プロローグ
『事実は小説よりも奇なり』 ―― パイロン
数えきれないほどの星々がまたたくただただだだっぴろい広い宇宙。その重箱の隅よりも何万倍も片隅に、おれたちが住んでる惑星、地球は浮かんでいるらしい。そんな地球のそのまた片隅にあるのがおれが生まれた国。
そう、日本である。
総人口およそ一億二千万人、つい最近になって中国に抜かれたけど、極東に浮かぶGDP=国民総生産世界第三位の経済大国っていうのが、まぁ一番簡潔かつありがちな日本の説明だろう。
そんな日本だが、おれはこの国はなんだかんだですごくいい国だと思っている。
そりゃ色々いいたいこともある。いっぱいある。おれが生まれる前から不景気だ、不景気だと、電波がデジタル方式に変わっても何も変わらずにいい続けるテレビやマスコミだとか、クソ高い給料をもらってるくせにほとんど仕事もしないで、国会で居眠りしてる政治家だとか、毎年三万人も自殺で死んじゃう人がいることだとかね。他にも問題は山済みで、それは大人の世界の話だけじゃなく、子供の世界も平等にグローバルスタンダードってやつが浸透してきてるんだと思う。例えば、いつまでたってもなくなるどころかどんどんふえるばかり、しかも今も現役バリバリの学生であるおれにとってはかなり身近ないじめの問題だとか、おれも含めた若い世代を中心に何かに文句をいい続けてるわりにはがんばらない、がんばれない奴らが増えてきてること、だとかね。
それでもおれは日本はいい国だと思うんだ。だってテレビがどんなに悲観的なニュースを垂れ流しても、ピンチを叫び続けても、今日も街中のどこの道路でも一台最低百万円はする車がびゅんびゅん走ってる。とっくに破綻していないとおかしいはずの経済も、未だに世界第三位だし、少し前にすごく話題になってたギリシャのようには当分なりそうもない。
毎年いっぱい自殺しちゃう人がいるのは大問題だけど、それでも日本ではどこかの国のように同じような顔をした、同じく国の人間同士で鉄砲を持って殺し合いなんてしていないし、火事以外で何かが燃えたり爆発したりもほとんどしない。それどころか、何か大きな災害の時の様子を映した映像が世界中に流れた途端、日本人は素晴らしいと世界中の人々にたくさんほめてもらえるぐらいだ。もちろん例外はあるけどね。
だから。やっぱり日本はいい国だとおれみたいなガキでもそう思うわけだ。
そんな結構いい感じの国、日本のごく普通の家庭におれは生まれた。
この場合、普通っていうのは日本人一般の常識に照らし合わせたら、みんながごく普通だと思うだろうっていう意味。具体的に例をあげると、うちの父親は普通の公務員で、母親は専業主婦。夫婦仲も良好で、そしておれ自身も特別何か変な病気やハンデを負って生まれてくることもなかった。その一方、特にうちは代々金持ちの家系でもなかったから、そういうプラスの方向にも概ね普通である。うちは一軒家だけど、まだまだローンは残ってるらしいし。
そんなわけでごく普通の家庭に生まれたおれは、それこそ普通の人生を歩いてきた。ごく普通に赤ちゃんのときはうちの母親のおっぱいを飲み、ごく普通に幼稚園でよだれをたらしながら昼寝をし、そのあと小学生になって九九と漢字に苦しんだあと、ごく普通に成長期と反抗期を中学校のうちにある程度終わらせたおれは、ごく普通に高校生になるための勉強をがんばった結果、ごく普通の高校生になった。
そんな絵に描いたようなごく普通のおれの十七年間。
おれ個人にとっての大事件、つまり小学校の時に木登りして落ちて骨折したこととか、あまずっぱいっていう言葉の意味をフルーツとパイナップル入りの酢豚を食べた時以外に初めて感じた初恋と、その後にやってきたどん底の失恋体験だとかは、もちろんそれなりにある。でもそれは俺より人生長く生きてる人生ってやつの先輩たちからしてみれば、多分大人になる間に必ず通る通過儀礼みたいなもので、おれも後から振り返れば「あぁ、自分って普通だな」って思っていたと思う。
いわゆる大同小異ってやつ。大きなどんぐりも小さな胡桃も、木の実だってことは一緒とかそういう感じ。だって骨折とか初恋とか失恋とかなんてさ、時代が変わっても、国が違っても、もっといえば肌の色が黄色だろうが、白だろうが、黒だろうが、誰だって似たような経験してるはずだろ?
