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Piece 5. 一人でカラオケする勇気



「新見くーん。次、二階の配膳おねがーい」

「は、はいっ! 二階オーダー行ってきます!」

 まさか、カラオケ店のバイトがこんなに肉体労働だとは思わなかった。

 当初、僕が持っていたカラオケ店のバイトのイメージは、日がな一日カウンターに座って、カラオケしに来たお客さんにマイクと部屋のプレートを渡すだけだと思っていたけど……とんでもない。メインの仕事は、ドリンクとフードの配膳、そして部屋の掃除だった。

 求人票には確かに『接客』と書いてあったはずなのに……嘘つき……。

 しかもこの店、五階建てと無駄に広く、ドリンクやフードを作る厨房が五階にあるため、二階のオーダーは常に階段で走ることになる。エレベーターやエスカレーターもあるけど、それらは全てお客様用なんだとか。……超キツイ。脚がもうパンパン。

 そんな風にゼーゼー言いながら階段を下っていると、途中で女の子のスタッフとすれ違った。

「あ。えーっと、久遠寺さん。お疲れ様ー」

「……お疲れ様です、新見さん」

 ただでさえ背が低いのに、階段の下の方にいるせいでさらに小さく見える。トレーを脇に抱えて上がっているところを見るに、配膳帰りなのだろう。

 久遠寺愛歌ちゃん。十七歳。高校二年生。街の雰囲気に流されず髪の色は黒で、後ろで一つに纏めている。いわゆるポニーテールだ。小さくて小動物みたいだから他のスタッフにも可愛がられている人気者。……だけど、なんか僕には当たりが冷たい気がするんだよなぁ……。

「えっと。大丈夫? もししんどかったら、二階のオーダーは全部僕が行くから、遠慮なく言ってね?」

「……大丈夫です。これでも一応、わたしの方が先輩ですから」

 ……うん。そうだよね。そういうことも、あるよね。

 なんとも自尊心が傷つくところだけど、愛歌ちゃんは僕よりも一ヶ月早くここでバイトをスタートしている。だから、年齢的には一つ(学年的には二つ)下のこの子は、僕の先輩さんなのだ。心の中では『愛歌ちゃん』と呼んでいるのに、実際に話しかける際には『久遠持さん』な理由はここにある。

「そ、そっかー。それじゃ、もし何かわからないことがあったら、教えてね」

「……はい。任せてください」

 むん、と可愛く胸を張る。

 うーん。こうして見ると、嫌われてるわけではないみたいなんだけど……一体どうして、僕と他のスタッフとで対応が違うんだろうか。謎は深まるばかりだ。



「お疲れ様ー。あ。もう18時だから、新見くんと愛歌ちゃんはそろそろ上がっていいよー。上がる時、そこのゴミ袋を捨てておいてねー」

「わかりましたー。お疲れ様でーす」

 戦場を駆け巡ること五時間。ついにチーフから終了の指令を頂いた。

 始めたてだからという理由で13時から入らせてもらってるけど、これ、本当は10時半からあるんだよな……。こんなのを7時間半もしたら、脚が潰れちゃうんじゃないだろうか。

 そんなことを思いながらゴミ袋を両手に持つと、左手の袋が何かに引っ張られた。

「……新見さん。わたしも一つ持ちます」

 振り返ると、愛歌ちゃんが相変わらずの無表情で左のゴミ袋を握っている。

「ありがとー。でも、大丈夫だよ。これ、結構重いし」

「……でも、新見さんはゴミ捨て場の位置を知らないのでは?」

「あ…………」

「……大丈夫です。新見さんが入るまではわたしが一人で運んでいたので」

 そう言って無理矢理に引っ張られたため、ゴム袋を奪われてしまう。女の子に荷物を持たせるなんて、なんとなく居心地は悪いけど、場所を知らないんじゃ仕方ないか……。

「あれ? そっち、エスカレーターじゃない?」

 階段とは反対の方向に進みだした愛歌ちゃんに尋ねると、ちろりとこっちを振り返った。

「……上がる時だけはエスカレーターを使ってもいいんです」

「そ、そうなんだ」

 ゴミ袋を持ってるのに、お客様専用のエスカレーター使ってもいいんだ……。一体、使用の可・不可は何が基準になっているんだろう……。

 そんなことを思いながら愛歌ちゃんを追ってエスカレーターに乗った。

「……………………」

「……………………」

 ち、沈黙が重い……。

 ハッ!? ダメだ! どんな時でも笑って楽しむってニート師匠と約束したはず。じゃあ、この状況も楽しまないと。

 えーっと……この状況だからこそ、あえてする面白いことは……。

「ねえ、久遠持さんってさ。僕のこと嫌いなの?」

「……………………」

 ド直球過ぎたーーーーーー!

 いくらなんでも面白すぎだろう、僕!

 ただ、お陰で笑顔になることはできた。気まず過ぎるのを誤魔化すための苦笑いだけど! そして、背中は嫌な汗でびっしょりだけど!

