二度目の始まり 【風視点】
おぉ、これは夢ですね。
いわゆる胡蝶の夢というものですねぇ、とても珍しい経験です。
空には白い真ん丸の月、とても綺麗で神秘的な夜。風はこの空を知っているのですよ。
あの日、ですか・・・・・ 少し、苦しくなってきますね。
昔、そうとても昔であって、どこかに存在した遠い未来のこと。
この大陸に存在する本当に一握りしか知らない、大きなもの ――― 仮に『時の管理』としましょうか ――― によってお兄さんを失わされた日。
「風・・・・・一刀は、天へと帰ったわ・・・・」
華琳様からその事実を最初に受け取ったのは、風でした。
「やはりですかー」
悲しみよりも先に来るのは、不思議な思い。
望んではいなかったことであっても、あの時から頭の片隅を離れずに在り続けてしまった予測でしたからね・・・・
「あなたも、わかっていたのね? 風」
「なんとなくですが」
最初は勘に近いものでしたが、お兄さんが体調を崩したときからそれは確信へと変わりました。
病ではないもっと大きな何かが、お兄さんをさらおうとしている。
お兄さんをこの世界から奪おうとしていることを、風は知っていて何もできなかったのですよ。
いえ、これはいらないですね・・・・ 風が言いそうに、考えそうになってしまったことは全て言い訳ですし。
それよりも今は、現状を何とかしなければなりません。
「祝いの席ではありますが、皆に伝えなければなりませんねぇ」
「えぇ、そうね・・・・・ いつであっても混乱は避けられないもの、早いほうが良いでしょう」
風には背を向けたまま、華琳様の声はいつも通りでした。
ですが、華琳様。
風は見ていたのですよ、大陸の覇王、魏の日輪、民を思う優しき鬼であるあなたが『ただの女の子』であった姿を。
「華琳様、皆には風が伝えておくのですよ」
ですから、せめて今だけ、今夜だけはご自分にそうあることを許してあげて欲しいのです。
「風・・・?」
「明日にはこの事実を呉と蜀に報告しなければなりませんし、戦も終わったばかりですから。
これ位は風に任せてほしいのですよ」
風は笑えているでしょうか? お兄さん。
お兄さんがそうであったように、誰かがつられて笑ってくれるような笑顔は出来たでしょうか?
「・・・・・・申し訳ないけれどお願いするわ、風」
「お任せください、華琳様」
華琳様に背を向けて、風は歩き出しました。
お兄さんがいつも無意識に支えてくれていたように、堂々とはしていないかもしれません。
風は非力ですから、全部を支えることは出来ないかもしれません。
ですが、お兄さん。
風はお兄さんが帰ってくることを、いつまでも信じているのですよ。
どこにいても、どれほどの時が経とうとも、お兄さんの居場所はここですよ?
国としては、『天の遣い』であるお兄さんを。
人材としては、警邏隊を指示する一人の隊長としてのお兄さんを。
そして、女としては、『北郷 一刀』というお兄さん自身がどれほど重要かを風がじっくり・・・ それは風の仕事ではありませんね。桂花ちゃんにでも任せましょう。
お兄さん、お兄さんのせいで風は月が嫌いになりそうです。
だから月見をすることは、お兄さんが帰ってくるまできっとありません。それまでふて寝でもしていましょう。
お兄さんがいつものように『寝るな』と言って、デコピンをして起こしてくれる日を風は何時までも待っているのですよ。
乾いた風、陳留の近くのこの場所。うーん、あの日ですねぇ。
「おぉ! 稟、風。あれが見えるか?」
「どれです? 星?」
二人のその会話を聞きつつ、星ちゃんが指差す方向へと視線を向けました。
そこにいたのは黄の頭巾をかぶり帯刀した男三人を、無手で相手どる見たこともない衣服をまとった白髪の男でした。
あぁ、お兄さん。随分、逞しくなって帰ってきたのですねぇ。
管路の占いを聞いたとき、まさかとは思いましたが無手で三人を相手にすることができるほどですか。
「私は先に行くぞ」
「星! ちょっと・・・!」
言葉と同時に駆け出した星ちゃんに稟ちゃんの制止の声がかかりますが、もう行動に移ってしまった時点で止めるのは無理ですねぇ。
「稟ちゃん」
「風! あなたも星を少しは止めて・・・・・ 風?」
おやおや、どうして風を見て驚いたような顔をしているんでしょう?
