名前も知らない4人
その日の空気は、少しだけ重たかった。
夏の手前。 昼間の熱がまだ残っていて、夜になってもほんのりと暑い。 風はあるのに涼しくはなくて、肌にまとわりつくような感覚だけが残っていた。
駅から少し歩いただけで、シャツの内側にじわりと汗が滲む。
雑居ビルの二階。 細い階段を上がると、古い扉の向こうから低い音が漏れてくる。
ドラムのキック。 歪んだギター。 誰かの笑い声。
全部が混ざって、輪郭のぼやけた“音の塊”になっていた。
ドアを開けると、少しだけ冷たい空気が流れ込む。
受付の奥では、スタッフが慌ただしく動いていた。
「次、3番入りますー」
「マイク一本足りない、どこだっけ」
そんな声が飛び交う。
カウンターの上には使い込まれたファイルと、無造作に置かれたピック。
壁にはライブのフライヤーが何枚も重なって貼られている。
初めて来た場所のはずなのに、音だけがやけに生々しく耳に残った。
案内されたスタジオは、一番奥の部屋だった。
その扉の前で、ほんの少しだけ足が止まる。
中からは、わずかに機材の触れる音が聞こえる。
ドアノブに手をかけたまま、呼吸をひとつ整える。
――大丈夫。
そう思ったのか、そう思おうとしたのかは分からない。
少しだけ力を込めて、扉を開けた。
白い蛍光灯。
吸音材の貼られた壁。
少しくぐもった空気。
アンプの電源が入る音が、やけに大きく響いた。
先に来ていた三人が、それぞれの位置で準備をしていた。
視線が一瞬だけ交わる。
けれど、すぐに逸れる。
挨拶らしい言葉はない。
まだ、名前も知らない。
チューニングの音が、短く鳴る。
弦を弾く音。
スネアを軽く叩く音。
ベースの低い確認音。
全部が、どこか遠い。
課題曲は、有名でシンプルな曲だった。
誰でも知っている。 難しくもない。
だからこそ、誤魔化しがきかない。
ほんの少しのズレも、すぐに分かる。
「……準備いい?」
小さな声が、空気に落ちる。
誰が言ったのかは分からない。
でも、それで十分だった。
ドラムのカウント。
ギターが乗る。
ベースが支える。
ドラムの音が重なる。
ちゃんと鳴っている。
ちゃんと揃っている。
リズムも、タイミングも、間違っていない。
――なのに。
何も、引っかからない。
音は流れていく。 綺麗に、正確に、予定通りに。
でも、それだけだった。
どこにも刺さらない。 どこにも残らない。
ただ、終わっていく。
最後のコードが鳴り終わる。
余韻は、すぐに消えた。
誰も、何も言わない。
良かった、とは思わなかった。
悪い、とも思わなかった。
ただ、
何もなかった。
アンプのノイズが、静かに鳴り続ける。
その音だけが、やけにリアルだった。
誰かが視線を落とす。 誰かがストラップを直す。
些細な動きが、妙に大きく見える。
――これでいいのか。
口には出さない。
でも、同じ違和感が、この部屋のどこかに確かにあった。
そのとき。
「あれやってよ」
ギターを持った華奢な女の子が言った。
微動だにせずゆっくりと息を吸った。
ほんのわずかに、空気が揺れる。
まだ音にはなっていない。
それでも確かに、
何かが始まりそうだった。
理由なんて分からない。
でも、
このあと、
全部が変わる。
そのことを、
このときの自分たちは、まだ知らない。