「……別に。嫌いではないです。ただ、新見さんが覚えていないので……」

「……え? 覚えてない?」

 聞き返すと、愛歌ちゃんは俯いてしまった。エスカレーターに乗っているのもあって、その表情を窺うことはできない。ただ、愛歌ちゃんの耳が心なしか赤くなっている気がする。

「その……。一週間くらい前、五条で……」

「一週間前? 五条?」

 浪人生になってから……というか、事実上ニートになってから、曜日が関係なくなってしまったため、記憶を思い起こすのが苦手になってしまった。

 ただでさえ隣人のネオニートに付き合って濃い日常を過ごしているのもあり、僕の記憶は時系列ではなくイベントで整理されている。だから、急に一週間前と言われてもサッパリだった。

「……その。雨、が……」

「雨?」

 そういえば、少し前にすごい集中豪雨に晒されたことがあった。確か、あの辺りからだっけ。僕が何かにつけて笑おうと決意しだしたのは。

 ……で。確か、京都が集中豪雨に晒されるから、僕はあえて徒歩で家に帰ろうとして、その帰り道――

「あ!? もしかして、一緒に雨宿りした女の子!?」

「~~~~っ!!」

 返事は無かったけど、耳が真っ赤になったので、それで確信できた。

「そ、そっか! あれ、久遠持さんだったんだ!? ごめん! 僕、できるだけ女の子の方を向かないようにしてたから……!」

「……そ、そうですよね。なんとなく分かっていました……」

「セーラー服だったから中学生かと思っていたんだけど……」

「わたしの高校、セーラー服です。そんなに珍しくはないと思いますけど……」

「そ、そっか。僕、地元は広島だから、そっちの感覚で考えてたよ」

 そういえば、今僕が住んでいるアパートの近くにある高校も制服はセーラー服だった気がする。ひょっとすると、京都ではそっちの方がメジャーなのかもしれない。

「あの時は……その。ありがとうございました。お陰でライブにも間に合いました」

「いやー。手助けになったんなら、よかったよ。後から考えたら、かなり不審者みたいな行動だったから、迷惑だったんじゃないかって心配だったんだ」

「そんな、迷惑だなんて……っ。あの時の傘、今も家にあります。今度、返しますね」

「ほんと? ありがとう。助かるよ」

 そこまで話したところで丁度エスカレーターが一階に到着した。愛歌ちゃんに続いてお客様に一礼し、正面の入り口から外に出る。どうやら、ゴミ捨て場は店の横の路地にあるらしい。

「その……新見さんはまだ、スタッフと連絡先交換してないですよね?」

「うん? そうだね。今日が出勤初日だし」

「……このお店では緊急の連絡やバイトを欠勤する際の代わりを探すために、スタッフ同士で連絡先を交換するんです。だから……その……」

「そうなんだ。じゃあ、もしよかったら、僕ともアドレス交換してくれないかな?」

「……はい」

 僕は初めて、愛歌ちゃんの笑った顔を見た。



「四人目のメンバー、キターーーーーー!!」

「い、イエーーーーイっ!!」

 天に向けて拳を突き上げる師匠に合わせて、無理矢理にテンションを上げてみる僕。

 なんか……キャラじゃない。こういう時は冷静にツッコミを入れるのが普段の僕だ。何事も楽しむと決めてからできるだけテンション高めをキープしているけど、師匠と一緒に居る時はどうしても大人しめになる。これが例のセミナーで習った『人間関係の構図』なのかもしれない。

「おいおい。なんだかんだと言いつつ、ついに女友達も四人目。んだよ。お前だって、やればできるじゃねーか」

「よ、四人? 桐さんと愛歌ちゃんはともかくとして……他の二人は誰ですか?」

「あん? 美容師、大学生、ロリ高生、そして神たる私だ!」

「いや……色々とツッコミたいところはありますが、とりあえずセミナーで知り合った東城さんは彼氏持ちだし、連絡もメアド交換した日の一回だけなんですが……」

「その辺の細かいことはいーんだよ。大事なのはメールでも何でもいいから、気軽に話せる女友達を五人作ることなんだ。彼氏持ちとか会う頻度が少ないとかは、この際どーでもいい。つーか、そんなことをぐちぐち考えてたら、お前みたいな奴に完璧な女友達が五人もできるわけねぇだろーが」

 確かにその通りかもしれない。だけど、そんな風に真正面から言われると傷つく。

「しっかし、案外短期間に達成したよな、お前。もっと時間がかかるもんだと思ってたが……これも偏に私のお陰かな」

「まあ、それは否定しませんよ。実際、僕一人だったら、こんなことはできなかったでしょうからね」

「おっ、なかなか謙虚じゃねーか。謙虚さってのは経済的に成功するための絶対条件だ。それは今後も大切にして生きていくんだぞ?」

「肝に銘じておきます。ところで……女友達も四人になったわけですけど、全然彼女ができる気配がしないのですが……」

 桐さんは相変わらず髪の毛にしか興味なさそうだし。東城さんはほぼ連絡とれないし。愛歌ちゃんも年齢的に……は大丈夫だけど、容姿的にアウトだし。師匠は言わずもがな。

「分かってねぇなー。お前みたいなのが何の努力もせず、自然に彼女ができるなんてあるわけねぇだろ。いい加減、そこんとこ自覚しろ。五人の女友達ができた後、勝負を仕掛けるのはお前だ。その辺に置いてある一冊六百円のラブコメじゃあるまいし、周囲の女からお前にアプローチしてくることなんてあり得ねーんだよ」

「…………」

 言っていることは正しいんだけど、やっぱり傷つく。あと、ハードル高い。女友達を五人作るだけで彼女ができるって言ってたのに、これは軽く詐欺だ。

「いいか? 女友達を五人作るってのは、単に周りに女増やして女慣れするっつーのもあるけど、一番の理由は『保険』なんだ。お前、周りに仲のいい女が一人しかいなくて、その一人に告白してフラれちまったらどうだ?」

