5,真名 授与
俺がこちらに戻ってきて、早数日が経過した。
もちろん、『働かざる者食うべからず』がモットーの華琳が俺をたった数日だけでもそのままでいさせてくれたわけがない。
まずは軽く学力の試験を受けさせられ、運動能力については
『春蘭から逃げ回ったというだけで体力は十分ね、あとは追々でいいわ。
素手で剣を持った相手を三人も捕縛できたんだもの、今はそれがわかっていれば十分よ』
という言葉を賜り、免除となった。
部屋はかつてと同じ、城の一部屋を使わせてもらっている。
「休み、か・・・・ 前は何してたっけなぁ」
書類仕事は陳留の刺史である現状ではあまり多くない。そして、警邏隊を発足するにはまだ管理できる人材が少ない。今はまだ待つ時だ。
「待つのは得意だけど、好きじゃないんだよなぁ」
かつてほど学ぶことがあるわけではないが、兵法はやはりここでの原文を見たほうがいいだろう。天にもあるがやはりそれは風化し、何度も何度も書き写されてきたものだ。どこで曲げられているかわかったものじゃない。
「それに・・・・」
ここに来るとき三十年分、若返った自分の体を見る。肉体は春蘭から逃げ切った面を考えるとほぼ鍛えたものをそのままこっちに来れたのだろう、動きも、技もあらかた覚えてはいる。
「それでも鍛えなきゃな」
まだ、届かない。届いた気がしない。
冷静に分析することが出来ても、それはあそこが戦場ではなかったからだ。あとはこれをどれだけ実践に活かすことが出来るか、そのために体力はいくらあっても困る物ではない。
それに俺が学んだのはあくまで現代の武術、こちらでは護身術程度のものばかりだ。
「よし!」
上着を脱いで、床へと倒れ込むように腕立てを始める。
まずは腕立て、腹筋、背筋を百回ずつだな。
そう思い立ち、やること半日。俺は二時間に一度は休憩をとりながら、何度かそれを繰り返す。
「仁、入るわよ」
突然聞こえた扉を叩く音と華琳の声に俺は顔をあげ、すぐさま起き上った。
「ちょっと待ってくれ。今、汗を拭いて上着を着るから」
「そんなことを気にする仲かしら?」
「『親しき仲にも礼儀あり』だろ?
それに好きな女の前で汗だくなんて、恰好がつかないだろ」
扉の向こうから聞こえた華琳の茶化すような声に、俺は苦笑交じりにそう返す。
「・・・・・馬鹿」
扉の向こう側からわずかに聞こえたその声を俺は聞き逃さない。
きっと、顔を真っ赤にして、俯いて言ってくれただろうその言葉を俺は胸にしまいながら上着を羽織った。
「どうぞ」
「えぇ、入るわ。あなたも入ってらっしゃい。白陽」
「・・・・はい」
俺がそう言って促すと、華琳ともう一人が入ってくる。全体的に色の白い小柄な少女、髪はうっすらと青が混じり、その髪は肩のあたりで切り揃えられている。右目は穢れを知らぬ水面を映した青、左目はまるで秋の稲穂のような力強い黄。
天で言うアルビノで、オッドアイの持ち主だった。
「綺麗な目だな・・・・」
おもわず俺は、反射的にそう漏らしていた。
「えっ・・・・・?