とまぁ、そんなごくごく普通の人生をおくってきたおれも高校生。つまりは人生における通過点である、いわゆるお年頃と呼ばれる時期にさしかかったわけだ。もうちょっときれいな言葉だと青春、汚い言葉だと最初の発情期、まぁ、こんなのはどうでもいいんだけど。
そんなお年頃にはお年頃のなりの願望ってやつがあると思う。願望じゃ固い感じがするから他の言い方にすると、欲望、願い、望みあたりだろうか。まぁ、これもどうでもいいな。
とにかくその願望ってやつは、当然おれにもあったわけだ。
それも別に何か特別なものじゃない。おれの周りにもいるかもしれない一部特殊なやつの願い事である『スーパーマンになりたい』とか『魔法使いになりたい』だとかいう、本来中学校入学までに忘れていないといけないような荒唐無稽で実現不可能な妄想みたいなモンじゃなかったし、『世界一のスポーツ選手になりたい』とか『総理大臣になりたい』だとかいう割と現実的だけど、どこまでも普通だったおれには高望みの感があった、そんな将来の目標ってやつでもなかった。
もっと気軽な感じで、もっとささやかで、お年頃の男の子なら誰だって夢見る、そんな願望。
そう、それこそがおれの願望。それは――女の子に『もてたい』。それだけ。
……我ながら実にシンプルである。
だってさ。男なら誰でも絶対人生一度は下駄箱にラブレターが入っていて欲しいと思うものだし、とある放課後に突然校庭の人気のない場所に呼び出されて女の子に告白されてみたいと思ってるはず。他にも運動部に所属するやつなら、毎日部活でがんばる自分たちを支えてくれるかわいいマネージャーとそういう、つまりラブラブな関係になりたいと思ってなきゃおかしいし、色気づいた中学生や高校生が突然はしかにかかったみたいにどいつもこいつもギターをはじめるきっかけは、おれの経験上絶対にそいつが大きく関係している。もっと分かりやすくいうと、男なら誰だって学生時代に一度でいいから、学校に行くときに一緒に登校して、学校から帰るときには、恋人と手をつないで一緒に帰りたいと思ってるはずなんだ。もちろん手のつなぎ方は恋人つなぎで。
おれがそうなんだからみんなそうに決まってる。少なくてもおれの周りの奴らは大体そんな感じだし。
もちろんあんまりそう思っていない連中も中にはいる。いわゆるイケメンやリア充っていわれるこいつらは、もてない男たち共通の、そして不倶戴天の敵だ。つまり人種が違うわけだ。おれたちはもてない人種で、あいつらはちょっと違う生き物なんだ。だから例外。
ちなみに。もちろんおれは例外じゃないほうの人種。だって顔普通、身長普通だったからな。
そんなささやかな望みを心の中に抱きながら、特に自分が普通であることにたいして疑問も不満も抱かずに、日本中どこにでも転がっているようなごく普通の十七年の人生を過ごしてきたおれの人生は今、何の因果かエライことになっている。
残念ながら。――非常に残念ながら! 今のおれはちょっと『普通』じゃない。――いや、こういうことはきちんと正確に伝えないとダメだよな。
残念だが、今のおれは『尋常』じゃなく『普通』じゃないんだ。
今のおれなら空から雨や雪じゃなくて、槍やブタが降ってきても不思議だなんて思わないし、そういうテレビの番組で幽霊や妖怪、UFOは実在するっていわれてもまったく疑わないだろう。それどころか突然この世界に、魔法使いや正義のヒーローと悪の秘密結社、宇宙人やタイムトラベラーが現れたって「へ~、そうなんだ」のひとことで、スルーできる自信すらある。
これから話すのはそんな普通だったはずのおれの人生が、とんでもなく普通じゃない人生に変わってしまうことになったお話の一部始終である。