「傷つきますね、もの凄く。考えるだけでもトラウマになりそうです。吐き気がします」

 胸中を素直に暴露すると、師匠はいい答えだ、と快活に笑った。

「だがその時、他に四人、別の恋人候補がいたらどうだ? そりゃあ、傷つくだろう。だが、それは候補が一人だった時よりは軽いんじゃないか? 四人で足りないってんなら、百人で考えりゃいい。絶世の美女が百人お前の側に居て、その内の一人にフラれたからってヘコむか?」

「余裕でヘコみます。傷つきます。ていうか、好きな女の子にフラれて傷つかない男の方が異常じゃないですか?」

「私は程度の話をしてんだよ。周りに複数の恋人候補がいる時といない時で、比較して考えろやコラ」

 横暴な口調で怒られたので、検討してみる。うーん。まぁそれは、周囲に恋人候補の女の子が複数人居る場合の方がダメージは少ないかな。

「世の中のイケメンってのは、知ってか知らずか、みんなこの方法を使ってるのさ。つまり、一人の女を口説いているように見えて、その女がダメでも他に当てがある状況で勝負してる。そんな女が実際に傍にいるか、精神的にお目当ての女がダメでもすぐに他の候補ができると思っているか、みたいな違いはあるがな。だから奴らの態度には余裕があり、その余裕でモテるという好循環が生まれるわけだ」

「なるほど……って、なんか実際に知ってるみたいな言い方ですね」

「うん? まぁな。私、モテるし」

「…………」

 悔しいが、事実だろうから仕方ない。

 もっとも、言い寄ってくるイケメン達も、この人の中身を知ったら裸足で逃げ出すに違いない。

「ってことで、そろそろ考えようぜ。五人目の候補は探し続けるとして、この中で最初は誰に勝負しかけるんだ? 私的にオススメなのは美容師かロリ高生だけどな。他と比較して好感度高いから、その分は楽だと思うが……お前次第だ」

「ちょ、ちょーっと待ってください! しょ、勝負って……告白するってことですか!?」

「他にどんな意味があんだよ……」

 師匠が嘆息するが、僕はそれどころじゃない。当然だけど、僕は女の子に告白したことなんかない。する度胸もない。

「やれやれ……どこの世界でも成功一歩手前で夢を諦めるのは同じだな。いいか? この世界には目には見えないペテン師みたいな妖精がいる。奴らは、お前みたいに夢見て頑張ってる人間を、正にあと一歩でゴールという地点で諦めさせ、挫折させることを一番の悦びにしているのさ」

「そんな寓話はいいですよ……。現実問題、彼女は欲しいですけど、桐さんや愛歌ちゃんに告白するっていうのは……。それに、そもそも僕自身が二人を好きかも分からないですし……」

「どんだけ優柔不断なんだよ。……まぁ、いい。お前自身の好意については、五人目のメンバーを探しながらゆっくりと確認していけばいいさ」

「五人目のメンバー、ですか……」

 そもそも現在の四人についても色々と怪しいところなんだけど。それでもまぁ確かに、僕の人生を振り返ってみても、ここまで身の周りに女の子がいたことはない、かな……。

「よし。楽な出会いはいくつか回ったし、次は少し出会いからは離れるが、お前が普段体験しないようなイベントをやってみるか! お前、今週末ヒマか?」

「あ、すいません。バイト始めちゃったんで、基本的に土日は働いてます」

「むぅ……久々のニート仲間だったのに、なんで働き始めたんだよ……。働いたら負けだと思わね?」

 そうは言っても、僕は目の前のネオニートみたいに不労所得があるわけじゃない。三ヶ月も無職のニートをやらかしたせいでガスガス貯金残高を削ってしまったし、今後は真面目にバイトして生活費を稼がないと、食費すら危うい状況だ。

「仕方ねー。それなら、お前が休みの平日で手を打ってやるよ。大阪行こうぜ、大阪」

「大阪……って、ここから何時間かかるんですか? っていうか、お金はいくらかかるんですか?」

「なにビクビクしてやがる。JRで片道五四〇円。地下鉄使って『なんば』まで出たって往復で一五〇〇円くらいだよ。時間は片道四十五分くらいってとこか」

「へー。そんなに近いんですか……」

 違う県(大阪は府だけど)に移動するのは、もっと時間がかかると思っていた。

 さすが都会。JRも走ってない実家の田舎とは違うなー……。

「というわけで、大阪だ! 行くぞ、我が弟子よ! 新境地へー☆」

 なんていうか、この人に関わるようになってから、やたらと別世界に行っているような気がする。それがいいことなのかどうかは分からない……って言いたいところだけど、たぶん、いいことなんだろうなぁ……。