この目が綺麗、でしょうか?」
華琳よりも早くその言葉に反応したのは、本人である少女だった。
そして、彼女はすぐさま右目を前髪で覆ってしまった。
「あぁ、右目はまるで湖面を映したみたいな青、それなのに左目は金の稲穂みたいに輝いてる。
隠すなんてもったいないと思うな」
名前も知らない少女へと、俺はそう言い切る。
仮面越しの限られた視界の中で、華琳から半歩離れた位置にいる少女もまた俺を見つめた。
戸惑いはあっても、恐れのないまっすぐな瞳。春蘭に似ているが、知性の輝きもある。そんな気がした。
「仁・・・ 話をしたいのだけど、いいかしら?」
呆れ果てた声に俺たちは同時に我に返り、視線を華琳へと向けた。
「あぁ、すまん」
俺は軽く謝りつつ、椅子を示して座るように促すが華琳はそれを手で断った。
「私はすぐ戻るからいいわ、彼女をあなたの補佐に使いなさい」
「俺に補佐が必要なほど仕事をさせる気かよ・・・・」
おもわず苦笑と共にそんな言葉が零れ、華琳は悪戯そうに笑って俺の手へと触れてくる。
「当然じゃない。
人材は眠らせておくものじゃない、使ってこそ真価を発揮するわ。あなたも、彼女も、眠らせておくなんてもったいなくてできないもの。
休日だというのに、休まず鍛錬に励むくらいだものね?」
俺の全てを見透かす蒼天の瞳、それが不快ではない。
むしろその優しげな瞳に吸い込まれそうになる。
「暇だっただけだよ」
「フフッ、そう言うことにしておきましょう」
俺は視線を逸らしてそれだけを応えると、華琳は愉快そうに笑って少女を手で促した。
「姓は司馬、名は懿、字は仲達。真名は白陽と申します。
白陽とお呼びください」
「俺は赤き星の天の使い、姓は曹、名は仁、字は子孝。真名は・・・・・まだないんだよなぁ」
そう、あれから数日経つというのに俺の真名は決まっていない。
本来は生まれた時に親から授かるものらしく、この世界に真名がない者がいない。どんな捨て子も真名だけは授かってから捨てられるらしく、途中からつけてもらうという前例がないのだ。
『しっくりくるものが見つからないのよ。私たちでは半端にあなたを知りすぎていて、つけられないわ』
というのが華琳たちの弁だ。
気持ちはわからなくはない。子どもに名をつけるときだって多くの祈りや意味を込めてつけてはいるが、それはその子のまだ見ぬ将来を期待してつけるものだ。
その子がどんな人間になるかどうかがわからないからこそ、つけられるとも言える。
固定された概念がないからこそ、人の本質を直感的な何かで感じることが出来る。
「・・・・・」
俺と華琳の会話の中、白陽はまっすぐに俺を見つめていた。
なんとなく俺も彼女と目線を合わせ、ふと思いついたことに口元が弧を描いていた。
「なぁ、華琳」
俺は小声で華琳に語りかけた。
「好きにしなさい」
俺が何を言うかわかっているかのような口ぶりだった。
「俺はまだ何も言ってないぞ?」
「その子に真名をつけさせる気でしょう?」
間を置かず応えられる答えに笑みがこぼれる。さすが華琳、俺の考えなんてお見通しだ。
俺なんかじゃ届くはずもない高みにいる、愛しき王。だけど俺は、その背を支えてみせる。
「私は仕事に戻るわ、決まることが決まったら報告しに来なさい」
そう言って身を翻し、俺へと通り過ぎ様に小さな声で囁いていく。
「しっかりやりなさい。私の一刀」
ヤバい、惚れる。
あっ、とっくに惚れてた。
頭の先からつま先まで嫌いなところなんて、一つもねぇわ。
心の叫びをなんとかしまい、やるべきことを成す。
そして俺は白陽の前に立ち、そっと手を差し伸べた。
「なぁ、白陽。
さっき会ったばっかりで、何も知らない俺に真名をつけてくれないか?」
俺がそう言うと彼女は目を見開き、瞳がわずかに揺れる。
「その前に、一つだけお聞かせください。曹仁様」
白陽はけして目を逸らさず、仮面に隠れた俺の目を見ていた。
綺麗な青と黄の瞳が俺を確認して、何か答えを欲していることがよくわかる。
「俺が答えられることなら、喜んで」
俺はそれに笑顔を作って答え、彼女の瞳を見つめ返した。
「あなたは何故、私の目を厭わないのですか?
そして、何故あのような言葉を言ってくださったのですか?」
あのような? 最初の『綺麗』ってところか?
「白陽は、自分の目が嫌いか?」
「はい、嫌いです」
間髪入れずに帰ってきたその返事は、今まで彼女がその目によって何があったかを語っているようだった。
捨てられない自分の体の一部、しかも隠すことが出来ても自分自身が不利になる目という器官。
「我が司馬の血筋の者は皆、左右の色が異なります。
ですが、私以外の誰もが近しい色で人に気づかれないのです。その中で私は、こんな色を持ってしまった!
同情、憐み、畏怖、多くの感情が私を襲ってくる!
聞こえてくるんです!! 周りの人間が私を厭う言葉が!
耳を塞いでも、目をつぶってもあの視線が見えてしまうんです!!
この目がなければ! こんな色でさえなければ!!」
右目を握りつぶさんばかりに顔に手を当てる彼女を俺はそっと抱き寄せ、その手を押さえた。
「体の一部が異端であること、それによって伴った痛みは俺にはわからない」
俺の体には、どこもおかしなところがない。
標準的な体型、今こそ精神的なショックで真っ白な髪だが、かつてはどこにでもあるこげ茶にも見える黒の髪。
どこかに特殊なあざが存在したわけでも、生涯体に残る傷があるわけではない。
しかも、この子は女の子だ。
周囲の心ない言葉と、無意識の同情的な視線がどれほど辛かったかことだろう。
「だけどな」
俺は抱きしめた白陽の顔を見ながら、もう一度彼女の瞳を見る。
うん、やっぱり綺麗だ。
「俺は何度見ても、白陽の瞳が綺麗だと思う。ずっと見ていたいって思うくらいに」
白陽の瞳にかかった前髪をあげてから、零れていた涙を指先で拭う。
アレ? 顔が赤い?