最初にいっておくと、こいつはとんでもなく荒唐無稽で、普通の人がいったなら間違いなく「病院に行け」っていわれちゃうような妄想以下のお話だ。それでもこの話は掛け値なし、まじりっ気なしの100%実話なんだってことを、ちょっとでも頭の隅に入れておいてくれると、あんたにもおれの気持ちが少しわかるかもしれないな。
◇◆◇◆◇◆◇◆
誰が最初にいったか知らないんだけど『男子一歩家を出れば百人の敵がいると思え』って言葉がある。でもそれは単なる比喩表現。実際に外にでるだけで百人も敵がいたら、日本中の男は毎日外に出られなくなってしまうから。
……但し、何事にも例外はあるらしい。
そんなどうしようもないことを考えながら、新調したばかりでピカピカのスニーカーのひもをぎゅっとしめて、母さんのいってらっしゃいの声を背に、手提げのカバンをもったおれは今日も戦場にでる。毎朝の事でちょっと慣れたとはいえ、まだまだ足取りは、重い。
それでも気持ちを奮いたたせて玄関を飛び出すと、外はおれの心のくもり空とはまったく真逆の、あまりにも気持ちがいい五月晴れだった。スズメがちゅんちゅんと鳴く声がきこえる。雲ひとつない快晴で空が青い。そのことが逆におれのテンションを下げた。うんざりしながらスチール製の門扉をあけて我が家の敷地を出た瞬間、誰かが電柱柱の後ろに隠れていることに気づいた。
早くも心をおおっていた真っ黒な雲からしとしとと降り出す雨。心理的不快指数が急上昇だ。
おれがその心の中の湿気に悩んでいると、俺が出てきたことに気がついたその誰かがおれに話しかけてきやがった。
「お、お、お、おはよう。は、はじめましてだね、本条薫さん、だよね? こ、こんな朝から出会うなんて。な、なんだかすごい偶然だね!」
おう。人の家の前で出待ちして出会うのを偶然っていうならな。
そう無言で突っ込んだ後、うんざりした気分のまま相手の顔や格好を確認する。ちゃんと上から下まで確認した結果、こいつはどうやら初めてのやつらしい。だってまず顔に覚えがない。見た目はちょっとジャニーズ系でイケメンの部類。ぱっちりとした二重に、どことなく人にかわいいと思わせるであろう愛嬌のある顔つき。ほどほどに背も高いし、スタイルも細身で運動もそこそこ以上には得意そう。ぱっと見のおれの印象は、なんとなく学年で五番目以内のかっこよさの男前という感じだ。
「えっと……あの、突然なんだけど、あの、あのね? い、いきなりでびっくりするかもしれないんだけど……、僕、君のことが!」
無言のままそんなことを考えていたらこのイケメン野郎、いきなり告白してきやがった。
こいつ頭大丈夫か? と心配になる。着ているブレザーからして高校はこの辺でも有名な進学校のはずなのになぁ。どうやら偏差値と賢さは必ずしも比例しないという学説は正しいらしいことを確認。だってストーカー半歩前、相手の家突き止めて初めての出会い演出して、そして初めてのご挨拶即告白とか、お前はどこの世界の大馬鹿野郎だ。カップラーメンだってお湯を入れてから三分はかかるだろうに、お前はカップラーメン以下か。
だけどそんなカップラーメン男でも、おそらくこいつの人生は今までずっと勝ち組。だってこいつの全身から変な自信がにじみ出てる。誰かに拒絶されるなんてみじんも思っていない感じっていえばわかるかな。理不尽だけど、こいつくらい顔がよくて、あと勉強か運動ができれば子供の世界では高校生くらいまでは大体何とかなるもんだ。理不尽だけど。
それにしてもこいつのアホさ加減はさすがにヒドイ。さすがのおれもドン引きである。最初の出待ち行為とあきらかにアホ丸出しの挨拶だけでもこいつの株はストップ安で取引停止なのに、いきなりの告白なんて本当にどうしようもない。この時点でおれの評価はドン底を突き抜け、底のない奈落の底へと一直線。