 そんなこんなで七月も末になった水曜日。僕は師匠の強引なプランニングに従って大阪に来ていた。

 JRで大阪駅まで出て、そこから地下鉄・御堂筋線を使ってなんばへ。大阪は大阪駅がある梅田周辺やなんばという土地が栄えているらしい。

「うっはー! 見ろよ! あれがメイドさんというものだぞ!」

「め、メイド!? なぜこんなところに……?」

「あーん? なぜって、ここ日本橋・通称『オタロード』は、『関西のアキバ』と言ってもいいくらい萌え文化が盛んな都市だろーが」

「初めて聞きましたよ、そんな情報! ていうか、出発前に目的くらい聞かせておいてくださいっ!」

 僕のツッコミを無視して、師匠はメイドさんから嬉しそうにビラを受け取っていた。そんな師匠の服装は部屋着みたいに透けてこそいないものの、フリルがついたゴスロリ系。

なんでそんな服装なんだ……と電車の中でげんなりしていた僕だけど、ここまで来ると周囲にメイドさんがいることもあって、全然浮いてなかった。むしろ、正装とすら思える。

「なあなあ! どこのメイド喫茶行く!?」

「そのキラキラした目をやめてください。……え。ていうか、メイド喫茶に行くつもりなんですか!?」

「当然だろう。なんばまで来てメイド喫茶に行かないなんて、日本人なのに米食わないのと同じくらい意味不明な行為だぞ?」

 メイド喫茶はなんばの主食か。

「おっ。あれなんかどーだ?」

「ぶっ!?」

 師匠が指さしたのは『リフレ』とかいうメニューが充実したお店だった。なんかよくわからないけど、マッサージとか、メイドさんと接するプランが豊富なようだ。びっくりするのはその値段。あれだけあれば、僕の大好きなステーキが食べれる。

「勘弁してください! 僕、ただでさえ貧乏してるフリーターなんですよ!? メイドさんに肩叩いてもらって散財するくらいなら、もっと美味しいもの食べて死にたいですっ!!」

「……ちっ。つまんねーやつだなー」

 彼女は欲しいけど、それはあくまで自分が生きていること前提だ。女の子とイチャイチャした末……というか、イチャイチャする前に死んでしまっては本末転倒である。そもそも、メイドさんに肩を叩いてもらって彼女GETに近づくかどうかも怪しいところだ。

「まっ、お前のことだからそういうだろうと思って、良心的なお店もチェックしてある」

「ありがとうございます。じゃあ、そこに行きましょう」

「ふむ。仕方ないな。メイド好きのどーてーボウヤが、そこまでメイド喫茶に行きたいというのなら、付き合ってやろうではないか」

「……うわー。もはや、何からツッコめばいいのかわからねー」

 そんなこんなで脱力した僕を引き摺りつつ入ったのは『a-maid』というお店だ。過剰なサービスはなく、単に店員さんがメイド服を着て接客をするという至って健全なお店。ドリンクやフードの値段も相場よりはかなり良心的だった。

「おかえりなさいませ、お嬢様、旦那様」

「はーい☆ ただいまー☆」

 元気よく返事をしたのはもちろんニートだ。僕だったら、びっくりする。

「ご注文はお決まりですか?」

「私はケチャップオムライスで! 『ニートがヤバイ!』と書いてくれ!」

 どういう意味だ。確かに金銭的な意味ではニートをしていた僕が絶賛ヤバイ感じだけど。

「旦那様はどうなさいますか?」

「あ、えっと。じゃあ、ミックスセットのAで」

 一番安いのを頼んだ。それでも七〇〇円するのだから、ダメージはでかい。牛丼だったら二杯も食べれるのに……。

 ほどなくして注文した品をメイドさんが運んできて、ニート師匠のオムライスにオーダー通り『ニートがヤバイ!』と、メイドさんのキャラクターつきでお絵かきして行った。師匠のテンションの上がりようといったらここ最近で一番のようだ。……ひょっとしてこの人、百合なんだろうか。

「さて、おいしいランチを頂きつつ、作戦会議と行こうじゃねーか。勢い余って大阪まで出てきたわけだが、お前、どこか行きたい場所とかあるか? ここは『オタロード』とも呼ばれているオタクの聖地だから、そっち系のものならなんでもあるぞ?」

 すごく嬉しそうな顔でオムライスを頬張るニート。前から多趣味な人だとは思っていたけど、まさかそっち方面の趣味もあったとは。

 僕はミックスセットのエビフライをフォークで口に運びつつ考える。せっかく大阪に来たのだから、京都ではできない面白いことをしたいと思う。ただ、多少アニメやマンガを嗜む程度でガッツリこっちの方面に詳しいわけではないので、この立地を最大限に活かせるかは甚だ疑問なんだけど。

「……師匠にお任せしますよ。僕はなんばに来たのは今日が初めてで、どこにどんなものがあるかもわからないですし……」

「そっか、そっか。それなら、私に任せてもらおう」

 ニヤリ、と笑うニートを見て、そこはかとなく嫌な予感がした。



「超反対です! 絶対嫌ですっ! なんで大阪まで来てカラオケなんですか!! しかも一人って!!」

 僕の嫌な予感は非常に良くあたる。もうほんと、未来予知クラスに……。

「ほらお前、カラオケ店員のくせに音痴だろ? そういうのって、よくないと思うんだよ。それにほら、最近『ヒトカラ』って流行ってんじゃん? 私、それしてみたい」

「したいなら、一人でしてくればいいじゃないですか! 僕、その辺ぶらぶらして待ってますから!」

「何事も経験だぞ? ほら、カラオケ屋で五人目のメンバーが見つかるかもしれないじゃないか」

「ヒトカラやってて出会いがあったら、そりゃあもうビックリですねぇ!」

「そんな奇跡が起こる世界も、悪くない」

 ダメだこいつ……早くなんとかしないと……!!

