第9話 もう遅いですよ?
「ナターシャ! 頼む、戻ってきてくれ!」
レオンハルトの声が、薬草畑に響いた。
三日後の朝、彼らは本当に来た。
レオンハルトとセレーナの二人。馬車を降りて、真っ直ぐ私の小屋に向かってきた。レオンハルトは以前と同じ金髪碧眼だけれど、頬がこけている。装備も少し傷んでいる。聖剣の鞘に小さな傷がついていた。あの完璧主義のレオンハルトが装備の手入れを怠るなんて、よほど余裕がないのだろう。セレーナは相変わらず派手な格好だが、目の下に隈があった。爪も少し欠けている。
マーサが雑貨屋の窓からこちらを見ているのが、視界の端に映った。村の子供たちも遠巻きにしている。小さな村に派手な馬車が来れば、そりゃ目立つ。
私は薬草畑にいた。陽炎花の苗床に水をやっていた。
「お久しぶりです、レオンハルト様」
如雨露の水を止めずに言った。
「ナターシャ、頼む。パーティーに戻ってきてくれ。お前がいないと」
「市販品では十分ではなかったようですね」
レオンハルトの顔が歪んだ。
「ああ……俺が間違っていた。お前のポーションがどれだけ重要だったか、今はわかっている。ガルドも重傷を負った。スポンサーも離れた。このままじゃ魔王討伐どころか、Sランクダンジョンにも入れない」
「大変ですね」
如雨露の水が空になった。小屋の横の水瓶から汲み直す。レオンハルトが話している間も、私は手を止めなかった。
「ナターシャ、聞いてくれ」
「聞いていますよ。ただ、水やりの時間なので」
セレーナが前に出た。
「ナターシャ、あなたがいなくなったからこうなったのよ! 責任感じないの?」
如雨露を置いた。セレーナの顔を見た。
「責任、ですか」
声が穏やかなのは、自分でも意外だった。怒りは、もう燃え尽きていた。あの夜、薬草を潰して泣いた時に、ルークの焦げたパンを食べた時に、全部出し切った。今はもう、凪いでいる。
如雨露を下ろして、エプロンで手を拭いた。土の匂いがする。この匂いが、今の私の日常だ。
「私が追放された日、ポーションの在庫リストと調合メモをお渡ししようとしたのを覚えていますか」
セレーナが口を閉じた。
「レオンハルト様が『いらない』とおっしゃいました。セレーナさんは『私が適当に作れるから大丈夫よ』とおっしゃいました。覚えていらっしゃいますよね」
沈黙。
「引き継ぎを断ったのは、そちらです。私は責任を果たそうとしました。拒否されたんです」
レオンハルトが膝をついた。
土下座だ。勇者が、薬草畑の土の上に額をつけている。
「俺が悪かった。全部、俺の判断ミスだ。だから」
「ええ、知ってます」
如雨露を持ち上げて、次の畝に移った。陽炎花の芽がまだ小さいから、水は少なめにしないといけない。多すぎると根が腐る。
「でも、もう遅いですよ?」
レオンハルトが顔を上げた。
「ごめんなさい、今ちょっと忙しいんです。この子たち、水やりの時間ずらすと機嫌悪くなるので」
「この子たちって……薬草の話か?」
「ええ。薬草は繊細なんですよ。決まった時間に水をもらえないとすねるんです。人間より素直ですけどね」
セレーナが叫んだ。
「薬草と人間の命を天秤にかけてるの!?」
「天秤になんかかけていませんよ」
振り返った。
「ガルドさんの解毒レシピは、匿名で薬師ギルドに提供しました。命に別条はないと聞いています。それ以上のことは、もう私の仕事ではありません」
レオンハルトが立ち上がった。土がついた膝を払いもしない。
「あのレシピ……お前だったのか」
「私かどうかは重要ではありません。大事なのは、ガルドさんが助かったことです」
レオンハルトの目に、何かが光った。後悔かもしれない。でも、もう関係ない。
「ナターシャ。せめて条件を聞いてくれ。報酬は倍にする。パーティー内の待遇も」
「いりません」
きっぱりと言った。
「私はもう冒険者じゃありません。ここの嘱託薬師です。この村の人たちの健康を守るのが、今の私の仕事です」
それにしても、この陽炎花の色、今年は特にいいですね。まだ芽の段階だけれど、茎の色が濃い。いい薬草に育ちそうだ。
レオンハルトが何か言おうとして、やめた。
セレーナが彼の袖を引いた。二人は黙って、馬車に戻っていった。
馬車の車輪が砂利を踏む音が遠ざかっていく。振り返らなかった。
ミーナが走ってきた。
「ナターシャ先生、あの人たち誰? 怖い人?」
「怖い人じゃないですよ。昔の知り合いです」
「先生、どこかに行っちゃうの?」
「行きません。ミーナちゃんの薬草教室、来週もやりますからね」
ミーナがほっとした顔で笑った。小さな手を振って、走っていく。マーサが雑貨屋の窓から「やるじゃないの」と小さく拍手していた。
◇◇◇
夕暮れ。
畑の柵に、ルークがもたれていた。いつからいたのかわからない。
元パーティーの来訪を、どこかで見ていたのだろう。
「……終わったか」
「ええ。帰りました」
沈黙。ルークがこちらを見ている。いつもは逸らす目を、今日は逸らさない。
「帰るなら……止めない」
その声が、少し震えていた。
ルークは、止められないのだ。止めたいけれど、止める権利がないと思っている。私の人生は私のもので、ルークが決めることじゃないと。
不器用だ。どこまでも不器用な人だ。
水路を掘って、薬草を摘んで、パンを焼いて。全部、「ここにいてほしい」を行動で伝えていたのに、いざという時に「止めない」しか言えない。
でも、その不器用さが、今はたまらなく嬉しかった。
「戻りません」
ルークの目が、ほんの少し大きくなった。
「ここが私の場所です。この畑と、この村と、隣のルークさんの畑が見える場所が」
少し間を置いて、付け加えた。
「それに、ルークさんが掘ってくれた水路がせっかくあるのに、使わないのはもったいないですから」
ルークの表情が崩れた。
初めて見た。この人が顔をくしゃっとさせるのを。笑っているのか泣きそうなのかわからない顔。マーサが「初めて笑った」と言っていた、あの顔がこれなのかもしれない。
「……そうか」
それだけ言って、ルークは自分の畑に戻っていった。
背中が、夕焼けに染まっていた。
いつもより歩幅が大きい気がした。
夜、小屋でハーブティーを淹れた。ほろ苦くて、少し甘い。いつもの味だ。でも今日は、なんだかいつもよりおいしかった。