これじゃいくら見た目がちょっとジャニーズ系であろうが、学校の偏差値高めだろうがまったくの宝の持ち腐れである。そんな目の前のこいつに心の中で『無駄なイケメン』、略して『無駄メン』のタグを手早くつけたおれは、このカップラーメン野郎の出会って三十秒での暴発を留めるべく、まずじとっとやつの目を見た。
おれの経験上、人間急に目と目が合うと口が動かなくなるから、うるさいやつを黙らせるには割と有効なこの技。今回も上手くいったのか、のどを通り過ぎ舌の上あたりまでいってたっぽい言葉をあわてて飲み込む無駄メン。
一度、ゆっくり目をつぶり、軽く息を吸う。
そしてもう一度、今度は眼力全開で絶対零度もビックリなマイナスベクトルの感情をのせてかすかな希望の浮かぶ奴の目を見ながら、その後はっきりくっきり端的に、
「キモい! 二度とおれの前にあらわれんな! このストーカー予備軍野郎!」
と心温まるメッセージを伝え、その場をさっさと立ち去った。
去り行くおれの背を叩く「ゴッ」という鈍い音。
ちらりと後ろを見ると漫画に出てくる必殺技をくらった悪役、もしくは時代劇で主役に切られた悪代官よろしく、時間差で膝から崩れおちる『無駄メン』がそこにいた。
ベキリという何かが折れた音も一緒に聞こえた気がしたが、多分幻聴だろう。おれは何も悪くない。
ただ、ざまぁみろと小さくガッツポーズだけはしておく。天罰覿面、自意識過剰野郎には当然の報いである。
こうlなって唯一よかったと思うのが、自信過剰気味のイケメン共をこうして地獄に叩き落とせることである。イケメン死すべし。『無駄メン』はもっと死すべし、である。あいつら、本当に救えないからな。今頃おれの背後にはアスファルトと仲良くしている最中の証拠が転がっているだろうが、当然のように放置して学校へ向かう。ただでさえ時間ギリギリなんだからな。
それにしても最近では、おれの家の近くにはけっして近寄らないことというを何とかいいきかせルール化した結果、しばらくああゆう馬鹿の姿をみなかったんだけどなぁ。おそらくあいつはまったくそういった周辺情報などまったく考慮せずに、誰か、例えばあの学校にいったおれの同級生辺りから自宅の場所を聞いてはりこんでいたに違いない。あぁ、こんなことがまだまだ続くのか、と思いさらに気分も足取りも重くなった。心の中の天気はすでにどしゃぶり、雨ザーザーである。
そうして歩くことおよそ五分。おれはうちのある住宅地を抜け、うちの高校にたどり着くには避けては通れない三百メートルほどある長い直線道路に出た。
そこでおれの目に入ってきたのは、今日の二人目というか……歩道のガードレールに沿ってずらりと一列に並ぶ団体さんのお出迎えだった。ざっと……三十人くらい。
「うぉぉぉ! 薫ちゃんがきたぞぉぉ!!」
待ち人――つまり、おれの登場に歓声が上がる。それもまるで空港に降り立った海外スターに騒ぐミーハーな人たちみたいな騒ぎよう。ああいうなのはテレビの中だけで充分。身近に感じるもんじゃない。ましてや日常的となるとそれはもう悲劇である。……他人としてみてる分には喜劇に見えるだろうけど。
そして、タイミング悪くそのときやつらの前を通り過ぎてたうちの女子生徒がそのあまりの大声に大型犬に吠え立てられた子犬のように脅えながら車道へ一時避難、そのまま向かいの歩道へと移動。
ごめんね、二組の山下さん。おれのせいで。
そしてそれが合図であったかのように「ビ~」と何かを知らせる不吉なホイッスルが鳴り響き、登校途中のうちの高校の生徒たちがいっせいに車道を越えて、あちら側の歩道へ移動を完了したその次の瞬間。