「大丈夫か? 顔が赤いけど、目元擦ったからかな?」
失敗したな、濡れた布で目元に当てるべきだったな。
女の子の肌は繊細だということを失念した、男の手じゃ目元とか繊細なところは傷つくか。
「そうじゃありませんよ・・・・クスクスッ」
何がおかしかったのか、白陽は俺の腕の中で笑いだし、俺はその柔らかな笑顔を見て自分の口元が上がっていくのを感じた。
その衝動に任せて俺は白陽を抱いたまま、俺はその場でクルクルと回りだす。
「そ、曹仁様?! ちょっ、これは恥ずかしいです!?」
腕の中で白陽がそんなことを言うが俺は笑いながら、そのまま回転を繰り返す。
「ハハハハ、俺を止めたきゃ気絶させてみろー」
「えぇ?! そんなこと、立場もありますから出来ませんよ!」
『立場』って言ったね、つまり出来るってことだよね?
この密着状態で攻撃を繰り出すことが出来るのは精々首、何より俺が白陽の腰を抱いているので足技もあまりうまく決められないだろう。だとすると・・・・・
「立場なんてまだないようなもんだし、遠慮なんてしなくていいぞ?
じゃないと俺、ずっと回ってるぞ」
「その言葉、忘れないでくださいね? 失礼します!」
その言葉と同時に、俺の意識は見事な手刀によって刈り取られた。
あぁ、柔らかい。
目覚めてまず思うのは、そんな馬鹿なことだった。
「曹仁様、お気づきになられましたか。その、大丈夫ですか?」
俺を覗きこんでくるのはやっぱり綺麗な青と黄の瞳で、やっぱり不安げに揺れていた。
「あぁ、膝枕が気持ちいい、かな」
なんとなく右手を伸ばして、彼女の右顔を撫でる。
「もぅ、曹仁様ったら!」
俺の言葉に対しては怒っていながら、まるで猫のように顔を俺の手に寄せてくる。
「白陽は隠密だったか、あの見事な手刀は」
「はい、司馬は主に軍師ではなくその斥候を行う隠密の家系です。
情報収集に長け、あらゆるところに飛び回っています。
ですから・・・・ あなた様の秘密も知っております」
俺へとそう囁いてくる白陽を撫でながら、俺は微笑んだ。
「そっか」
「口止め、なさらないのですか?」
俺のどうともないような口振りが気になったのだろう、白陽は聞いてくるが俺は笑ったまま撫でている逆の手で仮面に手をかけた。
「華琳が補佐に選んだ時点で、俺から話すことは決まってたようなもんさ。
これは別に隠すことじゃない。ただ、同じ顔、同じ名前が居たら多少めんどうなことが増える。
それを避けるためだけのものだよ」
この仮面も、名も、服も全ては一つの面倒事を避けるためだけに用意されてる。
「だから、本当はここじゃまだ必要ないのかもしれない」
「情報はどこから漏れるかわかりません。国内でも徹底するのは当然です」
その通りだ。
行商人だって行きかう町の中で、どこで情報は洩れるかがわからない。だからこそ、華琳は司馬家をこの国の中枢に引き入れたいのだろう。
情報は何にも代えがたい貴重なもの、その重要性を誰よりも知っている。
「曹仁様・・・・あなたは雲、冬の雲です」
俺がまだ眠い目でぼんやりと白陽を見ていると、彼女は突然そう言ってきた。
「あなたの真名は冬雲。
冬の空に優しげに浮かんでは、空を覆って日を隠す。
大地を見下ろしては楽しげに風に舞う、そんな方」
俺はもう手を下していて、今度は白陽の手が俺の頭を撫でていた。
心地よい微睡みの中、わずかに見える彼女の目にはもう戸惑いも、怒りも、恐怖もなかった。
真名の通り、春の白き陽の光りように俺を照らしていた。
「私、司馬仲達は、冬雲様に生涯お仕えすることをここに誓います。
皇帝でも、王でも、国でも、家でもなく、ただあなた様のために私はこの身を捧げましょう」
心地よい眠りにおちながら、彼女の誓いを俺はしっかりと心に刻み込んだ。