に……あ、いや。えーっと……進路に、迷ってまして。参考までにどうやったら自分の『やりたいこと』が見つかるかアドバイスを頂けますか?」
『いいよー』
おお! さすが人生の先輩は違う!!
『んー。あたしからのアドバイスは二つ。一つは、カッコつけないこと』
「…………うっ」
なんか知らないけど、胸が痛い。今の発言はグサっと来た。無意識に髪に手が行く。桐さんに髪を切ってもらってから、僕は何かにつけてカッコつけているような気がする。まさかそんなことが僕の『何がしたいかわからない』という問題の原因だったとは……。
『自分のやりたいことって、あまり綺麗なことじゃないこともあるからねー。だから、自分をいい人とか善人みたいに扱おうとすると、自分の本当の気持ちは分からなくなっちゃうかもかもー』
「なるほど。そういうことですか」
確かに桐さんの『髪を切りたい』願望もそんなに善寄りのものではないしな。もちろん、桐さんは美容師として多くの人を喜ばせているわけだけど……その根源たる『髪を切りたい』っていうのは、美容師の肩書きがなければただの危ない人だ。そう言う意味じゃ、かなり危険な欲望を持っている人ということにもなる。
……欲望、か。それなら、キレイであることの方が稀なのかもしれない。
『もう一つはー。小さなことでもいいから、自分のやりたいことを少しずつやっていくことかな。一つやりたいことができると、次にやりたいこともわかると思うよ!』
「……そうかもしれませんね。ありがとうございます。大変参考になりました」
『全然大丈夫ー。あっ。お客さん来ちゃった。それじゃあ、またお店に来てね!』
「はい、わかりました。またすぐに行かせてもらいますよ」
ケータイを耳から離し、桐さんが通話を切ったことを確認してから、僕も切るボタンを押す。ホーム画面に戻ったケータイを見つめていると、小さな欲望が……『やりたいこと』が浮かんできた。
「やりたいことは少しずつでもやること、ね……」
桐さんの貴重なアドバイスに従い、メールを打った。相手は東城さんだ。
あのセミナー以来、一度も連絡をとっていない彼女に、いきなり「僕のこと、嫌いですか?」とメールしてみた。返事が来るかどうかは五分五分だと思っていたけど……数分ですぐに返信が来る。メールは『べつに、嫌いじゃないですよ』の一言だった。
師匠は言ってくれた。お前が好きなんだ、と。
桐さんも言ってくれた。キミのこと、好き!、と。
東城さんも嫌いじゃない、と言ってくれている。
そして――――愛歌も。
「…………恵まれた環境だなぁ」
素直にそう思う。京都に来るまで、こんな風に女の子から言われることなんてなかった。それどころか、同性の友達すらいなかった。……京都に来て、本当に良かったと思う。
初めにあった『京都に行きたい』という感情に感謝する。きっと、師匠が言っていたように、これが人間の本来の生き方なんだ。まず感情があって、次に思考と論理がある。初めの一歩は感情に任せることが大切なんだ。
僕は今、どう思ってる? どんな気分なんだ?
――――とても気分が悪い。僕は、怒っている。
誰に対して?
愛歌の、彼氏。
そいつが嫌いなのか?
すっげぇ嫌い。
じゃあ、愛歌のことは?
愛歌は――――
桐さんは? 東城さんは? そして――師匠は?
そこまで考えた時、本当にするりと、僕の感情が滑り落ちて来た。
いや、『湧き上がって』来た。
目の前には天然記念物に指定されるほど美しい海。そして、まだまだ夏を感じさせる青空。そんな二つの青と青が作り出す境界線が、視界の彼方、ずっと遠くで弧を描いていた。
この青が見たくて、僕は海に来た。
幼い頃から水平線は大好きだったけど、こんなに綺麗な青を見たのは初めてのことだ。
どうせなら、あの騒がしい師匠も誘ってみるんだったな……と、そんなことを思った。