「ほら、どんな時でも笑うって約束しただろ? 元気良く笑ってヒトカラしてみよー☆」

「うぐっ……。た、確かにそんな約束もしましたけど、それとこれとは……」

「同じだよなー?」

 ニヤニヤとニートが悪どく笑う。

 くっ……変な約束するんじゃなかった! 一人でカラオケとか、めちゃくちゃイタい奴じゃないかよ……。

「ほら、入る入る~」

「わ、ちょ、ま、待って――」

 背中を押されたせいで、無理矢理に自動ドアをくぐってしまった。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

「え、えっと……。は、はは……」

 曖昧な笑いしか返せない。ていうか、今さら気づいたけど、ここ、僕が京都でバイトしているカラオケ店と同じチェーン店じゃないか。次の出勤日に一人でカラオケ行く寒い奴だって噂が立ったらニートのせいだぞ……。

「何名様ですか?」

 仕事着の黒いポロシャツに身を包んだお姉さんが営業スマイルで聞いてくる。

 逃げられないことを悟った僕は、下を向いてできるだけ顔を見られないようにしつつ、ぼそぼそとコミュニケートすることにする。

「え、と……。ひ、一人、です……」

「はい、一名様ですね」

 さ、さすがプロ! こんなイタい状況なのに、それをまったく表情に出すことなく接客している!

 僕の店、グーグルで検索したら『ブラック企業』とかの噂もあったんだけど、ここまで高クオリティのサービスをするお店なのだから、もっと胸を張ってもいいんじゃないかしら。

 そんなことを胸中で思いつつ、予定時間と希望機種を伝えると、店員さんが愛想よく部屋番号が書かれたプレートを渡してくれた。

「飲み放題のドリンクはセルフサービスとなっておりますので、あちらからグラスを持ってお上がりください」

「はい、ありがとうございます……」

 どうにかこうにか受付を切り抜けることに成功。顔は未だに真っ赤。

 さっさとこの場を去ろうと思い、ぎこちない挙動でドリンクバーに向かう。コップを手に取り、さて飲み物は何にしようかと悩んでいると、背後で入店音が響いた。

「いらっしゃいませ、何名様ですか?」

「……一人です」

 そんな声が背中に聞こえ、ついに師匠も入ってきたかと振り返ると……そこにいたのは師匠ではなく、背の低い女の子だった。背中に大きな鞄を背負っている。

 なんだ。めちゃくちゃ恥ずかしいと思っていたけど、やっぱり最近じゃあ一人でカラオケをするなんて珍しいことじゃないんだな……。

「お一人様ですね。……。……申し訳ございません。現在、お部屋が満室でして……」

「……はう。ここから少し離れたお店で、ここしか空いてないって聞いたんですけど……」

「申し訳ございません。つい先ほど、部屋が埋まってしまいまして……」

 あー……。つい先ほどって、つまり僕だよな。

 なんだろう。すごく申し訳ない。こちとら、大して歌を歌うつもりもなく、なんだったらおふざけくらいの気持ちでヒトカラすることになったのに、そのせいで本当に歌いたい人に部屋がなくなってしまうなんて……。

「…………」

 うん。ニート師匠は怒るかもしれないけど、ここはあの子に部屋を譲るとしよう。元々、ヒトカラをするっていう体験を得るための行動だったんだし。ここまで来れば、あとは部屋で一人歌うだけなんだから、そこを省略しても大して変わらないだろう。

 そんなことを考え、僕は再びカウンターに近づいた。

「あの、僕やっぱり入店取り消しでいいので、こちらの方に部屋を譲ってあげてください」

「え? でも……」

「僕なら大丈夫です」

 困惑した様子の店員さんに無理矢理部屋番号のプレートを返そうとすると、脇から声がかかった。

「セン……パイ……?」

「え?」

 振り返ると、そこにいた女の子は愛歌ちゃんだった。普段のバイト着ではなく、黒を基調としたカッコイイ系の服を着ている。

「く、久遠寺さん? き、奇遇だね」

 ダラダラと嫌な汗をかく僕。まさか一人でカラオケに入るという決定的瞬間を誰かに見られるとは思わなかった。明日から僕の職場でのあだ名は『孤高のソロシンガー』になるかもしれない。なにそれ、ちょっとカッコいい。

「センパ――新見さん、お一人ですか?」

「え? あ、ああ……い、今は一人だけど、後から友達が来る予定があったりなかったり……」

「……あるんですか?」

「…………ない、です……」

 ガックリと項垂れて白状する。なんか、逆に開き直ってしまった方がよかった気がする。言い訳したせいで余計に情けなくなってしまったような……。

「……あの。もしよかったら、わたしも同室させてもらえませんか?」

「……え?」

「もうすぐライブをする予定なので、どうしても練習したくて。ダメですか?」

「いや、ダメじゃないけど……」

 うーん。でも、師匠が外で待っているはずだし、ここは部屋ごと譲って僕だけ退店するのがベストなような……。

 そんなことを思っていると、ポケットでケータイが震えた。もう予感どころか確信めいたものもあって開くと、件名は『ラブリーな師匠より☆』。メールの文面は『がんばれよん♪』の一言だった。