「あぁ! 薫ちゃん! 今日もお美しい!」
「今日も一段とかわいいね、薫ちゃん!」
「あぁ……奇跡だ、天使だ、女神様だ!」
「あの長くてつやつやの黒髪……、新雪のような肌の白さ……完璧だ!」
――それは今日もはじまった。
いっせいにおれに向かって話しかけてくる三十人オーバーの野郎ども。やつらの声が右の耳から左の耳へとそのまま素通りするかわりに、どしゃ降りの雨がアスファルトを16ビートで叩く幻聴がかなりクリアな音声で聞こえた。おかしい。雲ひとつない青天のはずなのに。
こうして毎朝毎朝おれをここで待ちぶせし、毎朝懲りずに声をかけてくるこのアホども。とりあえずそんな気持ちの悪いやつらのいっている気持ち悪い台詞は全部無視。なにしろこいつらの共通点は性別と、大小だか強弱だかわかんないけどキモいことだけだからな。
中には、バラの花束をかかえた明らかな社会人や、ランドセルを背負った小学生までいるんだから、日本の将来が本気で心配になる。
まぁ、そんな男たちが、まるで新型携帯の発売を待っているひとたちの行列のように、うちの学校へといたる歩道のガードレール沿いに延々並んでいるのだ。それも全員おれのことを物理的に温度を感じさせるような、それでいてべったりぬっちょりとこびりつくような視線で見ながら。
……気持ち悪い。ただただ、気持ち悪い。それまでおれは主に各ご家庭の台所にはびこるあのGより気持ち悪いものがこの世にあるとは思わなかった。
その慣れることのない気持ち悪すぎる光景と状況に、おれは重量級の溜め息を一つ大きく吐き出すと、一刻も早くこの地獄から脱出する為、両足に力を入れ一気にやつらを全力で無視して列の脇を駆け抜けるために走り出す!
肌に当たる風の圧力が変わり、髪が下向きからやや横向きになる。
だが、そうは簡単には終わらない。
そうやってやつらの前を通り過ぎる時に、「薫ちゃん! この花束を君に!」とか、「本条さん、付き合ってください!」とか「薫! 愛してる!」とかいって、口々に一人づつおれに声をかけてくるまでは(ホントはちっともよかないんだけど!)いいんだが、やつらはおれが通り過ぎたところから、金のガチョウの童話よろしく一列になっておれを追いかけてきやがるのだ!
多分、その光景を上空から見たらJの字にみえると思う。小文字のjの点の部分っていったほうが分かりやすいかもね。
それでもわかんなかったらアヒルの親子の行進。アレを人間がかなりのスピードでやってるのを想像してくれ。
そんなわけで長い傷のかさぶたをはがすように追走してくる野郎ども。必死に逃げるおれ。追う野郎ども。
そのためいつも最後には、四人ほどが並んで歩ける広い歩道いっぱいに広がった野郎どもの集団から逃げ切るため、おれは毎朝学校までの約三百メートル全力疾走するはめになるのだ。
しかもその間も後ろからは、
「薫ちゃん! 一瞬でいいから振り返って!」
「くんかくんか! あぁ、風に乗って薫ちゃんの匂いがするよぉ!」
「走るたびにスカートの下で躍動するその絶対領域! 今日もご褒美ありがとうございます!」
「あぁ、待っておくれ! 僕の恋人!」
とか――怨念さえ感じる、すがりつくような男たちの情念をぶつけられる。おかげで汗だく全力疾走中にもかかわらず全身に感じる悪寒。しかも中に質量ともに結構なレベルの変態が混じってやがるせいで、その寒さ加減はシベリア寒気団も真っ青の代物である。
とにかく何が悲しくて毎朝むさくるしい野郎ども、しかも両手両足の指を足してもまだ足りないほどの大人数の変態どもに追いかけられなきゃならんのか……。
そんなわけで今日も気分は最悪だ!
