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Piece 1. 隣人のネオニート



『――――!? ――――!!』

 今日のお隣さんは喧嘩だった。

 いや、『今日』ではなく『今』と言った方が正確かもしれない。

 この部屋に……京都に引っ越してから、二ヶ月になる。このアパートはやたらと壁が薄いせいか、隣の物音が丸聞こえだ。そんなわけで、僕は二ヶ月ほど隣人の激しい騒音に悩まされている。

「…………はぁ」

 狭いワンルームアパートに、切ないため息が漏れた。

 太陽は高く昇り、もうすぐお昼だ。

 六月の、平日の、しかも昼間に、僕みたいな十八歳の男の子がワンルームアパートの自室に引き篭もっている。……どう考えても『普通』じゃない。

 普通であることを何よりも重んじ、普通であることを何よりも愛する僕なのだけど、高校は卒業してしまったし、大学にも行けないのだから仕方ない。

 そう。僕は大学受験に失敗したのだ。

『――っん! ――あ、!』

 ノスタルジックな気分で二ヶ月前の悪夢を回想していた僕の耳に、今度は艶かしい声が届く。

「…………はぁ~~」

 なんでだよ、と思う。

 引っ越した当初は、この謎の現象にめちゃくちゃ悩まされた。

 だって、一秒前まで激しい物音と共に喧嘩していたのに、一瞬で夜の営み的情事が開始されるのだから。どんだけ情緒不安定なんだ!とツッコみたい。

 しかし、今となってはこの謎も解けている。

 僕は頭を掻きむしって立ち上がると、玄関でサンダルを引っ掛け、そのままの勢いで隣の部屋へと移動した。

 表札に書かれている文字は『新戸』。

 読み方は『にいと』で、『ニート』らしい。……ふざけんなっ!

「たまにはヘッドホンをしてください! 精神的ストレスでやられそうです!!」

 大声でクレームをつけつつ、ドアを乱打。

 しばらくすると鍵を回す音が響き、ゆっくり開いたドアの隙間から、びっくりするほど整った顔がこちらを覗いた。

 すとん、と腰の辺りまで流れ落ちた癖のない黒髪に、大きな瞳。薄く化粧をしているのか、とてもじゃないが男には真似できない滑らかな肌。ドアを掴む手の爪は淡いピンク色のマニキュアに彩られており、甘い桃の香りが鼻腔をくすぐった。

 そんな彼女の服装は、肌が透けて見えるほど薄いピンク色のドレス。……健全な青少年には目の毒だ。

「……んー? なんだ、隣のローニンじゃないか」

「ろ、浪人って言うな! ニートのくせにっ!!」

「いや、お前も実質ニートだろうが……」

 くぁ~、とあくびをして目の端に涙を浮かべる。

 人と対面している時に大口開けてあくびなんて、これだからニートは……。

「……ところで、ローニン。私はお腹が空いているぞ」

「はあ、そうですか」

「目玉焼きを所望する!」

「貴女の目玉をくり抜いて差し上げましょうか」

「落ち着け、ローニン。敬語だが全然敬ってないぞ」

「そりゃ、敬う気がないですからねえ!」

 この、美人なのに乱暴な口調というギャップが素晴らしいお姉さんは、名を新戸匠(偽名だろ、どう考えても)といい、僕が現在住んでいるマンションの隣の部屋に住んでいる。

 引越し当初、猫被って挨拶に伺ったのが運の尽き。

 便利な奴隷を見つけたくらいのテンションで、やたらと迷惑をかけられている。手土産に持っていった和菓子を返してほしい。

「昨晩、遅くまで短期トレードを繰り返していたから、眠いんだよ。コンビニまで行く気力もない」

「空腹で飢え死になさったら、よろしいんじゃないでしょうか」

「……作ってくれないなら、今後、BGMのボリュームをマックスにするのもやぶさかではない」

「はぁ……。わかりましたよ。作ればいいんでしょ、作れば……」

「おー。ありがとう! それじゃ……ほい、食事代」

 そう言ってブランド物の長財布から取り出したのはユキチさんがお一人。

 卵一個の代金としては行き過ぎだ。こちとら激安セールを狙って買っているのに。それだけあったら一体何パック買えるんだよ。

「毎度言ってますけど、貰い過ぎです。たぶん、一個十円くらいです。卵二つにたっぷりベーコン使っても百円もしませんよ。……小銭はないんですか?」

「ない」

「この金持ちがあああっ!!」

 万札しか持たないお金持ちとか、空想上の生物だと思ってたわ!