 どこから見ているんだとか、そもそも僕は貴女にアドレスを教えた覚えがないとか、色々と言いたいことはあったけど、全て後回しにすることにした。

「……うん。いいよ。僕もヒマだったし、一緒にカラオケしよっか」

「ありがとうございます。助かります」

 そんなわけで、カウンターの店員さんに人数を二名、時間を二時間に変更してもらい、愛歌ちゃんと一緒にカラオケすることになった。

 な、なんか緊張するな……。女の子と密室で二人きり……。いや、別に変なことをするつもりなんて全然ないんだけどさ。

「センパイ、どんな歌を歌うんですか?」

「へ? うーん。結構バラバラかなー。好きなアーティストもいるにはいるけど、そのグループばかり聞いてるわけでもないし」

「J-POPですか?」

「そうだね。あとは……ボーカロイドとかも、聞くかな」

 ボカロは割とオタク寄りなジャンルに思われて、引かれるか心配だったけど……言ってしまった。正直なことを言えば、僕は最近、J-POPよりもボカロの方をよく聞いている。素人が作るから、雑な部分も多いけど……素人だからこその、営利目的じゃない、心からの歌詞も多くて。そんな歌が僕は大好きなのだ。

「……ボカロ」

 引かれるかと思ったけど、愛歌ちゃんはむしろ目をキラキラさせていた。

「えっと……ひょっとして、ボカロ好きなの?」

「はい。わたしもよく聞いています。わたし、バンド組んでて。オリジナルの曲とかも作ったりしているので」

「へー! そうなんだ! すごいね!」

「センパイもボカロが好きなんて、意外でした」

 今さらながら、愛歌ちゃんの背中にあるものが、ただの鞄ではなくギターケースであることに気づく。そういえば、初めて出会った雨の日にも、このギターケースを背負っていたっけ。

 そんなことを話しているうちに二階の部屋に着いた。押し戸になっていたので、先に入ってドアを開き、愛歌ちゃんを招き入れる。当初、入室予定が一人だけだったこともあり、そんなに広い部屋ではない。たぶん定員は四人くらいで、実質は二人がベスト。そんな部屋だった。

 コの字型の座席配置に感謝しつつ、僕と愛歌ちゃんはそれぞれ、向かい合うような形で席に着いた。

「そういえば、なんか僕のことセンパイって呼んでない? 気のせい?」

「……はう」

 ギターケースを下ろしていた愛歌ちゃんの背中がビクリと震える。「失敗しました」というのを言外にアピールしているようだ。

「……え、えーっと、ですね。新見さんは、そもそもがわたしより年上なわけで。もちろん、アルバイトの経歴的にはわたしの方が上に当たるわけなのですが、だからと言って年齢的には『人生のセンパイ』にあたるわけでして。だから、わたしが新見さんをセンパイと呼んでしまっても何ら不都合はないと言いますか、むしろバイト現場以外では普通かと――」

 あわあわ、あわあわ、と両手を動かしつつ必死に弁解する愛歌ちゃん。……なんだろう。『センパイ』って呼ぶの、そんなに恥ずかしかったんだろうか。確かに普段は『新見さん』だし、学校の上級生以外を先輩と呼ぶのは珍しいかもしれないけど、そんなに気にしなくてもいいのに。

「……で、ですからね――!」

「ストップ、ストップ。えーっと、その。僕は気にしないから、好きに呼んでくれていいよ。僕も久遠持さんのこと、心の中では別の呼び方で呼んでたりするしね」

「……何と呼んでいるのですか?」

「…………」

 完全に墓穴を掘りました。愛歌ちゃんに知られる必要のないことを知られてしまう。

「えーっと……久遠寺、かな、うん」

「……本当なのですか?」

「……………………」

「に、い、み、さ、ん?」

「……ごめんなさい。本当は『愛歌ちゃん』って呼んでました……」

 白状し、頭を下げる。年下相手にローテーブルの端スレスレまで。なんか、あのニート師匠と関わってから、女の子は全員僕よりも身分が高い存在なのだと脳に刷り込まれているような気がする。いつも怒られてるし、頭を下げることにも全然抵抗がなくなってしまった。

「そうなのですか……」

 そっと顔を上げてみると、愛歌ちゃんは後ろで一つに纏めたポニーテールの端をちょいちょいと摘んで弄んでいた。どうやら、そこまで怒り心頭という感じではないらしい。

 このチャンスを掴むべく、僕はできるだけ自分の行いをフォローすることにする!

「ほ、ほら、『久遠寺』って苗字は珍しいし、難しいじゃない。それに名前の『愛歌』ってとってもキレイな名前だと思うんだよね! そ、そういえばバンドやってる愛歌ちゃ――く、久遠寺さんに相応しく『歌』の漢字も使われてるし! そう! 『愛歌』って名前には歌に対する才能がたっぷり込められているんだよ!」

「も、もういいです……。わかりましたから、もうやめてください……」

 僕の必死のフォロー(?)が功を奏したのか、愛歌ちゃんはご機嫌をなおしてくれたみたいだった。そっぽを向いてて表情を見ることはできないけど。ただ、耳は真っ赤だ。

 しかし、コミュ障で口下手な僕が、よくもまぁこんなにベラベラと喋れたものだ。これも普段、へ理屈大魔神と名高いニート師匠の指導を受けているお陰かもしれないな……と、そんなことを思っていると、愛歌ちゃんが澄ました顔で振り向いた。耳が真っ赤だったので赤面しているのかと思ったけれど、今は完全に真顔だ。