うざさを振り切るように、わずかに残った力をふとももとふくらはぎに送り込み一気に三百メートルを完走して、学校の校門へと逃げ込んだ!
代償として当然両足はパンパン。息は切れ切れ。ゼーハーって音とドクンドクンって音がやたらうるさい。
だが、これで終わりじゃない。おっかけてくる集団は、よく訓練されたアホどもなので、ちゃんとおれが学校の敷地に入った瞬間諦めて、
「いや~、今日の姫も麗しかったな!」
「いや~今日もこれで一日頑張れる!」
「じゃあ、また明日な! 同志!」
とかうすら寒いこといっちゃってくれながら、三々五々帰っていくんだが……。残念だが、非常に残念だが、おれの朝はまだ終わらない。
しばらくして息が整ってきたおれが腰まで届くほど長くなってしまった髪を書き上げるようにしながら上体を起こすと、そこにはおれを要にしてずらりと扇型に並ぶ県立富ヶ丘高校、通称富高の男子生徒の分厚い壁が今日も元気にそそり立っていた。
おれの視線をふさぐ、男子! 男子! 男子!
先ほどの連中と同種の目をした我が富高のやつらがそこにはいた。
中腰の状態からきちんと立ったおれは、不機嫌全開で扇の右から左へ睨みながら視線を動かしていった。
……だが、こいつらがその程度でひるむわけがない。それどころか、逆にうっとりと、そして食い入るようにおれの顔をみてくるアホどもにもはやため息もでない。それどころかその中の何人かは「目が合った!」とか訳の分からんことをいって嬉しそうに体を震わせてさえいやがるのだ。お前ら、お願いだ。気持ち悪いから消えてくれ、マジで。
これが自分が通う高校の生徒かと思うと、入る高校間違えたか? とも思ったが、さっきの集団の中には近所の高校の制服が一そろい揃っていたのでどこでも同じかと思い直す。
とにかく富高男子生徒およそ百人の倍の目がおれの体に突き刺さったところで、我慢の限界がきた。
おれの心の中は既に地上を離れ、激しい稲光を発し続ける積乱雲の中に。
そして、その日もそこで限界をむかえたおれはたまりにたまった負のエネルギーを吐き出すべく、やたら晴れわたる天に向かって叫ぶ!
あぁ、そうだ!
たとえ髪が腰まであって、黒い絹糸みたいにきれいでも!
たとえ初雪みたいに白くてきれいな肌でも!
たとえ膝上まである黒のニーソックスをはいてても!
たとえ服が学ランじゃなくてセーラー服、つまりスカートはいててでも!
たとえモデルさんたちが泣いて悔しがりそうな素晴らしいスタイルでも!
テレビのアイドルたちが泣いて逃げ出しそうな超のつく美少女顔でも!
たとえ……おっぱいが! ついてても!
女の子の! 体に! なっちまってても!!
「どいつも、こいつも、毎朝、毎朝、飽きもせずに! いってるだろうが!」
そこまでいって大きく息を吸い込む。
そして、
「俺は男だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
その日もおれの魂の絶叫は、虚しく世界の片隅で響き渡る。
とりあえず、見た目と体が美少女になって気づいたこと。
男ってやつは、ほんと、心底、どうしようもない。
――おれの名前は本条 薫(十六歳)。この日からさかのぼる事ほんの二週間前まで、日本中どこを探してもすぐに見つかるようなごく普通の男子高校生だった。
だが何の因果か、ちょっとした親切心が仇となり 悪魔が一緒にするなと集団訴訟を起こすこと間違い無しの、あの性悪神様気取りに捕まっちまったその結果、体だけ絶世の美少女に変えられちまった哀れな高校二年生である。
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