「あなた、泣いているの?」
「・・・・おぉ、これは気づきませんでしたね。うっかりしていました」
目元を拭うと、布が濡れています。風は泣いていたのですね。
「稟ちゃん・・・・・ 風はあの時、お兄さんが消えることを知っていたのですよ」
星ちゃんがより近くで見学しに行ったのをいいことに、風の口はいらぬことを語りますよ。
「・・・・・」
何を言うでなく黙って聞いてくれる稟ちゃんは、果たして聞き上手なのでしょうか。 いえ、今はきっと話の全容が解るまで答えようがない、といったところでしょうかね。
「お兄さんが倒れた時、八割予想は出来ていました。
ですが、止めることが出来なったのですよ。お兄さん自身、それをわかっていた上で望んだのです」
これは言い訳なのです。
お兄さんの事を知っていながら、どうすることも出来ずにいたあの日の自分自身の。
お兄さんは恐れていました。どうなるかわからない自分自身、天へと帰る保証などなくそのまま死んでしまうことすら考えていました。
「ですが、お兄さんは自分自身よりも風たちを選んでくださったのですよ」
それでもお兄さんは風たちの内、誰か一人でも欠けることを拒んでくれた。今思い返せば、もしかしたら稟ちゃんも死ぬ定めだったのかもしれませんね。風土病に関して進言していたのはお兄さんですし。
「そんなことは、わかっています。
あの方がどんなに優しいか、どんなに私たちが傷つくのを拒むかくらい」
そう言って稟ちゃんはふと手を見ています。おそらくは稟ちゃんにはその手が手袋以外の何かがあるでしょう。
「こんな手を握ってくださる方は、あの方以外いません」
掌を握って目を瞑る稟ちゃんを見ながら、風は今のお兄さんを見ます。武の心得のない風でもわかる鮮やかなお手並み、しかも誰一人として殺してはいません。
もしかしたら、甘さはそのままかもしれませんね。まぁ、それでこそお兄さんなのですが。
「それでも、お兄さんは帰ってきたのですよ。稟ちゃん。
さてさて、風は先に行くのですよ。稟ちゃんはもう少し後から来るといいのです」
稟ちゃんを置いて前へ進みます。あまり見られたくないものでしょうし、すぐに来てくれるでしょう。
「あぁ、そうでした」
ふと思い出して、振り返らずに手をたたきます。さぁ、宝譿どうぞ。
「星が落ちた日以来、夜中にこそこそと考えていた言葉はあの色男にはいわねぇでやるから安心してもいいぜぇ」
「なっ!!??
風! あなた、聞いて!?」
フフフフ、風が知らないことは多いですが、稟ちゃんのことで知らないことは多くないのですよ。
「お世辞でも嬉しいよ。俺の名は・・・」
「お兄さん、ですよね?」
お兄さんは割って入った風を見ます。以前とは異なる、それでいて見たこともない衣服。
髪は何故か白、それでいて瞳はあの日と何も変わらない。
いいえ、違いますね。かつてよりずっと強い何かが宿っていて、とても眩しいですよ。
「・・・・・・久しぶり、風」
声は変わっていないのですねぇ、風はこの声を聴くと眠くなるのですよ。
とても心地よく、落ち着きますね。ですが、まだ寝るわけにはいきませんね。
「えぇ、風は風ですよ。
お兄さんはずいぶん姿が変わってしまいましたねぇ、もう白髪が生えていますよ?」
さぁ、久しぶりにお兄さんを困らせて遊びましょうか。
そそくさとお兄さんの傍に寄って、その体の正面からもたれかかります。
おぉ! 以前よりも胸板が厚いのです! とても頼もしく感じるものなのですねぇ、おもわぬ新発見です。
「おいおい、風?」
少しだけ戸惑うようなお兄さんの声が上から降ってきますが、遊ぶとしましょう。
「・・・・ぐー」
「寝るな」
おぅ、お兄さんのデコピンが額に当たりますが、それを嬉しいと思うのはおかしいのでしょうか?
「いいじゃねぇか、許してやれよ。この色男」
「宝譿、あのなぁ・・・」
二人(?)のやり取りが頭上から聞こえますが、風はその間必死に言葉を探していました。
何と言うのが正しいのでしょう?