「もう、サービスでいいですよ……。キッチン貸してください……」

 自室に引き返して冷蔵庫から卵二つとベーコンを取り出し、再び帰還。隣人の玄関を入ってすぐにある洗濯機は、乾燥機能まで付いている最新型だった……。

 この偽名を使っている『見た目だけ美人』は、ニートだ。

 ただし、ただのニートではない。傍目にはほとんど働いていないように見えるが、きっちりと収入源を確保している『ネオニート』なのである。

 基盤を不動産による家賃収入で固め、趣味で株の短期トレードやFX、先物取引などにも手を出しているのだとか。月々の収入は平均して七十万円だと聞いたことがある。

 ついでに言えば、今、僕が賃貸させてもらっているこのアパートも、彼女の投資用物件の一つであるらしい。つまり、あくびをしながらソファでくつろいでいるあのニートが、このマンションの大家さん。

 ……この世界は、なんて理不尽なんだ。

「……できました」

「おおー。待ちわびたぞ。苦しゅうない。持って来たまえー」

 金持ちに隷属する召使いよろしく、キッチンからリビングへと朝食を運ぶ。時間的にはブランチだが、ニートは起きた時が朝なのだと、いつぞや語っていた。

 ニートのリビングは、意外なほど整っている。間取りは僕と同じ六畳のはずだが、僕の部屋よりもずっと広く感じてしまう。

 たぶん、家具がほとんどないからだろう。上質そうなソファが一つと、ローテーブルが一つ。あとはテーブルの上にあるノートパソコン。目に映る家具はそれで全部だ。テレビや時計すらない。

 そして、テーブルの上にあるノートパソコンからは、僕もつい最近、合法で見れるようになった大人向けの映像が音声と共に垂れ流されていた。

「……いつも言っていますが、年頃の女性が真昼間からそんなものを見るのは控えてください」

「んー? 一応、私は二十歳だぞ? あと、女にも性欲はある」

「…………」

 ここまで開けっぴろげな女の人を、僕は人生で初めて見た。

「そして、私も毎度言っているが、これは小説用の資料だからなー。完成したらお前にも読ませてやるよ。私史上初! 渾身の官能小説を!!」

「いりません。見たくないです。気持ち悪いです」

「自信あるのに……」と呟くエロニートを無視し、テーブルにブランチを配膳する。

 これまでの経験上、目玉焼きだけ置くと激怒するため、今朝炊いた白米と簡単なサラダも一緒に添えて出した。それが自然になっている辺り、本格的に彼女の奴隷に近づいているようでげんなりする。

「おおー。いつもありがとなー」

 キラキラした目で目玉焼きを眺め、無駄に礼儀正しく「いただきます」をするニート。

 そこで、ピタリと動作を止めた。

「ふむ……いつも借りばかり作るのは悪いしな。そろそろ恩返しでもするか!」

「やめてください。迷惑です。気持ちだけで十分です。ていうか、絶対に面倒なことになるのが確定してるんで、余計なことはせず大人しくしていてください。それが僕にとって一番嬉しい恩返しです」

「そうか、そうか。そんなに私の恩返しが嬉しいか!」

 こいつ……人の話聞いてねぇ!

「だが、タダというわけにはいかんな!」

「タダじゃない恩返しって、親切の押し売りだと思うのですが」

「そこで、お前に試練を与える!!」

「押し売りにプラスして試練なんて、本当にサディスティックですね」

「さあ! お前の選ぶ道は二つに一つ! しょう油かコショウ! お前の信じる道を選び、私の目玉焼きにかけるのだー!」

「僕の嫌味は完全スルーですか」

 まあ、期待はしてなかったけど。

 僕を無視して「のだー!」と手を上げたまま硬直するニートが逆ギレする前に、僕は目玉焼きにしょう油をかけた。

 理由は単純。この面倒なニートが常にコショウで目玉焼きを食べると知っていたからだ。無駄な押し売りは断るに限る。タダより高いものはないって言うし。

「な……なん……だと……」

 口に手を当て、まさか!というあからさまなジェスチャーで驚愕する彼女を残して退室しようとしたら、服の裾を掴まれた。……びくともしない。

 僕よりもずっと細い腕で信じられないことなのだが、彼女の握力は三桁近くあったことを思い出し、諦めて元の位置に戻った。

「さ、さすがローニン……! いつから『至高のしょう油』に気づいていた!?」

「くっくっく……我には全てお見通しよ……!」

「な、なんと!!」

「……うわー。ノッてみたものの、超めんどくせー」

 本心を吐露して去ろうとすると、また服の端を掴まれた。

 つい先日まで高校生だったことも相まって、僕はほとんど私服を持っていない。貴重な主力を引き裂かれるのはごめんなので、仕方なく元の位置に戻る。

「というわけで、見事試練をクリアした褒美に、私からネオニートの極意を伝授してやろう!」

「ウワー。ウレシイナー。タノシイナー」

「そうだろう、そうだろう」

 満足そうに頷き、目玉焼きに箸をつけてくれたことで、ようやく僕は解放され、自室に避難することができた。



 迷惑なニートから逃れるため、僕は近所のスターバックスに向かった。

 あの人の行動力は尋常じゃない。しばらく頭を冷やしてもらわないと……。

 窓際のカウンター席。目の前にはキャラメルフラペチーノ。価格、四七〇円也。……高校時代、扶養の身分だった僕には全然気にならなかった金額だけど、こうしてニートになった今ではとても大きな出費に感じる。

