第8話 畑が枯れたら困る
畑の端に、知らない水路があった。
朝の水やりをしていて、ふと気づいた。薬草畑の東側を沿うように、幅三十センチほどの溝が掘られている。溝の底には小石が敷き詰められていて、水が細く流れている。山の湧き水を引いてきたらしい。
いつからあったんだろう。
昨日までは。いや、もしかしたら昨日もあったのかもしれない。私は方向音痴なだけでなく、足元の観察力も怪しい。
でもこの水路、相当な労力だ。溝を掘って、石を敷いて、水源から畑まで水を引く。一日や二日じゃできない。
「マーサさん、うちの畑の横に水路ができてるんですけど、あれは村の整備ですか?」
買い物ついでに聞いてみた。
マーサが眼鏡越しにこちらを見て、蜂蜜クッキーの缶を棚に戻した。
「あれね」
「はい」
「ルークよ」
「……え?」
「あの子が夜中に掘ってたわよ。あんたが来てからずっと」
ずっと。
あの夜に聞いた、カンカンという金属の音。あれだったのか。
「一ヶ月以上、毎晩?」
「毎晩じゃないかもしれないけどね。でも、かなりの間やってたわ。昼間は自分の畑があるから、夜しか時間がないでしょう」
マーサが椅子を引いて、私を座らせた。お茶を出してくれた。いつもの蜂蜜入り。
「ナターシャ、あの子のこと、少し話してもいいかしら」
頷いた。
「ルークはね、元冒険者なの。Cランク。腕はそこそこだったらしいけど、三年前に辞めて村に戻ってきた」
「辞めた理由は」
「ご両親よ。二人とも疫病にかかってね。薬師が間に合わなかったの」
息が詰まった。
「流行り病がこの辺を襲った年があってね。ルークはダンジョンの奥にいて、知らせが届いた時にはもうお母さんの方は手遅れだった。お父さんは一ヶ月持ったけれど」
マーサが言葉を切った。蜂蜜の瓶を手で弄んでいる。
「ルークは一ヶ月間、お父さんのそばを離れなかった。冒険者を辞めて、ずっと看病して。街から薬を取り寄せたけど、届いた時にはもう遅かった。ルークは看病しながらずっと薬草の本を読んでいたわ。独学で、一人で。でも間に合わなかった」
マーサの声が小さくなった。窓の外を見ている。ルークの畑が見える方角だ。
「それからあの子は、ほとんど誰とも喋らなくなった。畑を一人で耕して、買い物もうちに来るだけ。三年間、ずっとそうだった」
「あの子はね、両親を看取れなかったことをずっと悔やんでいたの。自分がもっと薬草に詳しかったら、自分が薬を作れたら、って」
ルークが薬草に詳しい理由。夜明け前に銀露草を摘める理由。私の畑に水を撒いてくれる理由。
全部、繋がった。
「薬師さんが隣に来てくれてね。初めてあの子が笑ったのよ」
「笑った?」
マーサが頷いた。
「あなたが来てから、あの子は変わった。水やりだの、野菜の差し入れだの、水路まで掘って。昔のあの子じゃ考えられないわ」
ルークが笑った顔を、私は見たことがない。いつも無表情か、せいぜい耳が赤くなるくらいだ。
「ルークは」
マーサが私の手を握った。しわだらけの、温かい手だった。
「あんたにここにいてほしいのよ。不器用だから、言葉じゃ言えないだけ」
◇◇◇
小屋に戻って、畑の端の水路をもう一度見た。
丁寧な仕事だった。石の一つ一つがきちんと噛み合っている。水の流れが畑全体に行き渡るように、微妙な傾斜がつけてある。元冒険者の体力と、農家の知識がなければ作れない水路だ。
指で水に触れた。冷たくて、きれいな山の水。この水で私の薬草が育つ。ルークが夜中に掘った水路を流れる水で。
水やりの時間が、毎日少しずつ早くなっていた理由。
「ついでだ」と嘘をついてまで、反対方向の畑に来ていた理由。
薬草に詳しかった理由。
全部、全部。
目頭が熱くなった。
ルークの水やりが毎日少しずつ早くなっていたのは、私に会いたかったから。
「ついでだ」と嘘をついてまで反対方向に来ていたのは、私のそばにいたかったから。
水路を掘ったのは、私にここにいてほしかったから。
薬草に詳しかったのは、もう大切な人を失いたくなかったから。
月見草の葉を無意識に握りしめていた。
「……あ、ごめんなさい、月見草ちゃん、痛かったですよね」
手を開いた。月見草は少ししなびていたけれど、大丈夫そうだ。
ルークは畑にいた。いつもの場所で、いつものように鍬を振っている。
私はルークの畑まで歩いていった。柵の前で立ち止まった。
「ルークさん」
鍬が止まった。
「水路、見ました」
沈黙。
「……マーサか」
「はい。全部聞きました」
ルークがこちらを向いた。目が合った。逸らさなかった。
「なんでそこまでしてくれるんですか」
長い沈黙だった。
夕暮れの光がルークの横顔に当たっている。唇が動いた。何かを言おうとして、やめて、もう一度動いた。
「……畑が、枯れたら困る」
畑。
畑が、枯れたら困る。
その言葉の意味を、私はちゃんと理解した。ルークが言っているのは畑のことじゃない。
ルークの耳が、今まで見た中で一番赤かった。目を逸らして、鍬を握り直して、また畑に向き直った。
何も言えなかった。胸の奥がじんわりと温かくて、言葉が見つからなかった。
ルークが私を必要としているのは、私の薬師としての腕ではない。
パーティーでは「ポーションを作れる自分」だけが求められていた。作れなくなったら、いらないと言われた。でもルークは、ポーションの一本も頼んだことがない。畑に水を撒いて、野菜を置いて、水路を掘って。ただ、隣にいたかっただけ。
私という人間を、初めて丸ごと受け止めてくれている人がいる。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、自分の畑に戻った。
◇◇◇
夜。
マーサの孫から、もう一通メモが届いていた。
『匿名レシピの解毒法でガルドさんの毒が中和できたそうです。まだ予断は許しませんが、命に別条はないとのこと。追伸:マーサおばあちゃんから「元パーティーの連中が、リンデン村に向かってるらしい」と伝えてほしいそうです』
手紙を置いた。
来るのか。
レオンハルトたちが、ここに。
三ヶ月前、「市販品で十分だ」と言って私を追い出した人たちが、薬草畑の向こうからやってくる。
怖くはない。怖くはないけれど、面倒くさい。
冬凪草の銀色の葉が、窓辺で静かに揺れていた。もう十センチを超えている。花が咲くのは、もう少し先だ。