「……センパイ。取引をしましょう」

「取引?」

「……はいです。今後、わたしのことは『愛歌』と呼んでくださって構わないので、わたしに新見さんのことを『センパイ』と呼ばせてください」

「うん、僕は別にいいけど……。久遠寺さんは――と、愛歌ちゃんは、それでいいの?」

「……ちゃん付けは恥ずかしいので、呼び捨てでお願いします」

「……え。呼び捨て?」

 恥ずかしながら、僕はこれまでの人生の中で一度も女子を呼び捨てで呼んだことがない。名前で呼んだことすら、先日知り合った桐さんが初めてなのだ。それなのに、いきなり呼び捨てとかハードル高すぎる。

「……愛歌ちゃんじゃ、ダメなの?」

「ダメです」

「絶対?」

「絶対です」

「じゃあ、愛歌さん、とか……」

「……センパイはわたしの名前を褒めてくださいました。それが本当なら、特に抵抗はないはずです」

 それとこれとは話が違うんじゃないだろうか。

 そんなことを思った僕だけど、机に身を乗り出してこちらを見つめる(むしろ睨んでいると言っても過言ではない)愛歌ちゃんの視線が強すぎて、そんな発言はできなかった。

「えっと……それじゃあ、呼び捨てで。……その。よろしくね、愛歌」

「…………」

 そんな風に愛歌ちゃん――愛歌を呼ぶと、身を乗り出した状態から一気に元の席へと戻り、そっぽを向いてしまった。……横から見える耳は、これまでで一番赤い。

 そのまま十秒くらい経ってから、いつも通り澄ました表情で愛歌が振り返り、何事もなかったかのように返事をした。

「よろしくお願いします。……センパイ」

「え? う、うん……」

 ツッコみたかったけど、ツッコむとまた睨まれそうな気がして押し黙る。

「さて、それじゃあ歌いましょうか。センパイから先にどーぞ」

「え? いや、愛歌からどうぞ?」

「…………ぅ」

 ひくん、と愛歌の澄ました表情がブレる。心なしかほっぺがピンク色な気がしたけど、すぐに元の色に戻る。見間違いだったのかもしれない。

「もともとこの部屋はセンパイが先にとったものなのですから、わたしから歌うのは気が引けます。お先に歌ってください」

「そ、そう? それじゃあお言葉に甘えて……」

 先刻の会話で愛歌もボカロ好きということが判明したので、その辺りを攻めてみることにする。とりあえず、無難なところを……と考えて、僕が個人的に好きな曲は控え、有名な『千本桜』を入れることにした。

「…………!」

 リモコン操作で曲を予約し、その予約した曲名が画面に表示されると……不自然なくらい愛歌がうずうずし始めた。……しまった。ひょっとすると、愛歌の持ち歌を入れてしまったのかもしれない。

「あー……その。僕、実はすっごい音痴なんだ! だから、もしこの歌知ってたら、一緒に歌ってくれないかな?」

「……そ、そうなのですか? 仕方ないですね。それなら、わたしも一緒に歌ってあげます」

 いつも通りの澄ました顔で……だけど、挙動だけは妙にうきうきしながらマイクを手に取る愛歌を見て、自分の選択は間違っていなかったんだと思った。

「~~~~♪」

 曲のイントロが終わり、最初の歌い出しを歌おうとしたところで――僕は固まってしまった。

 上手い……上手すぎるよ、愛歌! 普段、澄ました顔でボソボソ喋ってるから、僕と同じくらいのコミュ障か、そうでなくても大人しい系のキャラだと思っていたのに!

マイクを持った途端……というか、歌を歌いだした途端、まるで別人のようにハキハキと喋る――いや、歌うようになった。しかも、歌声は美人なお姉さんが歌っているかのような綺麗な声。これじゃあ、ミクも真っ青だよ!

「……センパイ? 歌わないのですか?」

 歌が一段落し、間奏に入ったところで尋ねてくる愛歌。すっげぇキラッキラしてる。これまで見た中で一番表情が生き生きしているよ。

「え、う、うん。歌うよ。でも、音痴だから小声でね……」

 あはは……と苦笑するしかない。どう考えてもレベルが違います。本当にありがとうございました。

 やっぱり、カラオケ店員になるような人って、みんな歌が上手いんだなー……と思うと共に、女の子と遊ぶ時の定番の一つであるカラオケは、もうちょっと練習しておこうと思いました。

「次は……わたしの番ですね。あの……もしよかったら、オリジナルの曲歌ってもいいですか?」

「え? うん、もちろん。愛歌が好きな曲を歌うといいよ」

「ありがとうございます」

 そう言って愛歌は小型の音楽プレーヤーをカラオケの機器に接続した。

 バイト中に業務の一環として得た知識だけど、最近のカラオケ機種は音楽プレーヤーなんかを持ち込んで機器に繋げる事で、カラオケ機材から音楽を流せるらしい。先日、この機能を利用して友人のバースデーパーティー用のビデオを撮影していたお客さんがいたけど、こんな風に自前の曲を歌うことにも利用できたのか。

「……こほん。それじゃあ、センパイの知らない曲ですけど、失礼します」

「うん。どうぞ、お気になさらず」


「――――――――」


 まず、すごくアップテンポな曲調にびっくりした。

 勝手なイメージだけど、愛歌はどちらかと言うと、しっとりしたバラード系の曲を歌うイメージがあったから。ただしそれは完全な僕の読み違いで、外見こそ小柄で可愛い愛歌だが、その大人っぽい女性のボイスは、ロックな曲にとてもマッチしていた。