溢れる喜びは瞬時に記憶の寂しさを呼び起こし、それでいてその傷を癒してくれますねぇ。
多くの疑問をぶつけたいと思う反面、推測の域を抜け出せずにいる今の考えが正しいかを問いたいとも思います。
それでもあの別れから、あの時の終わりまで風自身がずっと抱いていたのは
「風は寂しかったのですよ、お兄さん」
たった一つだけなのですよ、お兄さん。
「・・・・俺もだよ、風」
お兄さんの手が風を包んでくれます。
とても温かく、お兄さんが確かにここにいると、幻なのではないと、証明してくれました。
たったそれだけ、たったそれだけがどうしてこんなにも嬉しいのでしょうねぇ。
「私もいますよ」
稟ちゃんの声が聞こえ、お兄さんの体の動き一つ一つ、心臓の鼓動まではっきりと聞こえますね。お兄さんの鼓動が風たちを見て速いのは嬉しいのですが、もっとゆっくりでもいいのですよ。
「お久しぶりですね・・・・・ 今は何とお呼びすれば?」
稟ちゃんはいきなりそれですかぁ、練習していたのは使わないのですかね?
「久しぶり、稟・・・・ そうだな、『刃』とでも呼んでくれよ」
お兄さんも否定しないのですねぇ。まぁ、どうせ星ちゃんには意味が通じませんし、良いのですが・・・・
稟ちゃんは不器用さんですからね、風が一役かいましょう。
「稟ちゃんも、ここ来ます? まだ、空いてますよぉー」
お兄さんの左半分に空間を作り、お兄さんの逞しい腕に両手を乗せます。やはり、お兄さんの腕の中は良いですねぇ。このまま眠ってしまいましょうか。
「フフ、ではお言葉に甘えて」
そう言って稟ちゃんも、お兄さんの腕の中へと納まります。
お兄さんの腕の中、あの頃も苦楽を共にした稟ちゃんと一番乗り出来るなんて風は幸せ者ですねぇ。
二人のやり取りを聞きながら、この幸せの中で眠りには落ちずに目を閉じましょうか。
「だけど、ずっとこうしているわけにもいかないだろう? そろそろ行かないとな」
「残念ながら」
「まぁ、またすぐに会えますよー。お兄さんがこちらに居てくれるんですから」
風と稟ちゃんの考えがどこまで正しいかはわかりませんし、予測の域を超えることはありません。
ですからお兄さん、お兄さんからこのことだけは教えて欲しいのです。
お兄さんは、風たちの傍をもう離れませんよね?
もう、風たちを置いては行きませんよね?
「あぁ、それは絶対だ。
もう二度と、俺はここから離れるつもりはないよ」
これで言質はとれました。これで風たちは安心して、別行動をとることが出来るのですよ。
「二人が真名まで許しているとは、説明してもらいたいものだな。稟、風」
「まぁまぁ、星ちゃん。それは後ほど。
今は少し面倒なので、我々はおさらばしましょうか~」
説明はどうしましょうかねぇ、うまく誤魔化しておきましょうか。いえ、それは出来ませんね。真実をある一定まで話すとしましょう。
友達に嘘をつくのは辛いですからねぇ、信じてもらえる部分まで語るとしましょうか。
「――――――― それではごめん」
「ではでは、お兄さん。またお会いしましょう」
「それでは」
お兄さんを置いて、風たちはどんどん離れていきます。
ですがそこには、寂しさはありません。
何故なら、お兄さんはこの世界にいるのですから。『ここから離れるつもりはない』と言ってくれました。
それならば、風は風なりに動くとしましょう。
かつてお兄さんが戻ってくるかもわからない世界で続けたことよりも、比べものにならないほどやる気に満ちてきますねぇ。
実に単純ですね、もう風は春蘭ちゃんのことを笑えません。
「風? 笑っているのか?」
星ちゃんの声に、顔に手を当てます。おやおや、無意識に口元が緩んでいたのですね。
「星の普段のにやけ面が、風にも移ったんじゃないですか?」
稟ちゃんの援護が入りますが、そう言っている稟ちゃんの顔にも自然な笑みが浮かんでいました。
「ならば稟の笑みもまた、私のせいとなるのか?」
星ちゃんは怒る様子もなく、楽しげに笑いました。これは完全に何かを察していますねぇ、どこまで話すか加減が難しくなりそうです。
「そうなりますね」
稟ちゃんも楽しそうですねぇ、いえもしかしたら風と同じことを考えているのかもしれません。
「・・・・・ぐー」
「「寝るな!」」
「おぉぅ、会話の和やかさについ眠ってしまいました」
楽しげに笑いながら、三人で荒野を駆けていきます。
さぁ、お兄さん。これからどうするのです?
風たちは今しばらく別行動となりますが、風に限らず皆がお兄さんを思って動いていることでしょう。
お兄さん自身の力、行動はまだ風にはわかりません。ですが、魏の、華琳様の、お兄さんの為に可能な限りは動くとするのですよ。
それでは次の再会の日を、風は心待ちにしているのですよ。