「はあ……」

 店内の窓越しに見上げる空は六月に相応しい曇りで、今の僕の心境を如実に表しているかのようだ。

 一応、浪人生という身分ではあるが、あまり焦って勉強する必要はないのだ。

 それは、受験までもうしばらく時間があるという意味でもあるし、僕の学力がそんなに低いわけではない、という意味でもある。僕が大学受験に失敗したのは、単に本番で風邪をひいてしまったからだ。入学試験を四十度近い高熱で受けるハメにさえならなければ、何の問題もなかったと思う。

 店の外をスーツ姿の男性が通り過ぎる。サラリーマンだろう。

 その他にも、たくさんの人達が真っ当な生活を送っていた。

 ……僕も、そんな人生を送りたかった。他人に言わせれば「浪人くらい……」と言うかもしれない。実際、浪人をしていい大学に行き、立派に就職して頑張っている人だっているんだろう。そういうこともわかってる。

 だから、これは僕だけの個人的な価値観なのだ。誰かにくだらないと笑われても、僕がそう思うんだから仕方ない。

 そんなことを思いながら、世界中から除け者にされた気分でキャラメルスワークルを啜っていると声が掛かった。

「……隣、よろしいですか?」

 上品そうな女性の声。

 慌てて対応しようと振り返ったところで、僕はがっくりと肩を落とすことになる。

「なんで……ここにいるんですか……」

「なんでって、それはお前が逃げるからだろう」

 一変して漢口調に戻った女性は、もちろん隣人のニートだ。

 この人から逃げるためにわざわざスタバまで出向いたというのに……。

だけど、この人がここに居るということは、観念した方がいいだろう。そこまでの行動力があるということは、この人の中で何かしらの悪事(恩返しとは絶対に言えない)を僕に働くことが決定事項だということである。そうでなければ、だらだらとマンションで待つなり、またの機会を窺うなりするはずだ。

 ため息をついて脱力する僕を他所に「よっこいしょ」なんてオッサン臭いセリフを吐きつつ、僕の隣の席に腰を落ち着けた。

「はあ~。しかし、平日の昼間ってのはいいもんだな~。見てみろよ、外。この蒸し暑い日にあんなスーツ着て仕事してるぞ? 涼しい店内にいる私達は勝ち組だな~」

 はっはっは、と笑うニート。外なので普通のロングスリーブTシャツにジーンズを着ているが、その声と態度だけで店内の視線を集めてしまう。……恥死しそうだ。

「……僕はいいと思いますけどね、サラリーマン。汗水垂らして家族のために必死に働いているんです。すごくカッコいいですよ。そんな人達をバカにする権利なんて、誰にもないと思います。……たとえ、金持ちだったとしても」

 皮肉っぽい発言になってしまったけど、それが僕の本音だ。お金に恵まれていて、日常的に働かずに済む金持ちには分からないかもしれないけど。一般人だって一生懸命生きているんだ。

 そして、これは僕の僻みだけど……そうやって『普通に』頑張っている彼らが、僕は心底羨ましい。

「……………………」

 店の外を行き交うサラリーマンを目で追っていると、隣のニートも黙ってしまった。

 さっきの僕の発言が気に障ったのだろうか?

 ……それならそれで、仕方ない。結局、僕とこの人は住む世界が違うのだから。

「お前、やっぱり面白いなぁ」

 だけど、それは僕の杞憂だった。

隣を見ると、月に七十万を稼ぐネオニートが元気いっぱいの笑顔でニヤニヤしていた。

「私はな、お前が好きなんだ」

「ぶっ!?」

 いきなりの発言に思わずキャラメルスワークルを噴き出す僕。

 え? え? 今、この人、なんて……!?

「こらこら、誤解するな。好きって言ってもLoveじゃなくてLikeの方だよ。……まったく。これだから童貞ぼーやは……」

「…………」

 はっはっは、と笑うニートに対して、僕は赤面するしかない。

 わ、悪かったな! どーせ勉強ばっかりで彼女なんてできたことないよっ!

「私はな、面白いものが好きなんだ。そして、お前は面白い。だから私は、お前が好きだ。二ヶ月間色々あったが、お前には割と世話になりっぱなしだったからな。恩返ししたいというのも本当だが、二ヶ月間も私の無茶振りに対応できたお前と、もっと遊びたいっていうのが、本音なのさ」

 ニッと、歯をむき出しにして心底楽しそうに笑う。

 その笑顔を見て、ほんの少しだけ羨ましいと思った。そんな笑顔、僕は人生で一度もしたことがなかったから。だから、血迷ったのかもしれない。こんな、僕とは住む世界が違うネオニートの提案に乗ってみようかと思ったのだから。彼女と、少しだけ遊んでみようと思ってしまったのだから。

「……はぁ。わかりました、わかりましたよ……。それじゃあ、その『恩返し』、しっかりと頂くことにします」

「おう。そうしろ、そうしろ。おねーさんと一緒に、遊ぼうぜ!」


 そうして、僕にとって十九回目の夏が始まった。

 一生忘れられなくなる、ニートと過ごす夏が。




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