 そして、僕が一番衝撃を受けたのは……その、歌詞だ。

 僕は音楽を聴く時、音よりも歌詞を重視する傾向がある。だから、世間的に騒がれているベストヒットよりも、大して再生数も伸びていない素人が作ったボカロの曲を好むのだ。

 その僕が……だ。

 まさか、こんなにも音に感動して、それ以上に歌詞に震えるような曲に出会えるなんて、思ってもみなかった。

 愛歌が歌う曲は強いメッセージ性のある曲だった。『世間的な常識に縛られず、自分だけが望む世界を、自分だけの価値観で生きていくんだ』という叫びが、何度も心に響く。魂を奮わせる。そんな、曲。

 愛歌が歌い終わっても、僕はしばらく呆けたままで、まともに反応ができなかった。

 愛歌も最初の一曲から全力を出し切ったのか、余韻を味わっているように動かない。

 そのまま二人でしばらく沈黙し……先に発言したのは、愛歌だった。

「あの……センパイ? すいません、自己満足な曲を歌ってしまって。ただ、ライブが近いので許してもらえればと……」

 愛歌が何か言っているが耳に入らない。入ったとしても、全く反応できない。僕はまだ、数秒前の、震えるような激熱の世界に取り残されている。

「……えっと。センパイ? その……大丈夫、ですか?」

「すげぇよ、愛歌! 君は天才だ!」

「ひゃうっ!?」

 思わず立ち上がって愛歌の手を取ってしまう僕。普段ならこんなことは絶対にできないし、しようとも思わないけど、今だけは特別だった。

「すっげぇ感動した! 今まで色んな曲を聞いて、色んな音楽を探してきたけど……今の曲こそ、まさに僕が聴きたかった曲なんだ! あの曲、マジで愛歌が作詞・作曲したの!?」

「え、えっと……作詞は完全にわたしですけど、作曲は少しバンドの人に手伝ってもらいました」

「それでもすげぇ! 僕が一番感動したのは歌詞なんだ!! そうだ! 曲名は何ていうの!?」

「きょ、曲名は『Ageha』です」

「Ageha……。アゲハ…………。うーん。すごく好きな曲だけど、アゲハって曲名はどうかな……」

「……………………」

「…………あ」

 し、しまった! あまりにも感動してたものだから、すっかり素になっちゃって、思ってることをそのまま口にしてしまった!

「ご、ごめん! 別に愛歌の曲を悪く言うつもりはなかったんだ! いや、むしろ曲は完璧で曲名だけ気になったというか……って、そうじゃなくて! だから、なんか偉そうなこと言ってごめん!」

「……センパイだったら、今の曲にどんなタイトルをつけるのですか?」

 当然怒られる……最低でも気分を悪くされると思ったけど、愛歌は冷静にそう質問してきた。

 プロ根性なのか、はたまた単に曲名に思い入れがなかっただけなのか……真意の程はわからなかったけど、ここはその流れに乗らせてもらうことにする。

「え、えっと……もし僕がつけるんだったら……『わたしの空』、とか……」

 ……う。いくらなんでも苦し紛れすぎた。

 僕の感性を総動員して考えたタイトルではあるけれど、だからといって本職の人間に敵うはずがない。そもそも、前タイトルがすっげぇオシャレ感溢れるものだったのに対して、僕の代案は普通に日本語だし。なんとなく弱々しい気もする。

「わたしの空、ですか……」

「あー、え、えっと……その。気分を悪くしたなら、ごめんね。愛歌の曲があんまりにも凄かったから興奮しちゃって。だから、素人の意見なんて気にしないで」

「それでも、音楽を聞いてくださる方は基本的に素人ですし……」

「…………うっ」

 確かにその通りだ。反論する余地も無い。

 これ以上見苦しい言い訳を重ねてもアレなので、ここは素直に謝罪することにする。

「そのっ。ほ、ほんとにゴメンね? えーっと、そうだ。もしよかったら、お詫びに何かするよ。ほら、例えばここのカラオケ代を奢るとか――」

 お金で解決するとは我ながら浅ましいような気もしたけど、今はそのくらいしか思いつかないのだから仕方ない。賄賂も誠意の形だと誰かも言っていたし、ここはなんとかこれで収まってくれるとありがたいんだけど……。

「お詫び……ですか。別にセンパイに謝ってもらう必要はないのですが……丁度いいです。実は、再来週の月曜日がチーフの誕生日なのです。そのプレゼントの買出しを今週の土曜日、バイト上がりにすることになっていたのですが……わたし以外誰も予定が空いてなくて。よかったら、センパイも付き合ってください」

「チーフって、バイト先の?」

「はいです」

「もちろん! そんなことでいいならお安いご用だよ!」

「……そうですか。それでは、よろしくお願いします」

 ふう。なんとか凌げたようでよかった……。

 考えてみれば、愛歌が一生懸命作った曲に文句をつけるなんて、とんでもないことだったよな。それを買い物に付き合うだけで許してもらえるんだから、本当に助かった。

 その後も僕はボカロを、愛歌ちゃんはオリジナル曲をいくつか歌った。どれもすごくいい曲ばかりだったけど、やっぱり僕的には最初の曲が一番好きだった。




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