第7話 反対方向に一時間
隣村への道は、銀露草の甘い匂いがするはずだった。
「するはず」なのに匂いがしないということは、私が今まさに見当違いの方向に歩いているということだ。
マーサから「隣村ヴァルトの鍛冶屋さんの奥さんが腰を痛めていて、湿布薬があれば助かるって」と頼まれたのが今朝のこと。隣村は北東に歩いて四十分。村を出て、林の中の一本道を行けば迷いようがない、とマーサは言っていた。
迷いようがない、と言ったのに。
私は今、どこにいるのだろう。
周囲は見覚えのない草原だ。林はとっくに抜けてしまった。太陽の位置からすると、南に向かっている気がする。北東に行きたいのに南。真逆だ。
薬草の匂いで方角を判断する作戦を試みた。銀露草は北東の斜面に多いから、匂いがする方に歩けばいいはずなのだが、風向きが変わるたびに匂いの方角が変わる。
結局、匂いに従って歩いた結果、一時間かけて反対方向に来てしまった。
足が痛い。革の靴の底が薄くて、石ころが当たるたびにじんじんする。座り込みたいけれど、座ったら二度と立てない気がする。日が高くなって、額に汗がにじんでいる。持ってきた水筒の水もそろそろ心もとない。
冒険者時代はパーティーの先頭をレオンハルトが歩いていたから、道に迷うことはなかった。後をついていけばよかった。自分で方角を考える必要がなかった。
それはそれで、なかなか情けない話だけれど。
「……これは、困りました」
困ったけれど、笑ってしまった。Sランクダンジョンの奥で毒耐性ポーションを調合できるAランク薬師が、隣村に行く道で遭難しかけている。おかしい。おかしいけれど、本当に困っている。
あ。
道の脇に、見たことのない薬草が生えていた。
しゃがみ込んで観察する。細い茎に、星型の青い花。葉の裏に銀色の産毛がある。これは、もしかして、星辰草?
鎮痛効果が高い希少種で、薬師ギルドのカタログでは「辺境でまれに自生」としか書かれていない。
「迷ったおかげで見つけた……!」
興奮して数株を丁寧に採取していると、背後から足音がした。
「……こっち」
ルークだった。
振り返ると、ルークが三歩後ろに立っていた。作業着のまま、少し息を切らしている。走ってきたのか。
「ルークさん! どうしてここに」
「畑にいなかったから」
つまり、見ていた。私が畑にいないことに気づいて、探しに来た。反対方向に一時間も歩いた私を。
「すみません。方向音痴なもので……」
「知ってる」
知ってるのか。そりゃそうだ。畑を三周した前科がある。
ルークが先を歩き、私はその背中について行った。ルークの歩幅は大きくて、少し早歩きしないと追いつけない。でも時折、ちらりとこちらを振り返って、歩調を緩めてくれる。
「あの、ルークさん。さっきの場所で星辰草を見つけたんです。鎮痛効果が高い希少種で」
「……ああ、あの青い花」
「ご存知なんですか?」
「南の草原に何箇所か生えてる。場所は教える」
「本当ですか! ありがとうございます!」
ルークの足が一瞬止まった。それから、また歩き出した。
「……迷うから一人で行くな」
「はい。あ、それって一緒に行ってくれるということですか?」
長い沈黙。
「……考えておく」
考えておく。この人の「考えておく」は、だいたい「はい」だということを、私は最近学んだ。
◇◇◇
隣村ヴァルトに着いたのは、結局ルークのおかげだった。
鍛冶屋の奥さんに湿布薬を渡すと、すごく喜ばれた。「リンデン村に薬師さんが来たって聞いて、ずっとお願いしたかったの」と言われた。
大きな仕事じゃない。湿布薬ひとつ。でも、それで痛みが楽になる人がいる。それだけで十分だ。
帰り道はルークが一緒だったので迷わなかった。道中、ルークは薬草の自生地をいくつか教えてくれた。言葉は少ないけれど、的確だ。この人は本当に薬草に詳しい。なぜだろう、とまた思ったけれど、聞かなかった。
途中、小さな川を渡った。ルークが先に岩を渡って、振り返った。手を差し出すのかと思ったけれど、差し出さなかった。代わりに、足場の良い岩を指差してくれた。
「そこ。その次は右の平たいやつ」
指示通りに渡った。一度も滑らなかった。
「ルークさん、ガイドの才能ありますよ」
「……ない」
「方向音痴の私がまったく迷わなかったのは、ルークさんが上手だからです」
ルークが足を速めた。逃げている。褒められると逃げる人だ。
◇◇◇
小屋に戻ると、一通の書状が届いていた。
薬師ギルドの正式な封蝋。中を開くと、丁寧な書体で書かれた文面が目に入った。
『辺境リンデン村在住のナターシャ・リンデル殿。先日の魔瘴熱治療の報告に基づき、薬師ギルド辺境支部の嘱託薬師としての就任を打診いたします。報酬は月額金貨三枚。職務内容はリンデン村および近隣五村の薬事相談。詳細は同封の書類をご確認ください。薬師ギルド辺境支部長』
嘱託薬師。
月額金貨三枚。冒険者時代のパーティー分配金より少ないけれど、辺境の物価を考えれば十分すぎる。それに安定している。ダンジョンに潜らなくていい。毒と隣り合わせの日々とは無縁だ。
何より、自分で選んだ仕事だ。誰かの「枠」に入れてもらうのではなく、私が私として求められている。
畑の薬草で暮らして、近隣の村の人たちの健康を守る。祖母がやっていたことと同じだ。
「……これで、やっていけるかもしれない」
声に出して言ってみた。
やっていける。ここで。この村で。この畑で。
窓の外では、ルークがいつもの場所で鍬を振っている。夕日を浴びた背中が、やけにまぶしかった。
嘱託薬師の書状を調合台の引き出しにしまった。その横に、マーサ経由で届いた小さなメモがあった。
マーサの孫からだ。
『レシピ、薬師ギルドに届けました。匿名で受理されたそうです。「画期的な手法だ」と話題になっているとのことです。マーサおばあちゃんの孫より』
ガルドが助かるかどうかは、まだわからない。でも、私にできることはした。それでいい。
夜、星辰草の花弁を乾燥ラックに吊るしながら、ふと思った。
迷子にならなかったら、星辰草は見つからなかった。
人生、どこで何が役に立つかわからない。方向音痴も悪いことばかりじゃない。
いや、やっぱり治したい。次はルークがいない時に迷ったら、本当に遭難する。




